## 2. 完備契約ベンチマーク(二値アウトカム版)
本章では、買い手 $B$ と売り手 $S$ の二者が投資(努力)を行う環境を定式化し、検証可能な二値アウトカムに条件付けて契約を記述できる場合の「完備契約ベンチマーク」を定義する。以降の章では、契約言語上の制約(不可記述性)を導入し、番号ベース契約および価格ベース契約が到達しうる効用を本章の参照点と比較する。
本章の要点は次の二つである。第一に、投資(努力)は事後に検証不能であるため moral hazard が残る。第二に、契約で参照可能かつ事後に検証可能な二値アウトカムが存在するため、完備契約は当該アウトカムに条件付けて(実物決定と移転からなる)実行行動を指定できる。
### 2.1 プレイヤーとタイミング
プレイヤーは買い手 $B$ と売り手 $S$ の2者である。時点は $t=0,1,2$ の3期からなる。
* $t=0$(契約):当事者は契約を締結する。
* $t=1$(投資):各当事者 $i\in \{B,S\}$ は投資(努力)水準 $e_i$ を選択する。
* $t=2$(アウトカム・執行):二値アウトカム $Z\in \{0,1\}$ が実現し、契約に従って実行行動が執行される。
投資のプロファイルを $e=(e_B,e_S)$ と書く。アウトカム $Z$ は裁判所(第三者)により観測・検証可能であり、契約条項として参照可能である。
### 2.2 投資集合と投資コスト
各当事者の投資集合を $E_i$ とし、$t=1$ において $e_i\in E_i$ が選択される。投資は事後に検証不能であり、裁判所や第三者は $e_i$ を観察・検証できない。
投資費用は関数 $c_i:E_i\to\mathbb{R}_+$ により表され、効用から加法的に控除される。
**仮定 2.1(投資の正則性)**
(i) 各 $E_i$ は非空コンパクト集合である。
(ii) $c_i(\cdot)$ は連続である。
### 2.3 二値アウトカムと共通事前
$t=2$ に実現する検証可能アウトカムは二値であり、
$$
Z\in\mathcal{Z}:=\{0,1\}
$$
とする。
投資 $e$ はアウトカム分布に影響し、当事者は投資に条件付けた共通事前を共有する。すなわち、ある関数 $\pi:E_B\times E_S\to[0,1]$ が存在して
$$
\Pr(Z=1\mid e)=\pi(e),\qquad \Pr(Z=0\mid e)=1-\pi(e)
$$
と表せる。
**仮定 2.2(確率の正則性)**
$\pi(e)$ は $e$ に関して連続である。
### 2.4 実行行動(実物決定と移転)と効用
各アウトカム $Z\in\mathcal{Z}$ にし、実行可能行動集合を
$$
A_Z:=\mathcal{X}_Z \times\mathcal{Y}
$$
と定める。ここで $x\in\mathcal{X}_z$ はアウトカム依存の実物的決定(例:取引財の選択、品質、プロジェクト実施等)を表し、$y=(y_B,y_S)\in\mathcal{Y}$ は金銭移転を表す。$\mathcal{X}_Z$ はコンパクト集合とする。
移転集合 $\mathcal{Y}$ は有限責任と予算制約を表す実現可能集合であり、例えば
$$
\mathcal{Y}
=\left\{(y_B,y_S)\in\mathbb{R}^2 \ \middle|\
\underline y_i\le y_i\le \overline y_i\ (i\in\{B,S\}),\
y_B+y_S=0
\right\}
$$
とする。
当事者 $i$ の $Z$ の下での von Neumann–Morgenstern 効用を $u_i^Z:A_Z\to\mathbb{R}$ とする。本稿では後続章(スコアリングルール型利得)との整合性のため、移転に関して準線形性を仮定する。
**仮定 2.3(準線形性)**
各 $Z\in\mathcal{Z}$ と $(x,y)\in A_z$ について
$$
u_i^Z(x,y_i)=v_i^Z(x)+y_i
$$
と表せる。ここで $v_i^Z:\mathcal{X}_Z\to\mathbb{R}$ は連続である。
投資費用は状態・行動と加法分離で効用に現れ、$t=1$ に $c_i(e_i)$ が控除される。
### 2.5 完備契約
本章でいう「完備契約」とは、検証可能アウトカム $Z$ に条件付けて実行行動(実物決定と移転)を指定できる契約である(ただし投資 $e$ は検証不能であり、moral hazard は残る)。
**定義 2.1(完備契約)**
完備契約とは、各 $Z\in\mathcal{Z}$ に対し実行行動 $a_Z\in A_Z$ を割り当てる組
$$
f=(a_0,a_1)\in A_0\times A_1
$$
である。各 $a_Z=(x^Z,y)$ と書き、$x^Z\in\mathcal{X}^Z$、$y=(y_B,y_S)\in\mathcal{Y}$ とする。
(同値な表現として、$f:\mathcal{Z}\to A_0 \times A_1$ で $f(z)\in A_z$ を満たす写像と見なしてもよい。)
### 2.6 契約が誘導する投資ゲーム
完備契約 $f=(a_0,a_1)$ が与えられると、$t=1$ の投資選択は2者の投資ゲームを誘導する。投資 $e$ の下で当事者 $i$ の事前期待効用は
$$
U_i(e;f)
=(1-\pi(e))\,u_i^0(a_0)+\pi(e)\,u_i^1(a_1)-c_i(e_i),
\qquad i\in\{B,S\}.
$$
準線形性より $u_i^Z(a_Z)=v_i^Z(x_Z)+y_i$ である。
以下、$U_i(e;f)$ により定義される投資ゲームを $\mathcal{G}(f)$ と書く。
**定義 2.2(ナッシュ均衡)**
投資 $e^*=(e_B^*,e_S^*)$ が投資ゲーム $\mathcal{G}(f)$ のナッシュ均衡であるとは、任意の $i\in\{B,S\}$ と任意の逸脱 $e_i\in E_i$ に対して
$$
U_i(e^*;f)\ge U_i\bigl((e_i,e_{-i}^*);f\bigr)
$$
が成り立つことをいう。均衡集合を $NE(\mathcal{G}(f))$ と書く。
**仮定2.4(均衡の存在)**
任意の完備契約 $f$ に対し $NE(\mathcal{G}(f))\neq\emptyset$ である。さらに、均衡は一つに定まる。
> **備考(継続利得の表記)**
> 後続章との接続のため、契約 $f$ がアウトカム $Z$ の下で誘導する(投資費用を除いた)継続利得を
> $$
> w_i(z;f):=u_i^z(a_z)=v_i^z(x_z)+y_i^z
> $$
> と書くと、
> $$
> U_i(e;f)=(1-\pi(e))\,u_i^0(f)+\pi(e)\,u_i^1(f)-c_i(e_i)
> $$
> となる。
### 2.7 完備契約ベンチマークの定義
完備環境におけるパレート最適点は一般に複数存在しうる。後続章で番号ベース契約や価格ベース契約が達成する結果を個人効用で比較するには、参照点となる完備契約下の効用ベクトルを一意に固定する必要がある。本稿では、売り手の保証効用によってパレートフロンティア上の点を選択する。
外生的パラメータ $\bar U_S\in\mathbb{R}$ を与え、次の問題を考える:
$$
\max_{f\in A_0\times A_1}\ U_B(e(f);f)
\quad\text{s.t.}\quad
U_S(e(f);f)\ge \bar U_S.
