# 般若心経を読む ## はじめに 皆さんお久しぶりです,鳴山電話です. 長い事「サークルのこの discord の通話とか入りたいけど俺入って良いのかな」って思ってたやつにようやく入れたので,流れで記事も書く感じになりました.せっかくなのできゅーくんをせっつくためにも般若心経の記事でも書こうと思います. 私はそこまで仏教に明るいわけでもないので,私の分かる範囲で般若心経の対訳をしていきます. 間違ってたらこっそり教えてください. ## 本文 般若心経の本文は,概ね 4 つの部分でできています. 1. <ruby>五蘊<rt>ごうん</rt></ruby>はすべて<ruby>空<rt>くう</rt></ruby>である 2. 五蘊がすべて空であるときあらゆるものは空である 3. これらを知った仏さまは<ruby>涅槃<rt>ねはん</rt></ruby>に至った 4. <ruby>般若波羅蜜多呪<rt>はんにゃはらみたしゅ</rt></ruby>はすごいのでみんなで唱えよう ### 五蘊はすべて空である > <ruby>観自在菩薩<rt>かんじざいぼさつ</rt></ruby> <ruby>行深<rt>ぎょうじん</rt></ruby> 般若波羅蜜多 時 <ruby>照見<rt>しょうけん</rt></ruby> <ruby>五蘊皆空<rt>ごうんかいくう</rt></ruby> 度 <ruby>一切苦厄<rt>いっさいくやく</rt></ruby> 「行深」は「修行に専念する」 「照見」は「見極める」 「度」は「解放される」 といった意味なのでここは 「観音菩薩さまが般若波羅蜜多の修行に専念していたとき,五蘊が皆空であることを見極め, 一切の苦厄から解放された」と言っていますね 「般若波羅蜜多」というのは悟りを得る 6 つの段階 (六度) の最後のものです. 「五蘊」というのは,人間が物事を認識する段階を仏教的に捉えたもので, 「<ruby>色<rt>しき</rt></ruby>,<ruby>受<rt>じゅ</rt></ruby>,<ruby>想<rt>そう</rt></ruby>, <ruby>行<rt>ぎょう</rt></ruby>, <ruby>識<rt>しき</rt></ruby>」の 5 つからなります. それぞれの説明は今回は省略します.ちゃんと覚えてないので. このあと舎利子 (弟子) に対して観音さまが五蘊皆空を説きます. > 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識<ruby>亦復如是<rt>やくぶにょぜ</rt></ruby> 色不異空 ~ 空即是色はすべて同じく「色 = 空」と言っています. その後の「受想行識亦復如是」は直訳すれば「受想行識も同様である」ですね. つまり,人間の認識というのは空です,と言っています. > 舎利子 是 諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 「是」は「このように」あたりです. 「このように,この世のあらゆる物事は空なので,生滅, 垢浄, 増減 もまたまやかしです」 ぐらいのニュアンスになるでしょうか. ここからはこの五蘊皆空の詳説になっていきます. ### 五蘊がすべて空であるときあらゆるものは空である > 是 故 空中 無色無受想行識 無<ruby>眼耳鼻舌身意<rt>げんにびぜっしんに</rt></ruby> > 無<ruby>色声香味触法<rt>しきしょうこうみそくほう</rt></ruby> 「故」は「ゆえに」になります.このあとたくさん出てきます. 「是故」は「これゆえ」とそのまま読んでもよさそうですね. 色受想行識が空のとき,「眼耳鼻舌身意」「色声香味触法」も空だと言っています. これはご想像の通り,五感 + 意識の話です. 人の感覚は空なので,その感覚によって捉えられる世界もまた空です. > <ruby>無眼界<rt>むげんかい</rt></ruby> <ruby>乃至<rt>ないし</rt></ruby> <ruby>無意識界<rt>むいしきかい</rt></ruby> <ruby>無無明<rt>むむみょう</rt></ruby> <ruby>亦<rt>やく</rt></ruby> <ruby>無無明尽<rt>むむみょうじん</rt></ruby> <ruby>乃至<rt></rt></ruby> <ruby>無老死<rt>むろうし</rt></ruby> <ruby>亦<rt></rt></ruby> <ruby>無老死尽<rt>むろうしじん</rt></ruby> 目に見える世界,感じられる世界も, 「無明」も,「無明」が尽きることも, 「老死」も,「老死」が尽きることも,すべて空だと言っています. 