# 母の仮面が苦しいあなたへ 「自分」は今もそこにいる 金原ひとみ > 寄稿・金原ひとみさん 小説家 休日の昼下がり、編集者が日本から送ってくれた本の束から一冊選び、ベッドに横になって読みながら、眩(まぶ)しくて電動シャッターを少し下ろした。本は緩やかに面白みを増し、このまま昼寝でもしてしまおうかと思ったその瞬間、唐突に郷愁を感じて文字を追う視線を宙に泳がせた。 「そうか、私はこんな感じだった」 そう気づいて、何かが胸から全身に広がっていくのを感じた。それまでも少しずつ戻りつつあったのだろうけれど、はっきりと認識したのはこの日が初めてで、それはつまり、「子供を産む前の自分」と邂逅(かいこう)した瞬間だった。 ## 「今日を乗り越える」の繰り返し もう会えないのかと思ってた。全然変わってないね。ていうかまだ生きてたんだ。そんな、腐れ縁の悪友に再会したような気分だった。そしてこれを機に、私は急速に「かつての自分」を取り戻していくこととなる。第1子が8歳、第2子が5歳の時だった。 第1子は、子供を持つことにまだ前向きではなかった私の意思に反して、配偶者が望んでできた子供だった。生まれてしまえばその存在を覆すことはできず、出産したからこの小説が書けた、妊娠出産育児の当事者としてあらゆる体験ができた、何より唯一無二の我が子と出会えた、という結果論としての利点もあり、だからこそ出産そのものを批判的に捉えることは難しい。しかし結果論とは全く別の次元で、アイデンティティーを大きく左右する事象に関して自分の意思が通らなかったことは、人生に対するコントロール感覚をそぎ、尊厳を奪われたと感じるに十分だった。この時の配偶者への不信感はわだかまりとして残り、時代が変わり、価値観や人権意識がアップデートされていく中で今なお肥大を続けている。 産後、配偶者は多忙で長女は睡眠と授乳以外の時間はほぼ泣いている赤ん坊だったため、壮絶なワンオペ育児となった。当時はワンオペ育児という言葉もなく、同じような家庭がたくさんあり、クレバーで気の強い編集者ですら「旦那はいないものと思えば、たまに育児を手伝ってくれた時に感謝できる」と話していた時代でもあった。産後、どんな無理も受け入れざるを得なくなるほとんどの女親に対し、外部に存在し、たまに家に片足を突っ込むお手伝いさんのような男親が羨(うらや)ましく、ほとんど憎んですらいた。 デビューから4年、複数の出版社と仕事を始めたところだった私は、出産で失速したくないという思いと、24歳の体力によって産後2カ月で執筆を再開したが、その結果配偶者との「壮絶な仕事時間の奪い合い」となり、生きる糧であった恋愛関係は終わり、頼れる親族もおらず、子持ちの友達もおらず、赤子と地下室に閉じ込められているかのような閉塞(へいそく)感の中で育児と執筆を続けた。「家でもできる仕事」「女親の方が育児に向いてる」、といった、育児を何も理解していない人の言葉一つ一つが、酸素を薄くさせた。目の前の赤ん坊を生き延びさせることしか考えられない拷問のようだった。 産後うつに陥った私は、長女が赤ん坊のころ何度も自殺への衝動に駆られた。理由なき自己嫌悪と責任の重さへの恐怖で正気が保てず、万力で身体中を締め付けられ、バチンと体内のものが飛び散る寸前のところで、今日を乗り越えることだけを繰り返していた。産後うつで自殺した人や、虐待のニュースを見ると、これは設定が一つ違っただけの私、と思わずにはいられなかった。 ## 「子供の存在が支え」というジレンマ 母となってからのよりどころのなさは、どこにいても付きまとった。赤ん坊と閉じこもっていれば息苦しく、しかし外に出ても厳しい目が向けられる。たばこを吸ったり、飲み歩いたり、派手な服装をしても眉をひそめられ、30回中1回だけ配偶者に子供を病院に連れて行ってもらえば「お父さん偉いですね」という言葉をかけられ29回一度も褒めてもらえなかった私の立場は常になく、どこに行っても泣く子は煙たがられ、家でも外でも温かい飯にはありつけず、心なき育児ロボットとして扱われている気しかせず、いつしか自分もそう自己認識をしていた。当時、母になって良かったことは、子供に出会えたことだけだった。育児に苦しんでいるのに、子供の存在が私を支えているというジレンマにもはち切れそうだった。 きっと多くの母親たちが同じ閉塞感、孤立感に苦しんでいたはずだけれど、子供を生かすことに必死な人々には他の人の声は届かない。この十数年でTwitterなどのSNSで育児当事者同士がつながったり、思いの丈を吐露できる環境が整い、当事者のみならず子供を望んだり検討したりする人々の目にも入るようになったことは、SNSによって生じる別の問題を差し引いても素晴らしいことだ。