$$
**仮定 2.5(ベンチマーク解の存在)**
以後、任意の $\bar U_S$ について、問題
$$
\max_{f\in A_0\times A_1}\ U_B(e(f);f)
\quad\text{s.t.}\quad
U_S(e(f);f)\ge \bar U_S
$$
は解を持つものとし、その解の一つを $f^C(\bar U_S)$ と書く。
**定義 2.3(完備契約ベンチマーク)**
$\bar U_S$ に対し、完備契約ベンチマークを
$$
f^C(\bar U_S)\in
\arg\max_{f\in A_0\times A_1}\ U_B(e(f);f)
\quad\text{s.t.}\quad
U_S(e(f);f)\ge \bar U_S
$$
として定義し、対応する投資を
$$
e^C(\bar U_S):=e(f^C(\bar U_S))
$$
と定義する。
対応するベンチマーク効用を
$$
U_i^C(\bar U_S):=U_i(e^C(\bar U_S);f^C(\bar U_S)),
\qquad i\in{B,S}
$$
と定義する。以後、$(U_B^C(\bar U_S),U_S^C(\bar U_S))$ を本稿における完備契約下の参照点とする。
> **備考(加重和問題との関係)**
> 標準的な正則性条件の下で、上の参加制約型の定義は、パレートウェイト $\alpha\in(0,1)$ を用いた加重和最大化
> $$
> \max_{f\in A_0\times A_1}\ \alpha U_B(e(f);f)+(1-\alpha)U_S(e(f);f)
> $$
> と等価にパラメタライズできる。本稿では買い手・売り手の解釈が明瞭な参加制約型を本文の定義として採用する。
### 2.8 小括
本章では、投資は検証不能である一方で二値アウトカム $Z$ は検証可能かつ契約で参照可能であるという意味での完備環境を定式化し、完備契約ベンチマーク $(e^C(\bar U_S),f^C(\bar U_S))$ と参照効用 $U^C(\bar U_S)$ を定義した。
## 3. Indescribable Physical Actions と番号ベース契約(Number-Based Contracts)
本章では、第2章で定義した完備契約ベンチマークを参照点として維持したまま、Maskin–Tirole(以下 M&T)に従って「**実物決定(physical actions)の不可記述性**」を導入する。その上で、不可記述性の下でも番号ベース契約(number-based contracts)が完備ベンチマークと同一の効用ベクトルを到達可能にする、いわゆる Irrelevance の主張を本稿の簡約環境に即して整理する。
本章の役割は二つである。第一に、不可記述性は「アウトカム $Z$ が契約で参照できない」ことではなく、**実物決定 $x$ を契約で特定できない**という制約であることを明確化する。第二に、番号ベース契約が要請する制度要件(報告・チャレンジ・罰則・均衡精緻化など)を最小限に記述し、次章の価格ベース契約(LMSRによる公的シグナル生成)との比較軸を準備する。
> **本章を通じた注意**
> 第2章と同様、二値アウトカム $Z\in\{0,1\}$ は裁判所により観測・検証可能であり、契約条項として参照可能である。不完備性は $Z$ ではなく **実物決定 $x$ の不可記述性**として導入される。
### 3.1 環境の継承と不可記述性
プレイヤーは買い手 $B$ と売り手 $S$ の2者である。タイミングは第2章と同一であり、$t=0$ に契約、$t=1$ に投資、$t=2$ にアウトカム実現と執行が行われる。投資 $e=(e_B,e_S)$ の下で
$$
\Pr(Z=1\mid e)=\pi(e),\qquad \Pr(Z=0\mid e)=1-\pi(e)
$$
であり(第2章と同一)、投資は裁判所により検証不能で費用 $c_i(e_i)$ が加法的に控除される。
各 $z\in\{0,1\}$ の下で実行可能な行動は
$$
A_z=\mathcal{X}_z\times \mathcal{Y}
$$
で与えられる。$\mathcal{X}_z$ は実物決定(physical actions)の集合、$\mathcal{Y}$ は(第三者支払い・burning を含む)裁判所が執行可能な金銭帰結の集合である。
効用は準線形
$$
u_i^z(x,y_i)=v_i^z(x)+y_i,\qquad i\in{B,S}
$$
とする(第2章と同一)。
第2章では、完備契約がアウトカム条件付きに実行行動 $(x_z,y^z)\in A_z$ を直接指定できた。本章ではこのうち **実物決定 $x$ の特定可能性を取り下げる**。
**仮定 3.1(実物決定の不可記述性)**
$t=0$ において、契約言語は将来執行される実物決定 $x\in\mathcal{X}_z$ を、裁判所が将来執行可能な形で特定できない。したがって、アウトカム条件付きに実物決定を指定する条項(例:$Z=z$ なら $x=x_z$ を実行せよ)を用いることはできない。他方で、移転 $y\in\mathcal{Y}$(および保証金・罰金等の金銭的措置)は契約時点に記述可能であり、裁判所が執行可能である。
仮定 3.1 は「実現後に当事者が状況を理解し、何が実行可能かを把握し得る」ことを否定しない。問題は契約時点に「どの $x$ を選ぶか」を裁判所が執行できる形で条文化できない点にある。
### 3.2 継続利得表示と番号化
不可記述性の下では、契約が直接に指定できるのは主として移転であり、実物決定 $x$ は事後に当事者の裁量や手続きによって選択・実行されることになる。他方、投資段階 $t=1$ において当事者が期待値に基づき合理的に意思決定するためには、契約が誘導する事後局面の帰結が投資から見て well-defined である必要がある。
第2章の備考で導入した通り、ある契約(および採用される事後の均衡・手続き)$\Gamma$ の下で、アウトカム $z$ の下における当事者 $i$ の(投資費用を除いた)継続利得を
$$
w_i(z;\Gamma)
$$
と書く。すなわち、$t=2$ に $Z=z$ が実現したときに $\Gamma$ が誘導する実物決定 $x$ と金銭帰結(移転・没収等)により得られる利得 $v_i^z(x)+(\text{金銭部分})$ を、(必要なら混合・ランダム化も含めて)$\Gamma$ の下での条件付き期待値として表したものである。
特に第2章の完備契約 $f=(a_0,a_1)$ の場合には、$Z=z$ の下で執行される行動が $a_z=(x^z,y^z)$ として与えられるため、
$$
w_i(z;f)=u_i^z(a_z)=v_i^z(x_z)+y_i^z
$$
となる。他方で不可記述性の下では $x$ を契約で直接指定できないが、事後手続きと均衡によって $Z=z$ の下で実際に実行される帰結は定まり得るため、$w_i(z;\Gamma)$ は投資段階から見て well-defined である。以後、文脈上 $\Gamma$ が明らかな場合には $w_i(z;\Gamma)$ を $w_i(z)$ と略記する。
**仮定 3.2(番号集合)**
有限集合 $\mathcal{M}:=\{1,2,3,\dots, m \}$ が与えられている。
番号 $k\in\mathcal{M}$ は実物決定 $x$ を指し示すものではなく、実物決定と移転から誘導される継続利得の構造を表すコードとして用いられる。具体的には、各番号 $k$ に対し、番号付き継続利得を
$$
\tilde w(k)=\bigl(\tilde w_B(k),\tilde w_S(k)\bigr)\in\mathbb{R}^2
$$
として与える。
<!---
ここで $\tilde w_i(k)$ は、完備環境におけるある行動 $(x,y)\in A_z$ が与える継続利得 $v_i^z(x)+y_i$ を、番号 $k$ によって表現したものと解釈する。
-->
番号化が経済的に整合的であるためには、実現後に当事者が「番号 $k$ が表す継続利得を実現する」実物的手続きを共有できる必要がある。これを次の整合性仮定で表す。
**仮定 3.3(事後整合性:コードの解釈可能性)**
各 $k\in\mathcal{K}$ に対し、実現後に当事者が共有し得る事後手続き(実物決定の選択・実行および移転の執行)により、継続利得 $\tilde w(k)$ を実現できる。すなわち、当該手続きの下で得られる(投資費用を除いた)利得ベクトルが $\tilde w(k)$ に一致する。
仮定 3.3 は、裁判所が $x$ を執行できることを仮定するものではない。必要なのは、当事者が実現後の状況理解に基づき、番号化された継続利得を「解釈し、実現する」ことが可能であるという点である。
### 3.3 事後手続きの基本形式
不可記述性の下で契約が直接に条件付けできるのは、裁判所が検証できる変数(金銭移転)である。番号ベース契約は、事後手続きとして「番号の報告」と「異議申立て(challenge)」を組み込み、移転を通じて望ましい継続利得(ひいては投資誘因)を誘導する。
本稿では、後続章との制度比較に必要な最小構造のみを抽象的に定義する。
**定義 3.1(番号ベース契約)**
番号ベース契約 $\Gamma^N$ は、少なくとも以下からなる。
1. メッセージ集合:$M_B=M_S=\mathcal{M}$。
2. 報告:$t=2$ に当事者は番号 $(k_B,k_S)\in\mathcal{K}^2$ を報告する。
3. チャレンジ手続き:報告後、一方が異議申立てを行える手続きが存在する。
4. 移転ルール:裁判所が観測可能な情報(少なくとも $Z$ と報告・チャレンジの結果)に基づき、最終的な金銭帰結 $y\in\mathcal{Y}$(および保証金没収等)を執行する。
本章では、仮定 3.1 の下で契約は実物決定 $x$ に条件付けない一方、移転と保証金・罰金等の金銭的措置は裁判所が執行可能であるとする。
### 3.4 報告・チャレンジ・罰則の役割(最小記述)
番号ベース契約が均衡で真実(同一)報告を誘導するためには、報告が食い違ったり不自然な報告が行われた場合に、相手が異議申立て(challenge)を行い、虚偽報告を抑止できる手続きが必要となる。M&Tの枠組みでは、不可記述性と両立しつつ、虚偽報告があればそれが露見しうるように「報告に整合する実行の要求」「実行不能・矛盾の顕在化」「それに条件付けた罰金・保証金没収」等が組み合わされる。
本稿ではこうした構成の詳細を再掲せず、実装に必要な強さを技術仮定としてまとめる。
