# 代々木のマクドナルドの寂しさを愛している   大学帰りの22時過ぎ、ときどき代々木のマクドナルドに寄ることがある。ひとりで夜に行くこの代々木のマクドナルドのことを、たぶん世界で僕だけが愛している。 ### 1   渋谷の人混みを抜けて、山手線で代々木へ。時刻は22時手前。総武線に乗り換える手前で、改札を抜けて駅の外に出る。車通りもだいぶ減った道路に設置された信号を渡り、マクドナルドに入る。ピカピカ光るセルフオーダーの端末でポテトのLサイズを頼み、白いプラスチックで出来た番号の書かれた三角の板を取って席に着く。道路に面した、カウンター席に座って外を眺めているのが好きだ。しばらくすると、外国人の店員が近づいて来て、緑色のトレーに乗せられたポテトを片言の日本語と共に置いてくれる。油染みを作りながらも、一応の温かさを保っているポテトを1本つまんで口に入れる。ほとんど塩を食べているような、ただひたすらに塩辛い味がする。最も素早く、最も安価に、最も単純に人の食欲を満たすためだけに作られた味で、決して美味いとは言えない。というよりも、その強すぎる塩味は、味付けのバランスや風味といった「美味しさ」の評価軸自体をまるごと破壊している。もはや美味いのか不味いのかを問う意味すらないような暴力的な塩の味、その塩辛さを、何も考えずに、味わうことすらなく口に運ぶ。窓の外にはぼんやりと光る得体のしれない飲み屋の看板と、バカみたいにギラギラと光っているカラオケ館が見えて、ときどきそこを白いスクーターのテールランプが横切っていく。その赤い残像を、たまに目で追う。早めに営業を終えた飲食店が店の前に積み上げる大量のゴミ袋が、環境問題対策のために3円のレジ袋を買わされている僕らの善意を嘲笑うかのように積み上げられている。 #### ――あぁ、なんて寂しくて貧しい場所なんだろう。   ポテトを食べながら、そう思う。そして僕は、ここにある、この寂しさが、この貧しさが好きだ。というか、わざわざ途中下車して代々木のマクドナルドに来ているのは、この寂しさを味わうためなのだと思う。 ### 2  まずもって、代々木というのが寂しい街だと思う。渋谷にも、渋谷にしかない独特の寂寞があると思うが、それでもあの街は寂しさや倦怠を忘れるため、大声で騒ぎ、人と人が(大抵アルコールの力を借りて)仮初のつながりをもち、互いに欲望をさらけ出すことを基本原理としている。ハチ公前で客引きの女の子と中年の男が、顔が白いホストみたいな男の子と地雷系の女の子が、嘘を互いに差し出しあい、駆け引きをし、欲望を絡ませていく。喧騒と絡み合う欲望の街、それが渋谷だ。  対して、代々木はどうか。もちろん駅前には、いくばくかの飲み屋があり、改札の前にはアルコールの匂いを漂わせた大人がたまっていたりはする。だが、この街は夜になっても妙に静かだ。渋谷・新宿・原宿という都心の喧騒から弾きだされた人達が、その傷を抱えたまま、風に吹かれた落ち葉が溜まっていくように代々木に集まっている。やる気のない客引きの女の子が通りには立っていて、死んだ目をしてフリップのようなものを抱えている。一瞬だけ、その子と視線が交錯して、互いの無関心がすれ違う。この街には、喧騒も渦巻く欲望も無い。ただ、それぞれが静かに、極めて個人的な疲れに浸っている。  僕もそんな寂しい人間たちの一派として、マクドナルドのカウンター席でポテトをつまんでいるわけだ。店内に目を向けると、ペラペラのスーツを着たサラリーマンが生気の無い目で机にもたれかかるようにしてぼんやりとしている。二人揃ってケバケバした出で立ちのカップルが、狭くて硬くて背もたれが垂直のソファ席で身を寄せ合うようにしてスマホの画面を二人で覗き込み、小声で何かを囁きあっている。ふと風が吹いて、外から入ってきたUber Eatsの配達員はヘルメットを取ることもなくレジに近づき、ぶっきらぼうにオーダー番号を告げる。くたびれた様子のアジア系の店員がチラリとモニタを確認して、ビニール袋を二つ渡す。配達員は「あーっした」と言って、足早に店を出ていった。  ここにいる人達の間には、いかなるホスピタリティも、ケアも、喫煙所にあるようなやさぐれた連帯すらもない。それぞれが無関心に、それぞれのまとわりつく倦怠の中で、いくばくかの小銭と引き換えに手に入れた店に居座る権利の中に閉じこもるようにして、ぼんやりと座っている。ここはストリートのようなやさぐれた溜まり場ではないし、居場所と呼ぶにはあまりに冷たく荒涼としている。誰もが薄っすらとした平凡な寂しさに浸りながら空腹を満たしているが、ひどい感傷に浸れるほどしっとりとした空気ではない。店の壁はカラフルな色彩で「アメリカっぽさ」を思い出したように演出することに熱心だし、音質の悪い店内ラジオでは良く分からないアイドルがどうでも良いエピソードを話しているからだ。 #### 3  ありふれた傷を抱えて、何だか真っすぐ帰るのもムシャクシャして、何もしていないのに疲労感だけが身体中に浸潤している状態で、流れ着くように代々木のマクドナルドにたどり着いたとして、僕たちに許されている手段は、薄汚れた街の、ありふれたファストフード・チェーンの片隅で、塩辛いポテトを口に詰め込んで何かを誤魔化した気になることぐらいしかないのだ。なんて寂しくて、貧しい解決手段なのだろう、と思う。それは東京という街に感じる寂しさ、特有の貧相さを凝縮した形態だ。  代々木のマクドナルドには、そうした都市の寂しさと貧しさが、それだけが充満している。そして僕は、その寂しさと貧しさを、とても気に入っている。代々木のマクドナルドに満ちている寂しさと貧しさを感じることでしか、弾き飛ばすことのできない個人的な感傷や悲しみがある。それはたぶん、海の向こうの遠い国の部族が毒蜂にあえて刺されることで虫歯を引き抜くときの痛みを誤魔化すように、耐えがたいはずの痛みを別の痛みで誤魔化すことに似ている。あなたも、他の感傷や寂しさでしか、埋めることのできない寂しさがある夜に、代々木のマクドナルドに行くと良いと思う。そこにはあなたを普通の意味で癒してくれるものは何もない。ただ、東京という街の寂しさを凝縮した、あられもない貧しさを湛えたチェーン店があるだけだ。だがその寂しさを、貧しさを、無性に感じたくなる夜が東京にはいくつもある。