# 資料集sample ## 2021/06/15萩原更新分 [衆議院 津村 2019](https://globis.jp/article/7044) >今、日本で行われている最高のホスピスがすべての病院に、しかもサプライサイドまで高齢化社会に対応できるほど充実すれば、結構な割合で苦しみは取れる。また、苦しんで死んでいくことも減ると僕は思っています。実際、札幌のその病院で亡くなる方は、本人も家族もすごく幸せに、豊かな最期を迎えています。~~こういう現場ですから、たとえば亡くなる前は少しずつ摂食を減らすんですが、「食べさせなかったから死んだんだ」と言われて訴えられるケースもあります。死に対する理解が進んでないせいで、そうした反発を受けることは稀にある。~~でも、その札幌の病院に関して言えば、ほとんどのケースで非常に高く評価されていますし、そうした病院が増えればこの問題もある程度は解決すると思っています。 [日経新聞2019](https://www.nikkei.com/article/DGKKZO4065440030012019KNTP00/?unlock=1) >国立がん研究センターは2018年末、全国のがん患者が亡くなる前の実態を調査した結果を公表しました。 >終末期のがん患者を直接調査するのは難しいため、実際には患者に寄り添っていた家族から聞き取る「遺族調査」が行われました。全国的な遺族調査は日本初となります。 >調査は昨年の2~3月に郵送法で行われ、がん患者の遺族1630人から回答がありました。「亡くなった場所で受けた医療に満足している」と回答した割合は全体で約76%、ホスピスや緩和ケア病棟で亡くなった場合に限れば約82%でした。 >しかし、死亡前の1カ月間を痛みがある状態で過ごしていた患者は3割程度、気持ちのつらさを抱えていた患者も同程度に上りました。亡くなる前の1週間でも約27%がひどい痛みを経験していました。人生の最終段階で、多くの患者が体や心の痛みを抱えていたことが分かり、胸が苦しくなりました。 >現在、病院で亡くなる割合は約8割ですが、今回の調査では、自宅での死亡が4割と高いなど、みとりに熱心な遺族からの回答が多いように思います。終末期の苦痛緩和の実態は今回の数字以上に悪いと思われます。 [早稲田大 劉 2011](https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjktsu03ZnxAhW4wosBHd93BEcQFjAHegQICBAD&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F286926779.pdf&usg=AOvVaw2eRSdAsaw8S1R4GNsqZdq6) >また、緩和医療も 終末期医療に深く関わっている。緩和医療の発達は、末期病者の肉的苦痛を和らげ又は 除去することを可能にしてきた。これにより、苦痛に喘ぐ末期病者が安楽死を要求する ケースは減少していくことになろう。 [聖隷三方原病院 森田 2009](https://www.hospat.org/hakusyo/pdf/2009_3_1.pdf) >より思者の布望に裕つ人生を提供するために,世界中で緩和ケアの研究がまさに行われている。現在,緩和ケアの専門誌は10誌を超え,Journal bf Pain Symptom Managementは30号を超えた図3)。これらの専門雑誌には日本からもeditorが参加しており(表1),日本からの成果も着実に増えている(表2)。特にわが国では遺族調査 が熱心に行われていることで国際的な遺族研究の進歩に貢献していることが高く評価されている >今後,緩和ケアが患者に貢献するためには,ホ スピスケアが生じた 1960年代の背景を理解した うえで、ホスピスケアの哲学をもった緩和医学を 進展せしめることが必要である。 [川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター緩和ケア内科医長 西川 2019](https://www.m3.com/clinical/news/697883) >今の日本で安楽死が日本全国どこででもできるようになれば、必ず「緩和ケアよりも安楽死の方がアクセスが良い」という事態になりかねないと予想するからです。そういう状況では、苦痛の緩和さえ得られれば、避けられたかもしれない死が発生することは目に見えています >しかし、適切な緩和ケアを受けることができれば、実際にはほとんどの苦痛は緩和できるのです。適切な緩和ケアがいまだ届いていないことが、まず大きな問題と考えます。 >安楽死がない世界」から「安楽死がある世界」への転換についての懸念もあります。つまり、もし、日本で安楽死が広く可能になったとして、これまでは安楽死が存在しなかったから、「生きる」という選択をしていた人が、安楽死ができるという世界の中では死に向かっていくかもしれないということです。