**仮定 3.4(チャレンジの有効性と罰則の実行可能性)**
番号ベース契約に組み込まれたチャレンジ手続きは、(適切に選ばれた均衡精緻化の下で)虚偽報告があればそれが発覚し、虚偽報告者に罰金・保証金没収等の不利な帰結を与えるように設計できる。加えて、その罰則を執行できるだけ移転技術が十分に豊富である。
仮定 3.4 は、本稿が再掲しない M&T の実装構成(コミットメント、再交渉の扱い、均衡精緻化等)を吸収する。重要なのは、番号ベース契約が「報告ゲーム+チャレンジ+罰則」によって事後の整合的報告を支える点であり、これが次章の価格ベース契約との制度比較の主要な軸となる。
**仮定 3.5(罰則のための移転技術の拡張)**
本章で参照する番号ベース契約の実装では、通常の当事者間移転(第2章の $\mathcal{Y}$)に加え、(i) 保証金の没収、(ii) 第三者(またはエスクロー)への支払い、あるいは同値に (iii) 資源の焼却(burning)に相当する金銭的措置を、裁判所が執行できるものとする。これらはチャレンジに基づく罰則を実効的にするための制度要件である。
<!--- **定義 3.2(拡張移転集合)**
本章では罰則執行(第三者支払い・burning を含む)を明示するため、裁判所が執行可能な金銭帰結の集合を
$$
\mathcal{Y}^N
:=
\left\{(y_B,y_S)\in\mathbb{R}^2\ \middle|\
\underline y_i\le y_i\le \overline y_i\ (i\in\{B,S\}),\
y_B+y_S\le 0
\right\}
$$
と定める。ここで $-(y_B+y_S)\ge0$ は第三者(エスクロー)への支払い、あるいは burning に対応する。第2章の移転集合 $\mathcal{Y}$ は $\mathcal{Y}^N$ の部分集合($y_B+y_S=0$ の場合)である。
--->
### 3.5 投資誘因と継続利得
投資段階の意思決定にとって重要なのは、投資 $e$ が将来の継続利得の分布をどのように変えるかである。一般に、ある契約(および採用される均衡)が誘導する継続利得を $w_i(Z)$ と書けば、投資 $e$ の下での事前期待効用は
$$
U_i(e;\Gamma)=\mathbb{E}\bigl[w_i(Z;\Gamma)\mid e\bigr]-c_i(e_i)
$$
と表される。
したがって、不可記述性の下でも番号ベース契約が第2章の完備契約と同一の継続利得スケジュールを均衡で誘導できるならば、投資誘因および事前効用は一致する。
本節の観点は、次章で価格ベース契約を導入する際にも有用である。すなわち、価格制度が生成する公的変数を通じてどのような継続利得が誘導されるかを記述できれば、投資段階の誘因分析と接続できる。
### 3.6 二値簡約版 Irrelevance(既存結果としての導入)
第2章では、売り手の保証効用 $\bar U_S$ をパラメータとして完備契約ベンチマーク $f^C(\bar U_S)$、投資 $e^C(\bar U_S)$、および参照効用
$$
U_i^C(\bar U_S):=U_i(e^C(\bar U_S);f^C(\bar U_S)),\qquad i\in{B,S}
$$
を定義した。本節では、不可記述性(仮定 3.1)の下でも番号ベース契約によりこの参照効用が到達可能であることを、既存結果として導入する。
**命題 3.1(Irrelevance:既存結果の導入)**
仮定 3.1(実物決定の不可記述性)、仮定 3.2–3.3(番号化と事後整合性)、仮定 3.4(チャレンジの有効性)、仮定 3.5(罰則執行のための移転技術の拡張)、および M&T が番号ベース契約による実装を保証するために用いる標準的技術仮定(コミットメント、再交渉に関する扱い、均衡精緻化を含む)が満たされているとする。このとき任意の $\bar U_S$ に対し、ある番号ベース契約 $\Gamma^N(\bar U_S)$ が存在し、その均衡の下で
$$
U_i(\Gamma^N(\bar U_S))=U_i^C(\bar U_S),\qquad i\in\{B,S\}
$$
が成り立つ。
命題 3.1 は、不可記述性が「実物決定を契約で特定できない」という制約に限られ、かつ番号化・事後整合性・報告ゲーム(チャレンジと罰則)が運用可能であるならば、完備契約と同一の効用ベクトルが到達可能であることを述べる。本稿では番号ベース契約の具体的構成や証明を再掲せず、参照点 $U^C(\bar U_S)$ を不完備環境でも比較基準として固定するための既存結果として用いる。
### 3.7 小括と第4章への接続
本章では、M&T に則り、実物決定の不可記述性を不完備性の源泉として導入した。不可記述性の下でも、番号化された継続利得表示 $\tilde w^z(k)$ とその事後整合性により、実物決定を直接記述せずに投資段階の期待値計算を維持できることを整理した。また、報告・チャレンジ・罰則メカニズムにより事後の整合的報告を支えるという番号ベース契約の制度的特徴を最小限に記述し、その標準的仮定の下で Irrelevance が成立することを既存結果として導入した。
次章では、番号ベース契約が要請するメッセージゲーム、チャレンジ、罰則、均衡精緻化といった制度要件とは異なる情報集約装置として、LMSR による価格形成を用いる価格ベース契約を導入する。価格ベース契約は、裁判所が観測可能な公的変数(終値 $p$ とアウトカム $Z$)にのみ条件付けて移転を執行することにより、不可記述性の下での実装を別の制度要件へ置き換える可能性を持つ。
## 4. 価格ベース契約:LMSR による公的シグナル生成と到達可能効用の定義
本章では、第3章で導入した **実物決定の不可記述性(契約が $x$ を条文化できない)** を維持したまま、番号ベース契約とは異なる制度として、LMSR(logarithmic market scoring rule)に基づく **価格ベース契約**を定義する。価格ベース契約の特徴は、裁判所が観測可能な公的変数である「終値 $p$」と「アウトカム $Z$」のみに条件付けて移転を執行し、取引制度が生成する公的な数 $p$ を用いて(将来の章で)インセンティブ設計を行う点にある。
本章の目的は次の二つである。第一に、価格ベース契約のクラスと、それが誘導する全体ゲーム(投資+取引)を定義し、均衡の下で得られる **事前効用**を定義する。第二に、以後の分析で基礎的に用いるため、LMSR のもとで価格が信念を反映する(properness)という性質と、十分条件の下で終値が情報を集約しうること(分離均衡の存在)を整理する。**完備契約ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ との比較および誤差評価は第5-6章で行う。**
### 4.0 不可記述性の維持と縮約(情報・移転に焦点を当てるため)
第3章と同様に、契約は実物決定 $x$ を執行可能な形で特定できない(不可記述)とする。他方で本章では価格形成と移転の効果に焦点を当てるため、実物決定の帰結を縮約して扱う。
**仮定 4.0(非金銭部分の縮約と参照点との整合)**
$t=2b$ の執行段階において、当事者は契約で特定できない実物決定 $x$ を何らかの事後手続きにより実行し、その非金銭利得は検証可能アウトカム $Z$ のみに依存する既知関数
$$
\bar v_i:\{0,1\}\to\mathbb{R},\qquad i\in\{B,S\}
$$
として表される。したがって、移転や市場内利得を除いた非金銭部分は $\bar v_i(Z)$ で与えられる。
> **備考(第2章ベンチマークとの整合の取り方)**
> 本章は価格形成(情報)と移転(設計変数)に焦点を当てるため、非金銭部分を $\bar v_i$ に縮約して扱う。第5章で完備契約ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ と比較する際には、比較対象の参照点に合わせて $\bar v_i$ を正規化する(例:ベンチマーク契約 $f^C(\bar U_S)$ が誘導する非金銭利得に一致するように $\bar v_i(z)$ を定める)ことを明示する。
### 4.1 タイミングと契約可能変数
タイミングは第2章・第3章と同様に $t=\{0,1,2\}$ であり、$t=2$ を取引段階と執行段階に分割する。
* $t=0$(契約):当事者は (i) LMSR の仕様(流動性パラメータ $b>0$、初期価格 $p_0$、取引順序等)と、(ii) 裁判所が観測する $(p,Z)$ に条件付けた移転ルール $\tau$ に合意する。
* $t=1$(投資):買い手 $B$ と売り手 $S$ は投資 $e_B\in E_B$、$e_S\in E_S$ を選択する。投資は検証不能であり、費用 $c_i(e_i)$ が加法的に控除される。
* $t=2a$(取引):投資後、各当事者は私的シグナルを観測し、所定の順序で LMSR と取引して市場確率(価格)を更新する。閉場時の市場確率を $p$ と書く。
* $t=2b$(実現・執行):アウトカム $Z\in \{0,1\}$ が実現する。裁判所は最終価格 $p$ と実現値 $Z$ を観測・検証し、移転 $\tau(p,Z)$ を執行する。
契約は実物決定 $x$ に条件付けられないが、移転および手続き的に生成される数 $(p,Z)$ は契約可能である。
### 4.2 LMSR(対数スコア)と市場内利得
価格領域を $(0,1)$ とし、対数スコア(パラメータ $b>0$)を
$$
s(z,p)=
\begin{cases}
b\log p & (z=1),\\
b\log(1-p) & (z=0)
\end{cases}
$$
で定義する。
市場確率が $p$ から $q$ に更新されるとき、更新を行った取引者は清算時点 $t=2b$ に
$$
s(Z,q)-s(Z,p)
$$
を受け取る(市場メーカーからの支払い)。市場メーカーの損益について二値LMSRの最悪損失は有限であるため、制度上は当事者が事前に差し入れる担保(または固定参加料を積むエスクロー)により支払いを賄えるものとし、本章では記述簡略化のため市場メーカー側の損益そのものは分析対象から外す。
#### 4.2.1 properness(近視眼的・リスク中立の下での最適更新)
取引者が **近視眼的(当該1回の取引の清算利得のみを最大化)** かつ **リスク中立**であり、市場内利得以外に価格 $q$ に依存する利害を持たないとする。このとき、信念 $\mu=\Pr(Z=1\mid\mathcal I)$ を持つ取引者が価格を $p$ から $q$ に更新したときの期待利得は
$$
\mathbb{E}\bigl[s(Z,q)-s(Z,p)\mid \mathcal I\bigr]
=b\Bigl[\mu\log\frac{q}{p}+(1-\mu)\log\frac{1-q}{1-p}\Bigr].