ワンオペ育児という言葉の誕生も、その言葉を使い当事者の体験が語られ続けることで、そこに多くのニュアンスが塗り込められ、個人ではなく社会の問題であると実感できるようになった。 孤立していた私の産後初めての救いは、保育園だった。0歳児の保育園入所には批判の声もあるようだが、当時も今も、「命が消えるのを防げた」という感想しかない。「何時から何時まで責任を持って預かってくれる」という保証のある施設に、私は命を救われた。保育士の待遇が悪いことには、憤りを禁じ得ない。人の精神、生活を支える仕事が正当に評価されないことは、「身を粉にして育児をするのが当たり前」という世間から女親に向けられる軽視とよく似ている。 子供は可愛いし後悔はない、しかしそれとは別の次元で、人をあれほどまでに追い詰める育児は、この世にあってはならないと断言できる。保育園に入所できたこと、経済的に困窮していなかったこと、このどちらかが欠けていたとしたら、私はほぼ確実に、育児の季節を生き延びることはできなかっただろう。あれはそれほどまでに、非人道的な生活だった。 もちろん条件が違えば、育児は全く違う様相を呈する。頼れる実家や義実家の有無、自分と配偶者の体力、精神的時間的余裕、経済力、双方の職場の理解、寝る寝ない体が強い弱い、など子の個人差、これら条件の組み合わせにより、育児はイージーにもベリーハードにもなり得る。自分で選び取れる条件だけではないからこそ、出産育児は常に綱渡りとも言えるが、現実的に考えれば、私たちには条件が欠け過ぎていた。 ## 「母」のペルソナとは 長女が生まれてから2人目が5歳になるまでの8年間、私は執筆している時以外ずっと「母」のペルソナをかぶっていたのだろう。今、16歳と12歳の子供と共に暮らす生活の中では、それはたまに子供たちに倫理的指導が必要な時にかぶるだけのものとなった。今は配偶者と離れ、何者かを生かす装置としてではなく、私は完全な個として生きている。一人でご飯を食べられるようになった時、要望を言葉で伝えることができるようになった時、手を繋(つな)がなくても外を歩けるようになった時、あらゆるタイミングで少しずつ「母」のペルソナは薄れ続けていたのだろう。あのフランスのベッドの上で邂逅した私は少しずつシェアを広げ、ほとんど変化しないまま、今もここにある。 それは14歳くらいの頃に、「自分はこういう人間だ」と認識した自分からあまり変わっていない。世間的、社会的なものに適応できず、あらゆるものが許せなくて、しかし己自身は空虚かつ軽薄で、夜型で、小説を読むことと書くことでのみ息ができて、欲望や衝動に振り回される愚かな人間だ。 出産を機に、完全に母というペルソナを自分のものとして生きていく人もいる。その方が生きやすい人もいるのだろう。私はあのペルソナについぞ親近感を感じられないまま、いつしかその必要性から解放された。かぶってみたら息ができなくて、張り付いて窒息しそうで、苦しくて仕方なかった仮面が外れた瞬間、自分の本当の顔を思い出した。そんな感じだ。その自分は醜いかもしれないが、窒息する仮面よりはマシだった。 自分に戻って生きやすくなったわけではない。それでも、あの苦しみよりもこの苦しみ。と思える生きにくさと生きられることにほっとした。どうせ殺されるなら、母としての生きにくさではなく、幼い頃から慣れ親しんだ、どうやっても自分から切り離せなかった生きにくさに殺されたかった。 今、母というペルソナに苦しんでいる人に、いつかその仮面は外れて息ができるようになるよと言うことはできない。外したくても状況的にそれができない人も必ずいるからだ。でも魂があえぎをあげている時、あなたが喪失したと感じている自分は実は今もそこにいるんだ。一番近くで見守り寄り添い、きっと隙があれば静かにあなたと同化する。あなたを延々苦しめてきた空虚さ軽薄さ愚かさが、そう簡単に消えるはずはないんだ。それはあなたにとって絶望かもしれないが、希望でもあるはずだ。つきまとう自分の気配を気取って思い出して欲しい。あなたには何に首を絞められるか決める権利があるということを。 --- **金原ひとみ** 1983年生まれ。デビュー作の「蛇にピアス」で2004年に芥川賞。「アンソーシャル ディスタンス」で21年に谷崎潤一郎賞。東日本大震災後の12年から6年間、フランスに移住していた。近著に「腹を空かせた勇者ども」。
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