「無明」「老死」はそれぞれ,仏教で言う苦の発生機序の最初と最後にあたります. 完全に余談ですが,「無無明亦無」を仮に訳すなら「無明はなく,また無」なので意味が通らなくなりますね. > 無<ruby>苦集滅道<rt>くしゅうめつどう</rt></ruby> 無智 亦 無得 以 無所得 「苦集滅道」はそれぞれ「苦しみ」「苦しみの原因」「苦しみを取り去った状態」そして 「苦しみを取り除く道」ですね. 「智」は悟り,「得」はそれを得ること,「所得」は悟りを得る主体です. まあ,仏教絡みの概念も大概空だよとしつこいぐらいに言っています. ### これらを知った仏さまは涅槃に至った > 故 <ruby>菩提薩埵<rt>ぼだいさった</rt></ruby> <ruby>依<rt>え</rt></ruby> 般若波羅蜜多 故 <ruby>心無罣礙<rt>しんむけいげ</rt></ruby> <ruby>無罣礙<rt>むけいげ</rt></ruby> 菩薩さまはこの般若波羅蜜多によって,「罣礙」をなくせました. 「罣礙」というのは妨げやひっかかりのことなので, 心の引っ掛かりや迷いを取り去ることができたということです. > 故 <ruby>無有恐怖<rt>むうくふ</rt></ruby> <ruby>遠離<rt>おんり</rt></ruby> 一切<ruby>顛倒夢想<rt>てんどうむそう</rt></ruby> <ruby>究竟涅槃<rt>くぎょうねはん</rt></ruby> 心に罣礙がないので,恐怖もなく,一切の妄想からも離れ,「涅槃」に至っている. この「涅槃」というのが悟りを得,現世から離れた状態ですね. > <ruby>三世諸仏<rt>さんぜしょぶつ</rt></ruby> 依 般若波羅蜜多 故 得 <ruby>阿耨多羅三藐三菩提<rt>あのくたらさんみゃくさんぼだい</rt></ruby> 三世諸仏も,般若波羅蜜多によって,阿耨多羅三藐三菩提を得ています. 「三世諸仏」はあらゆる世界の仏さまたち,「阿耨多羅三藐三菩提」も概ね「究竟涅槃」と似たような意味です. ### 般若心経はすごいのでみんなで唱えよう > 故 知 般若波羅蜜多 <ruby>是大神呪<rt>ぜだいじんしゅ</rt></ruby> <ruby>是大明呪<rt>ぜだいみょうしゅ</rt></ruby> <ruby>是無上呪<rt>ぜむじょうしゅ</rt></ruby> <ruby>是無等等呪<rt>ぜむとうどうしゅ</rt></ruby> > <ruby>能除一切苦<rt>のうじょいっさいく</rt></ruby> <ruby>真実不虚<rt>しんじつふこ</rt></ruby> 般若波羅蜜多は,大いなる呪文, 悟りの呪文, 無上の呪文, 比べるもののない呪文であり, 一切の苦しみを取り除き,偽るところのない真実であることを知れ. > 故 説 般若波羅蜜多呪 <ruby>即説呪曰<rt>そくせつしゅわつ</rt></ruby> 般若波羅蜜多に至る呪文は曰く, > 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 「ギャテイギャテイハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ」 ## 般若心経の空の話 「すべては無だよ」と思うと少し理解しづらい気がしたので, ちょっとだけ「空」の話をします. 仏教の「空」は,「無である」という主張ではなく,「絶対的な本質を持たないもの」 「移ろうもの」といったニュアンスを持ちます. 般若心経に「無」という語は何度も出てくるのですが,どうにもこの「無」は 本当に否定を表している場合と,「空」を表している場合があるようです. (ここ訳の不安ポイントでもあるのでご指摘お待ちしてます) 「すべては無」というより,「すべては移ろうもの」ぐらいに考えれば, かなり受け入れやすくなるんじゃないでしょうか. ## さいごに 私は概ね「我々の認識は移ろいやすいものなので,信じられたもんじゃないよ」ぐらいの感じで 捉えて生きています. 「観自在菩薩 行深 般若波羅蜜多 時 照見 五蘊皆空」 「三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提」 「般若波羅蜜多 ~ 真実不虚」 あたりがわかっていれば,もう多分私と同じぐらいの理解度はあります. 皆さんも私のように軽率に仏教を語って教養人ぶりましょう.