$$
右辺を $q\in P=[\varepsilon,1-\varepsilon]$ で最大化すると、制約なしの最適解は $q=\mu$ である。価格領域制約を考慮すると最適更新は
$$
q=\Pi_P(\mu):=\min\{1-\varepsilon,\max\{\varepsilon,\mu\}\}
$$
となる。特に $\mu\in(\varepsilon,1-\varepsilon)$ のとき $q=\mu$ が成立する。すなわち、LMSR は近視眼的・リスク中立で価格への直接利害を持たない取引者に対し、信念に一致する価格更新を逐次合理的にする。
### 4.3 有限責任と担保(価格領域の制限)
対数スコアは $p\to (0,1)$ で発散し得るため、有限責任と整合させるために価格領域を制限する。
**仮定 4.1(価格領域と担保)**
ある $\varepsilon\in(0,1/2)$ が存在し、全ての取引は
$$
P:=[\varepsilon,1-\varepsilon]
$$
上で行われる。各取引者は LMSR 取引に伴う最大損失をカバーできる保証金(担保)を事前に差し入れ、スコア差分の支払いは制度として執行される。
### 4.4 情報構造:投資と私的シグナル
売り手 $S$ と買い手 $B$ はそれぞれ私的シグナル $S_S,S_B\in\{H,T\}$ を観測する。$H$ は $Z=1$ を相対的に支持する「良いニュース」シグナルと解釈する。投資 $e=(e_B,e_S)$ の下での結合分布 $(Z,S_S,S_B)$ は共通知識であるとする。
記法として、固定された投資 $e$ の下での事後確率を
$$
\mu_S(s):=\Pr(Z=1\mid S_S=s,e),\qquad
\mu_B(s):=\Pr(Z=1\mid S_B=s,e),
$$
$$
\mu(s_S,s_B):=\Pr(Z=1\mid S_S=s_S,S_B=s_B,e)
$$
と定義する(以後、文脈上明らかな場合は $(e)$ を省略する)。
**仮定 4.2(単調性)**
任意の $s_B$ について $\mu(H,s_B)>\mu(T,s_B)$、任意の $s_S$ について $\mu(s_S,H)>\mu(s_S,T)$ が成り立つ。
### 4.5 価格ベース契約の定義
第2章の移転集合 $\mathcal{Y}$(有限責任・予算制約を含む)を引き継ぐ。
**定義 4.1(価格ベース契約)**
価格ベース契約とは
$$
\mathcal{C}=(b,p_0,\text{order},\tau)
$$
である。ここで
* $b>0$:LMSR パラメータ、
* $p_0\in P$:初期価格、
* $\text{order}$:取引順序、
* $\tau:P\times{0,1}\to\mathcal{Y}$:移転ルール($\tau(p,Z)=(\tau_B(p,Z),\tau_S(p,Z))$)
であり、$t=2b$ に裁判所が $(p,Z)$ を観測して $\tau(p,Z)$ を執行する。
### 4.6 取引部分ゲーム(投資を固定したとき)と PBE
以下では投資 $e$ を固定し、$t=2a$ の取引部分ゲームを定義する。取引順序は売り手 $S$ が先手、買い手 $B$ が後手である($\text{order}=S\to B$)。
* ステージ1(売り手):$S$ は $S_S$ を観測し、価格を $p_0$ から $r\in P$ に更新する。
* ステージ2(買い手):$B$ は $(r,S_B)$ を観測し、価格を $r$ から $p\in P$ に更新し、市場は閉場する。
清算段階 $t=2b$ における(投資費用を除いた)総利得は
$$
\Pi_S
=\bigl[s(Z,r)-s(Z,p_0)\bigr]+\bar v_S(Z)+\tau_S(p,Z),
$$
$$
\Pi_B=\bigl[s(Z,p)-s(Z,r)\bigr]+\bar v_B(Z)+\tau_B(p,Z).
$$
(市場メーカーの損益は外部化する。)
解概念として Perfect Bayesian Equilibrium(PBE)を用いる。特に、売り手のタイプ($S_S=H/T$)が異なる更新を行い、買い手が観測した $r$ から売り手タイプを推論できる均衡を **separating PBE** と呼ぶ。
### 4.7 情報集約の基礎:分離 PBE の存在(十分条件)
価格を契約変数として利用する際、終値 $p$ がどの程度情報を集約しているかが重要となる。本節では、後続の設計・比較で参照しやすいように、「終値が(均衡路上で)事後確率として振る舞う」状況を与える十分条件を整理する。
#### 4.7.1 Chen互換の“シグナル生成”クラス
取引者の目的関数に価格 $p$ への直接利害が入ると、4.2.1 の properness が崩れ得る。そこで本節では、まず「市場内利得だけが価格更新の動機になる」状況を基準として扱う。
**仮定 4.3(情報集約のためのサブクラス:価格依存移転の排除)**
取引段階における properness と情報集約を明示するため、本節(4.7)では移転が価格に依存しないサブクラスに制限する:
$$
\tau_B(p,Z)=\tilde\tau_B(Z),\qquad \tau_S(p,Z)=\tilde\tau_S(Z).
$$
このとき取引者は市場内利得のみを通じて価格更新を行うため、4.2.1 の properness により(内点では)信念に一致する更新が逐次合理的になる。
> **注意**:一般に $\tau$ が $p$ に依存すると、取引者は価格 $p$ を動かす外部利得(outside incentive)を持ち得て、properness・情報集約は崩れうる。本稿ではこの一般ケースを第5章で扱う。
#### 4.7.2 分離均衡における終値の解釈
仮定 4.3 の下で、分離 PBE においてステージ1の更新 $r$ が売り手シグナル $S_S$ を完全に識別するならば、買い手は観測した $(r,S_B)$ から売り手タイプを推論できる。すると買い手の逐次合理性(properness)により、均衡路上で
$$
p=\Pr(Z=1\mid S_S,S_B,e)=\mu(S_S,S_B)
$$
が成立する。
この意味で、分離 PBE は「終値が両者の情報を集約した事後確率に一致する」状況を与える。
> **備考**:分離 PBE は一般に一意ではなく、プーリング均衡が併存し得る。本稿では後続の設計問題に接続するため、必要に応じて「情報集約的(分離)均衡」を選択する均衡選択規則を仮定する(次節)。
### 4.8 価格ベース契約が誘導する全体ゲームと到達可能効用
価格ベース契約 $\mathcal{C}$ の下で、$t=0$ から $t=2b$ までの全体ゲーム(投資+取引+清算)を $\mathcal{G}^P(\mathcal{C})$ と書く。$t=2a$ の取引部分ゲームは一般に複数の PBE を持ち得、また投資段階の均衡も複数になり得る。第2章と同様に、効用を一意に参照するため均衡の存在と選択を仮定する。
**仮定 4.4(均衡の存在と選択:価格ベース)**
任意の価格ベース契約 $\mathcal{C}$ に対し、全体ゲーム $\mathcal{G}^P(\mathcal{C})$ は少なくとも一つの PBE を持つ。さらに均衡が複数存在する場合、当事者は共通知識な選択規則 $\sigma^P$ に従い、ある均衡(投資・取引戦略および信念)を選択する。
以後、選択された均衡の下で実現する投資を $e^P(\mathcal{C})$ と書く。
#### 4.8.1(定義)価格ベース契約の下での事前効用
選択された均衡の下での当事者 $i$ の事前期待効用を
$$
U_i^P(\mathcal{C}):=\mathbb{E}\bigl[\Pi_i \mid e^P(\mathcal{C}),\mathcal{C},\sigma^P\bigr]- c_i\bigl(e_i^P(\mathcal{C})\bigr),
\qquad i\in\{B,S\}
$$
と定義する。ここで期待値は、投資 $e^P(\mathcal{C})$ の下で誘導される $(Z,S_S,S_B)$ の分布と、選択された取引均衡が誘導する価格過程 $(r,p)$、および清算利得・移転に関する期待値である。
#### 4.8.2(定義)価格ベースで到達可能な効用集合
売り手の保証効用 $\bar U_S$ を与える。第2章と同様に比較の基準を整えるため、価格ベース契約のクラス $\mathfrak{C}$(本章で許容する $(b,p_0,\text{order},\tau)$ の集合)を固定した上で、到達可能効用集合を
$$
\mathcal{U}^P(\bar U_S)
:=
\left\{
\bigl(U_B^P(\mathcal{C}),U_S^P(\mathcal{C})\bigr)
\ \middle|\
\mathcal{C}\in\mathfrak{C},\
U_S^P(\mathcal{C})\ge \bar U_S
\right\}
$$
と定義する。
本章では $\mathcal{U}^P(\bar U_S)$ の定義と、その評価に必要な取引段階の基礎性質(4.2–4.7)を与えるに留め、完備契約ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ との比較・誤差評価は第5-6章で行う。
### 4.9 小括
本章では、実物決定の不可記述性を維持しつつ、LMSR による取引制度が生成する公的変数(終値 $p$)と検証可能アウトカム $Z$ のみに条件付けて移転を執行する価格ベース契約 $\mathcal{C}=(b,p_0,\text{order},\tau)$ を定義した。対数スコアの properness により、取引者が近視眼的・リスク中立で価格への直接利害を持たない場合、信念に一致する価格更新が逐次合理的であることを整理した。また、分離 PBE が成立する場合には終値が両者の情報を集約した事後確率に一致し得ることを述べた。最後に、均衡選択規則の下で価格ベース契約が誘導する事前効用 $U_i^P(\mathcal{C})$ と、売り手の保証効用 $\bar U_S$ の下での到達可能効用集合 $\mathcal{U}^P(\bar U_S)$ を定義した。
## 5. 価格依存移転による価格歪みと情報誤差
本章では第4章で予告した通り、仮定4.3(価格依存移転の排除)を外し、一般の移転ルール $\tau(p,Z)$ を許す価格ベース契約を扱う。価格 $p$ を契約変数として用いると、当事者は市場内利得(LMSRスコア差分)に加えて、移転 $\tau(p,Z)$ を通じて $p$ を動かす誘因(outside incentive)を持ち得る。その結果、4.7で整理した properness と情報集約(分離PBE)が崩れ、観測された終値 $p$ が「真の条件付き確率」を一点で同定しないという意味での情報誤差が生じる。
本章の目的は次の二つである。
1. 4.6の取引部分ゲームの上で、価格依存移転があるときの各取引者の最適更新が「信念 $\mu$ から歪む」ことを、(必要最小限の正則性条件の下で)定式化する。
2. 観測された終値 $p$ から推論される$Z=1$ の条件付き確率が取り得る範囲を導入し、その幅が価格ベース契約の効用評価(= $p$ をシグナルとして用いる設計の誤差)を支配することを定理として示す。
> **本章の立場(情報誤差に集中)**
> 以下では「価格が歪むことで $p$ の情報的意味づけが弱まる」点(情報誤差)に焦点を当てる。市場内利得(スコア差分)の減少=操作コストそのものの厚生評価は、ここでは中心に置かない。
### 5.1 価格依存移転と outside incentive
第4章の価格ベース契約 $\mathcal C=(b,p_0,\text{order},\tau)$ を継承し、取引順序は 4.6 と同様に $S\to B$ とする。$t=2a$ の取引段階で売り手が $p_0$ から $r$ に更新し、買い手が $r$ から終値 $p$ に更新する。清算段階 $t=2b$ における(投資費用を除いた)利得は
$$
\Pi_S=\bigl[s(Z,r)-s(Z,p_0)\bigr]+\bar v_S(Z)+\tau_S(p,Z),
$$
$$
\Pi_B=\bigl[s(Z,p)-s(Z,r)\bigr]+\bar v_B(Z)+\tau_B(p,Z),
$$
である(4.6)。
ここで $\tau_i(p,Z)$ が $p$ に依存すると、当事者 $i$ は市場内利得だけでなく、$\tau_i$ を通じて終値 $p$ を操作する利得を持つ。Chenモデルの「最終確率の単調関数 $Q(\text{final})$」は、この outside incentive を抽象化したものである(彼らは $Q(r_B)$ を導入する)。
本稿では、outside incentive を「ある情報集合における、価格を変えることによる期待移転の変化」として扱う。取引段階で主体 $i$ が持つ情報を $\mathcal I$ とし、(その情報の下での)期待移転部分を
$$
T_i(q\mid \mathcal I):=\mathbb E\bigl[\tau_i(q,Z)\mid \mathcal I\bigr]
$$
と定義する。取引者が一回の取引で価格を $q$ に更新するとき、その $q$ 依存部分は「LMSRの期待スコア」+「$T_i(q\mid\mathcal I)$」で与えられる。
### 5.2(補題)価格依存移転下での最適更新と「信念からの歪み」
本節では、取引者が近視眼的・リスク中立であるという4.2.1の仮定を引き継ぎ、価格更新の逐次合理性を記述する。取引者 $i$ が情報 $\mathcal I$ の下で
$$
\mu:=\Pr(Z=1\mid \mathcal I)
$$
という信念を持つとする。いま市場価格が(彼の取引直前に)何であったかは、定数項として落ちるため省略する(4.2.1と同様)。
**補題 5.1(一般 $\tau(p,Z)$ の下での逐次最適化)**
取引者 $i$ が情報 $\mathcal I$ の下で価格を $q\in P=[\varepsilon,1-\varepsilon]$ に更新するとき、$q$ の選択問題は
$$
\max_{q\in P}\ \Bigl\{\, b\bigl[\mu\log q+(1-\mu)\log(1-q)\bigr]+T_i(q\mid \mathcal I)\Bigr\}
$$
と等価である。さらに $T_i(\cdot\mid\mathcal I)$ が $P$ 上で微分可能で、内点解 $q\in(\varepsilon,1-\varepsilon)$ が成立する場合、最適解 $q$ は一階条件
$$
b\frac{\mu-q}{q(1-q)}+ \frac{\partial}{\partial q}T_i(q\mid\mathcal I)=0
$$
を満たす。
*証明(スケッチ)*:4.2.1と同様に、スコア差分の期待値は $b[\mu\log q+(1-\mu)\log(1-q)]$(定数項を除く)に等しい。そこに $q$ に依存する期待移転 $T_i(q\mid\mathcal I)$ を加えればよい。内点解では微分して一階条件が得られる。
補題5.1は、価格依存移転があるときに properness が「$\mu=q$」からずれるメカニズムを、そのまま表現している。
### 5.3 信頼集合と情報誤差の定義
価格ベース契約で裁判所が観測するのは終値 $p$ とアウトカム $Z$ だけである(4.1)。従って、$p$ の情報的意味づけは
$$
\eta(p):=\Pr(Z=1\mid p)
$$
(= 終値 $p$ が観測されたときの真の条件付き確率)で与えられる。4.7の「情報集約的(分離)均衡」では、均衡路上で $p=\Pr(Z=1\mid S_S,S_B,e)$ が成立し、特に calibration の意味で $\eta(p)=p$ が期待される。しかし price-dependent transfers の下では一般に $\eta(p)\neq p$ となり得る。
この「calibrationのずれ」を、価格ベース契約の情報誤差として評価する:
**定義 5.1(情報誤差)**
終値 $p$ の下での情報誤差を
$$
\Delta(p):=|\eta(p)-p|
$$
と定義する。
また、終値 $p$ が与えられたときの $\eta(p)$ の取り得る範囲を confidence set としてまとめる:
**定義 5.2(confidence set)**
ある $\delta\ge0$ に対し、
$$
\mathrm{CI}_\delta(p):=\bigl([p-\delta,\ p+\delta]\cap [0,1]\bigr)
$$
を $p$ の $\delta$-confidence set と呼ぶ。$\eta(p)\in \mathrm{CI}_\delta(p)$ が言えれば、$p$ をシグナルとして用いる設計の誤差は高々 $\delta$ の大きさで評価できる。
### 5.4 Outside incentive の滑らかさ(移転の価格感度の上界)
補題5.1の一階条件から、信念 $\mu$ と最適更新 $q$ の乖離は、$T_i$ の $q$ 微分(= 期待移転の価格感度)で制御される。よって、以下では移転ルールが作る outside incentive を“強すぎない”クラスに制限する。
**仮定 5.1(期待移転の価格感度の一様上界)**
ある定数 $\kappa\ge0$ が存在して、任意の取引者 $i\in{B,S}$、任意の情報集合 $\mathcal I$、任意の $q\in(\varepsilon,1-\varepsilon)$ について
$$
\left|\frac{\partial}{\partial q}T_i(q\mid\mathcal I)\right|\le \kappa
$$
が成り立つ。
この仮定は「$\tau(p,Z)$ が $p$ に依存しても、$p$ を動かすことで得られる期待移転利得が局所的に有界である」ことを意味する。直感的には、$\tau$ が $p$ を用いた“強い”条件付け(鋭い閾値や極端な傾き)を持つほど $\kappa$ は大きくなる。
### 5.5(定理)confidence set の幅:$\kappa$ と $b$ による上界
**定理 5.1(価格歪みが許す calibration の幅)**
仮定4.1(価格領域 $P=[\varepsilon,1-\varepsilon]$)と仮定5.1(価格感度上界)を仮定する。取引段階において、ある主体 $i$ が情報 $\mathcal I$ の下で信念 $\mu=\Pr(Z=1\mid\mathcal I)$ を持ち、内点で最適更新 $q\in(\varepsilon,1-\varepsilon)$ を行うとする。このとき
$$
|\mu-q|\le \frac{\kappa}{4b}
$$
が成り立つ。特に、終値 $p$ について(終値を生む情報集合の混合を通じて定義される)真の条件付き確率 $\eta(p)=\Pr(Z=1\mid p)$ は
$$
\eta(p)\in \mathrm{CI}_{\kappa/(4b)}(p)
$$
を満たす。したがって情報誤差は
$$
\Delta(p)=|\eta(p)-p|\le \frac{\kappa}{4b}
$$
で一様に上から抑えられる。
*証明*:補題5.1の一階条件より
$$
\mu-q = -\frac{q(1-q)}{b}\cdot \frac{\partial}{\partial q}T_i(q\mid\mathcal I).
$$
絶対値を取り、仮定5.1と $q(1-q)\le 1/4$ から
$$
|\mu-q|\le \frac{q(1-q)}{b}\kappa \le \frac{\kappa}{4b}.
$$
次に、$\eta(p)=\Pr(Z=1\mid p)$ は「$p$ を生む情報集合 $\mathcal I$ の条件付き分布」に関する $\mu(\mathcal I)$ の平均に等しい(反復期待値)。各 $\mathcal I$ で $|\mu(\mathcal I)-p|\le \kappa/(4b)$ が成り立つので、平均 $\eta(p)$ も同じ区間に入る。□
**解釈**:定理5.1は、価格依存移転が強くなるほど($\kappa$ 大)、また市場が薄いほど($b$ 小)、終値 $p$ の「確率としての解釈」が粗くなる(confidence set が広がる)ことを述べる。これは「価格を契約変数として強く使うほど操作誘因が強まり、$p$ の情報精度が低下し得る」という4章末尾の直観を、$\kappa/(4b)$ という単純な上界で定式化したものである。
> **補足:Chenモデルとの対応**
> Chenら(2011)は、最初の取引者が終値の単調関数 $Q(\text{final})$ を持つとき、分離(情報が完全に集約)可能性を $Y_H\ge Y_T$ で特徴づける(“A Condition for Separation”)。
> 本稿の定理5.1はより弱い主張(分離の存在ではなく calibration 幅の上界)だが、「outside incentive が強いほど価格の情報的意味づけが崩れる」方向性は一致している。
### 5.6(定理)情報誤差が移転(=効用)に与える影響の上界
価格ベース契約では、移転が $(p,Z)$ に条件付けられるため、$p$ の情報誤差は「条件付き期待移転」の誤差として効用に波及する。$p$ が観測されたとき、当事者 $i$ の条件付き期待移転は
$$
\mathbb E[\tau_i(p,Z)\mid p] = \eta(p)\tau_i(p,1) + (1-\eta(p))\tau_i(p,0).
$$
もし $p$ が“確率そのもの”として校正されていれば($\eta(p)=p$)、右辺は
$$
p\tau_i(p,1) + (1-p)\tau_i(p,0)
$$
に一致する。しかし一般には一致しない。この差を情報誤差由来の移転誤差として評価する。
**仮定 5.2(移転の状態間スプレッドの上界)**
各 $i\in{B,S}$ について、ある定数 $M_i<\infty$ が存在して任意の $p\in P$ に対し
$$
|\tau_i(p,1)-\tau_i(p,0)|\le M_i
$$
が成り立つ。
**定理 5.2(情報誤差による期待効用誤差:状態間スプレッドでの評価)**
仮定4.1、仮定5.1、仮定5.2を仮定する。このとき任意の $p\in P$ について、条件付き期待移転の誤差は
$$
\left|
\mathbb E[\tau_i(p,Z)\mid p] - \bigl(p\tau_i(p,1)+(1-p)\tau_i(p,0)\bigr)
\right|
\le
M_i\cdot \frac{\kappa}{4b}
$$
で上から抑えられる。従って、価格 $p$ を「確率」と見做して設計・解釈したときに生じる(移転を通じた)情報誤差は高々 $M_i\kappa/(4b)$ で評価できる。
*証明*:差を整理すると
$$
\mathbb E[\tau_i(p,Z)\mid p] - \bigl(p\tau_i(p,1)+(1-p)\tau_i(p,0)\bigr)=(\eta(p)-p)\cdot (\tau_i(p,1)-\tau_i(p,0)).
$$
よって絶対値を取り、定理5.1より $|\eta(p)-p|\le \kappa/(4b)$、仮定5.2より $|\tau_i(p,1)-\tau_i(p,0)|\le M_i$ を用いれば示される。
**解釈**:$p$ を“強い状態指標”として使う($|\tau_i(p,1)-\tau_i(p,0)|$ が大きい)ほど、同じ calibration 幅でも効用誤差が大きくなる。これは「価格に多くを背負わせるほど(価格で状態を識別させようとするほど)、価格歪みが実質的な誤差として効いてくる」ことを意味する。
### 5.7 ベンチマーク比較への含意(2章との接続)
第2章の完備契約ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ は、検証可能アウトカム $Z$ に直接条件付けて継続利得(移転を含む)を設計できる参照点であった。価格ベース契約は $Z$ に加えて $p$ を用いることで、不可記述性の下で追加の契約言語を獲得する一方、定理5.1–5.2が示すように、$p$ の情報的精度は $\kappa/(4b)$ で制約される。
従って、価格ベース契約で $U^C(\bar U_S)$ に近づける設計を行う際には、少なくとも次の二点が設計原理として要請される。
1. **価格感度の抑制**:$\tau(p,Z)$ の $p$ 依存を鋭くしすぎると($\kappa$ 増)、$p$ の confidence set が広がり、$p$ を状態推定に使う精度が落ちる(定理5.1)。
2. **状態間スプレッドの管理**:$\tau_i(p,1)-\tau_i(p,0)$ を大きくして $Z$ の実装を $p$ に強く依存させるほど、同じ情報誤差でも効用誤差が増幅される(定理5.2)。
これらは、第3章の番号ベース契約が「罰則・チャレンジ・burning により真実報告を支える」ことでベンチマーク実装(Irrelevance)に到達したのと対照的に、価格ベース契約が **“公的シグナルとしての価格”の精度制約**を本質的に伴うことを意味する。
### 5.8 小括
本章では、価格依存移転 $\tau(p,Z)$ を許す一般の価格ベース契約の下で、終値 $p$ が持つ情報的意味づけ($\eta(p)=\Pr(Z=1\mid p)$)が崩れ得ることを、confidence set により定量化した。仮定5.1(期待移転の価格感度の上界)の下で、終値 $p$ の calibration 誤差は
$$
|\eta(p)-p|\le \frac{\kappa}{4b}
$$
で上から抑えられ、これは「価格がどれだけ信頼できるか」の最小限の保証(confidence set の幅)を与える。さらに仮定5.2の下で、情報誤差が移転(ひいては効用評価)へ与える影響を $M_i\kappa/(4b)$ で上界評価した(定理5.2)。
次の段階(必要なら第6章相当)としては、$\kappa$ と $M_i$ を「ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ に近づける設計($\tau$ のクラス選択)」と結びつけ、$\mathcal U^P(\bar U_S)$ がベンチマーク近傍をどの精度で近似できるか(近似実装の意味での到達可能性)を、$\kappa/(4b)$ をパラメータとして記述する。
## 6. Approximate Irrelevance:価格ベース契約による完備ベンチマークの近似実装
本章では、第2章で定義した完備契約ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ に対して、第4章で定義した価格ベース契約の到達可能効用集合 $\mathcal U^P(\bar U_S)$ がどの程度近づき得るかを評価する。第3章は番号ベース契約が(強い制度仮定の下で)ベンチマークを**厳密に**到達できる(Irrelevance)ことを既存結果として導入した。一方、第5章は価格依存移転 $\tau(p,Z)$ が outside incentive を生み、終値 $p$ が「確率として」歪み得ること、すなわち
$$
\eta(p):=\Pr(Z=1\mid p)\neq p
$$
となり得ることを示した。そして、期待移転の価格感度が有界であれば calibration 誤差が
$$
|\eta(p)-p|\le \delta
$$
で一様に抑えられる(第5章、定理5.1)ことを得た。本章の目的は、この **情報誤差幅 $\delta$** をパラメータとして、価格ベース契約が完備ベンチマークを**近似的に**実装する(Approximate Irrelevance)ための十分条件と誤差上界を提示することである。
### 6.1 近似到達と Approximate Irrelevance の定義
第2章の参照点は、売り手保証効用 $\bar U_S$ の下で定義されたベンチマーク効用ベクトル
$$
U^C(\bar U_S)=\bigl(U_B^C(\bar U_S),U_S^C(\bar U_S)\bigr)
$$
であった。第4章の価格ベース契約クラス $\mathfrak C$ から誘導される到達可能集合は
$$
\mathcal U^P(\bar U_S)=\left\{
\bigl(U_B^P(\mathcal C),U_S^P(\mathcal C)\bigr)
\ \middle|\
\mathcal C\in\mathfrak C,\
U_S^P(\mathcal C)\ge \bar U_S
\right\}.
$$
距離として $|\cdot|_\infty$ を用いる:
$$
d(u,u'):=|u-u'|_\infty=\max{|u_B-u_B'|,\ |u_S-u_S'|}.
$$
**定義 6.1($\varepsilon$-近似到達)**
$U^C(\bar U_S)$ が $\mathcal U^P(\bar U_S)$ により $\varepsilon$-近似到達可能であるとは、
$$
\inf_{u\in\mathcal U^P(\bar U_S)} d\bigl(u, U^C(\bar U_S)\bigr)\le \varepsilon
$$
が成り立つことをいう。
**定義 6.2(Approximate Irrelevance)**
ある精度パラメータ $\delta\downarrow 0$ に沿って
$$
\inf_{u\in\mathcal U^P(\bar U_S)} d\bigl(u, U^C(\bar U_S)\bigr)\to 0
$$
が成り立つとき、価格ベース契約は完備ベンチマークを近似実装する(Approximate Irrelevance が成立)という。
本章の主定理は「第5章で得た $\delta$ に関する bound を、上の距離に変換する」形で与える。
### 6.2 価格を用いた「目標(oracle)契約」の概念
価格ベース契約がベンチマークに近づく基本的発想は次である。もし終値が情報集約的であり、かつ calibration が完全に成立して $\eta(p)=p$ であれば、終値 $p$ は「公的に観測される確率(信念)」として機能し、$(p,Z)$ に条件付けた移転によりベンチマークの継続利得構造を模倣できる。
この考えを最小限に抽象化するため、次の「oracle 実装可能性」を仮定する。
**仮定 6.1(calibrated world における oracle 実装可能性)**
任意の $\bar U_S$ に対して、ある価格ベース契約 $\mathcal C^\circ(\bar U_S)\in\mathfrak C$ が存在し、もしその取引均衡が calibration を満たし
$$
\eta(p)=p\quad\text{a.s.}
$$
であるならば、選択された均衡の下で
$$
U^P\bigl(\mathcal C^\circ(\bar U_S)\bigr)=U^C(\bar U_S)
$$
が成り立つ。
> **備考(仮定6.1の位置づけ)**
> これは「価格が完全に確率として機能する世界では、価格ベース契約はベンチマークに到達できる」ことを述べる。第4章の分離PBE(情報集約)を採用し、さらに $\tau$ が操作誘因を生まない(あるいは完全に抑止される)極限では自然な要請である。以後は、現実には $\eta(p)\neq p$ となり得る点(第5章)を、誤差評価として織り込む。
### 6.3 calibration 誤差 $\delta$ を「継続利得の摂動」に変換する
第5章の議論より、終値 $p$ の下での真の条件付き確率は $\eta(p)\in[p-\delta,p+\delta]$ にしか絞れない。このズレが移転(ひいては継続利得)の期待値に与える影響を上界評価する。
取引と移転を含む $t=2b$ の(投資費用を除いた)総利得を第4章と同様に
$$
\Pi_i=\text{(市場内利得)}+\bar v_i(Z)+\tau_i(p,Z)
$$
と書く(4.6)。このうち $\bar v_i(Z)$ は $Z$ のみに依存し、情報誤差の影響は「$p$ によって条件付けられる部分」に乗る。そこで、$(p,Z)$ によって決まる金銭部分をまとめて
$$
m_i(p,Z):=\text{(市場内利得)}+\tau_i(p,Z)
$$
と書き、$Z$ 間のスプレッドを次で抑える。
**仮定 6.2($Z$ 間スプレッドの有界性)**
各 $i\in{B,S}$ について、ある $M_i<\infty$ が存在し任意の $p\in P$ に対し
$$
|m_i(p,1)-m_i(p,0)|\le M_i
$$
が成り立つ。
このとき、$\eta(p)$ のズレは条件付き期待利得のズレを線形に支配する。
**補題 6.1($\delta$-calibration が与える条件付き期待利得誤差)**
任意の $p\in P$ に対し $|\eta(p)-p|\le\delta$ が成り立つなら、
$$
\left|
\mathbb E[m_i(p,Z)\mid p]
-\bigl(p,m_i(p,1)+(1-p),m_i(p,0)\bigr)
\right|
\le
M_i,\delta
$$
が成り立つ。
*証明*:左辺は
$$
|\eta(p)-p|\cdot |m_i(p,1)-m_i(p,0)|
$$
に等しいので、$|\eta(p)-p|\le\delta$ と仮定6.2より従う。□
補題6.1は「価格を確率と見做して設計した場合(右辺)と、真の条件付き期待値(左辺)が $M_i\delta$ だけズレる」ことを意味する。以後、このズレをベンチマーク近似の基本誤差として用いる。
### 6.4 投資均衡の安定性:摂動が効用へ伝播するための正則性
6.3で得た誤差は $t=2b$ の条件付き期待利得の誤差である。第2章・第4章の比較対象は **投資段階を含む事前効用**であるため、次にこの誤差が投資均衡と事前効用にどの程度影響するかを制御する必要がある。
価格ベース契約 $\mathcal C$ の下で、投資 $e$ が固定されたときに誘導される(均衡選択済みの)取引・清算の期待値をまとめ、投資段階から見た $i$ の「投資費用を除く期待利得」を
$$
G_i(e;\mathcal C):=\mathbb E[\Pi_i\mid e,\mathcal C,\sigma^P]
$$
と書く(4.8.1の定義と整合的)。すると投資ゲームの利得は
$$
U_i(e;\mathcal C)=G_i(e;\mathcal C)-c_i(e_i).
$$
本章では、投資ゲームが摂動に対して安定であるための標準的十分条件として「強凹性+反応の収縮性」を仮定する。
**仮定 6.3(投資ゲームの強凹性と収縮性)**
任意の $\mathcal C\in\mathfrak C$ について、各 $i$ の利得 $U_i(e;\mathcal C)$ は $e_i$ に関して $m$-強凹であり($m>0$ は一様)、さらに最適反応写像 $BR^\mathcal C=(BR_B^\mathcal C,BR_S^\mathcal C)$ があるノルムの下で収縮写像である。すなわち、ある $\rho\in(0,1)$ が存在して任意の $e,e'$ に対し
$$
|BR^\mathcal C(e)-BR^\mathcal C(e')|\le \rho,|e-e'|
$$
が成り立つ。
> **備考(仮定6.3の解釈)**
> 強凸な費用 $c_i$ と、$G_i$ の十分な滑らかさ・弱い相互依存(クロス効果が小さい)により、標準的に成立する形の仮定である。第2章・第4章の「均衡一意性」を、摂動に対して定量的に安定な形へ強めたものと理解できる。
このとき、利得関数が一様に小さく変わると均衡投資も小さくしか変わらない。
**補題 6.2(均衡投資の摂動安定性:一様誤差からの Lipschitz bound)**
2つの契約 $\mathcal C,\mathcal C'\in\mathfrak C$ に対し、ある $\varepsilon_G\ge 0$ が存在して任意の $e$ で
$$
|G_i(e;\mathcal C)-G_i(e;\mathcal C')|\le \varepsilon_G
\qquad (i=B,S)
$$
が成り立つとする。仮定6.3の下で、対応する(選択された)均衡投資を $e^P(\mathcal C),e^P(\mathcal C')$ と書くと、ある定数 $K_E<\infty$ が存在して
$$
|e^P(\mathcal C)-e^P(\mathcal C')|\le K_E,\varepsilon_G
$$
が成り立つ。
*証明(スケッチ)*:$BR^\mathcal C$ が収縮であるため均衡は不動点として一意に定まる。$G_i$ の一様摂動は最適反応の一様摂動を誘導し、収縮写像の不動点の感度評価(バナッハ不動点定理の標準的推論)により Lipschitz bound が得られる。□
(厳密な証明は、最適反応の勾配評価と不動点の感度評価を組み合わせて付録に回すのが自然である。)
### 6.5 主定理:Approximate Irrelevance(誤差 $O(\delta)$)
以下では、仮定6.1の oracle 契約 $\mathcal C^\circ(\bar U_S)$ を、現実には $|\eta(p)-p|\le\delta$ の誤差の下で運用したときの効用ベクトルが、ベンチマークからどれだけ離れるかを評価する。
まず、補題6.1より、各 $p$ での条件付き期待利得誤差が $M_i\delta$ で抑えられる。これを(投資の下で誘導される $p$ の分布に関して)積分すれば、投資を固定した期待利得 $G_i(e;\cdot)$ の誤差も同じオーダーで抑えられる(上界は $p$ に依らず一定なので)。
**補題 6.3($\delta$ から $G_i$ の一様誤差)**
仮定6.2の下で $|\eta(p)-p|\le\delta$ が一様に成り立つなら、任意の投資 $e$ に対して
$$
|G_i(e;\mathcal C^\circ)-G_i^{\text{cal}}(e;\mathcal C^\circ)|\le M_i,\delta
$$
が成り立つ。ここで $G_i^{\text{cal}}$ は同一の契約 $\mathcal C^\circ$ を「calibrated world($\eta(p)=p$)」で評価したときの期待利得を表す。
(証明は、補題6.1を $p$ の条件付き期待値で積分するだけである。)
これにより、投資ゲームは「calibrated world のゲーム」から一様摂動 $O(\delta)$ を受けたものとして扱える。仮定6.3を用いると均衡投資も $O(\delta)$ だけしか動かず、効用も $O(\delta)$ だけしか動かない。
**定理 6.1(Approximate Irrelevance:$\delta$ による誤差上界)**
仮定6.1(oracle 実装可能性)、仮定6.2(スプレッド有界性)、仮定6.3(投資ゲームの安定性)を仮定する。さらに第5章の意味で calibration 誤差が
$$
|\eta(p)-p|\le \delta\quad\text{a.s.}
$$
で一様に抑えられるとする。このとき、ある定数 $K<\infty$ が存在して
$$
d\Bigl(U^P\bigl(\mathcal C^\circ(\bar U_S)\bigr),\ U^C(\bar U_S)\Bigr)\le K,\delta
$$
が成り立つ。
さらに、売り手保証効用を厳密に満たすために、$\mathcal C^\circ(\bar U_S)$ の移転に $O(\delta)$ の定数シフトを施した契約 $\widetilde{\mathcal C}(\bar U_S)\in\mathfrak C$ を適切に構成すれば(予算制約の範囲で)、
$$
U_S^P\bigl(\widetilde{\mathcal C}(\bar U_S)\bigr)\ge \bar U_S
$$
を満たしつつ
$$
d\Bigl(U^P\bigl(\widetilde{\mathcal C}(\bar U_S)\bigr),\ U^C(\bar U_S)\Bigr)\le K',\delta
$$
となる($K'$ は定数)。
*証明(概略)*:calibrated world では仮定6.1より $U^P(\mathcal C^\circ)=U^C$ が成立する。現実世界では、補題6.3より $G_i$ が一様に $M_i\delta$ だけ摂動されるので、補題6.2により均衡投資が $O(\delta)$ だけ動く。$U_i=G_i-c_i$ であり、$c_i$ は連続で $E_i$ はコンパクト(第2章仮定2.1)なので、投資の $O(\delta)$ の変化は効用に $O(\delta)$ の変化しか与えない。これらを合算して $d(\cdot,\cdot)\le K\delta$ を得る。保証効用については、定数移転の微調整により $O(\delta)$ の範囲で修正できる。□
この定理は、価格ベース契約が(厳密ではなく)**近似的に** Irrelevance を満たす十分条件を与える:価格の情報誤差幅が小さいほど、ベンチマーク効用への近さが線形に改善する。
### 6.6 第5章の bound を代入した系:$b$ と $\kappa$ による近似誤差
第5章の定理5.1は、期待移転の価格感度が $\kappa$ で抑えられれば calibration 誤差が
$$
|\eta(p)-p|\le \delta=\frac{\kappa}{4b}
$$
で上界づけられることを示した。これを定理6.1に代入して次が得られる。
**系 6.1(市場厚み $b$ による Approximate Irrelevance)**
第5章の仮定(価格感度上界 $\kappa$)と本章の仮定6.1–6.3が成り立つとき、ある定数 $C<\infty$ が存在して
$$
\inf_{u\in\mathcal U^P(\bar U_S)} d\bigl(u, U^C(\bar U_S)\bigr)
\le
C\cdot \frac{\kappa}{4b}
$$
が成り立つ。特に $\kappa$ が有界なまま $b\to\infty$ なら右辺は $0$ に収束し、価格ベース契約は完備ベンチマークを近似実装する(Approximate Irrelevance)。
### 6.7 第3章(厳密 Irrelevance)との対比
第3章の番号ベース契約は、報告・チャレンジ・罰則(burning を含む)と均衡精緻化といった強い制度要件を用いて、不可記述性の下でも完備ベンチマークを**厳密に**実装する(Irrelevance)。これに対し、本章の価格ベース契約は、価格という公的数値を用いることで報告ゲームを置かずに情報集約を期待できる一方、価格依存移転が outside incentive を生み得るため、終値 $p$ の「確率としての意味」が **$\delta$ の精度でしか保証されない**(第5章)という制約を伴う。
したがって制度比較の観点からは、
* 番号ベース:制度要件は重いが、達成結果は厳密(誤差 0)
* 価格ベース:制度要件は軽いが、達成結果は近似(誤差 $\asymp \kappa/b$)
というトレードオフが明確になる。ここで $\kappa$ は移転が価格に与える誘因の強さ(価格感度)を、$b$ は市場厚み(LMSRの流動性)を表し、価格を契約変数として強く使うほど $\kappa$ は増えやすい一方、市場が厚いほど($b$ が大きいほど)歪みの影響は抑えられる。
### 6.8 小括
本章では、第5章で得た calibration 誤差幅 $\delta$ を出発点として、価格ベース契約が完備ベンチマーク $U^C(\bar U_S)$ をどの程度近似できるかを定式化した。oracle 実装可能性(仮定6.1)と、$Z$ 間スプレッドの有界性(仮定6.2)、投資均衡の安定性(仮定6.3)の下で、価格ベース契約によるベンチマーク近似誤差は $O(\delta)$ で上界づけられる(定理6.1)。さらに第5章の bound を代入することで、近似誤差が $O(\kappa/b)$ で制御されることを示した(系6.1)。これにより、価格ベース契約は厳密 Irrelevance を置き換えるものではなく、**市場厚みと移転の価格感度に応じて精度が変わる近似実装装置**として位置づけられる。