「本当はもう少し生きていたいけど、他人に迷惑をかけるくらいなら死んだ方がいいのかもしれない」というのはその典型です。安楽死がある世界においては、周囲や社会への同調の結果として望む死と、個人の生きる意思の結果としての死の希求を鑑別する必要があります。 [県立広島大学 黒田 2007](https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiv3-HmtpjxAhVDUPUHHRptDN0QFjACegQIAxAE&url=http%3A%2F%2Fharp.lib.hiroshima-u.ac.jp%2Fpu-hiroshima%2Ffile%2F4898%2F20091202014232%2FKJ00005127959.pdf&usg=AOvVaw3RB1D4-YRAIs4tbfdES8pw) >病名・病状を知っており症状コントロールの良好な終末期$ん患者6名を対象に,参加観察法と面接法によりデータ収集を行い,質的帰納的に分析を行った。 分析の結果,得られた終末期がん患者の選択する生き方の本質は,1)生命の維持と病状の安定を求める,2)迫りくる死に身を委ねる,3)自己を重視する,4)自らの力を信じる,5)他者を気遣う,6)心理的安寧を求る,の6つに集約された。 >積極的にがんと闘う姿勢ではないが,そこには常に生への希望が存在しており,あるがままを受け入れようとする悟りの境地でもあると捉えられる。終末期がん患者は,それまでよりも一層時間の大切さを強く感じるようになり,治療とやるべきことを同時に行えるように外来治療を選択し、また、一日一日 を大切に生きようとしていた。これは,終末期がん患者に生きたいという希望が維持されつつも迫りく る死を受け入れる気持ちが存在し,時間の有限性や その価値を改めて実感することで,後悔しないように有限の中で精一杯生きていこうと視点を転換した ことを意味していると言える。 [鳥取大学  安藤 2020 ](https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/424/) >ところが、その人を死なせることによって苦痛から解放するというのは、本当に問題を解決したことになるのかというと、私は全然違うと思うんですね。つまり、死んでいく瞬間にその人が本当に安楽かどうかっていうことは、わからないわけです。亡くなったあとの人に、「あのときに楽でしたか」と聞くわけにはいかないし、亡くなる瞬間、仮に「こんなことをしなければよかった」という後悔が起こったとしても、それを表出できないわけですから。そうすると、安楽死で、なぜ耐え難い苦しみの中にいる人に救いみたいなものが与えられるかというと、「安楽死できるんだ、この苦しみから解放されるんだ」と知ったときの「心の安らぎ」ということなんですね。つまりそれは、「死の安楽」ではなくて、「生の安楽」だということです。 >そういう「生の安楽」「心の安らぎ」というのは、安楽死以外のものによっても、もたらされる可能性があります。誰か新しい人と出会うとか、何か新しい希望を持つということは、いくら病気が進行しても、いくら身体が動かなくなってもあり得ることであって。例えばガンの終末期であと2、3日しか生きられないような人が、「これまで生きてきた中で、今がいちばん幸せだ」と語られるようなことは、しょっちゅうあるわけです。そうすると、安楽死を肯定する人たちが言うような、「そのような苦しみを取るには安楽死しか方法がない」という主張は、やっぱり非常に疑わしいと言わざるを得ません。 >ところが「死ぬ」という選択というのは、実はこちら側──生きてる側、まだ死んでいない人の側──からしか見えないわけです。死んでしまってから、死ぬという選択をして正しかったのか証明されることは、絶対にないわけです。逆にそこで思いとどまったときに、後から「あのときに思いとどまって良かったな」と思う人は、安楽死であれ一般的な自殺であれ、いくらでもあることですね。 >つまり、ある状況に陥ったときに死にたくなるか生きたくなるかっていうのは、生きようとしたときに、生きるための負担が自分やその家族に全部かかってきて、人の助けが得られない状況の中でその選択をさせるのは、結局その人に「死になさい」と言ってるのと同じことだということです。だから、そういうところで自由な選択とか自分の価値観に合わせた選択ということはあり得ないということ、それはある種の強制なんだということを、多くの人に気づいてもらいたいなと思います。 >いわゆる“安楽死”のように、何か特定の病気や老化が進行していって死が避けられない、死期が迫っている、というようなことを条件にするわけですが、そういう判断を医師がどの程度確実にできるか、と言えばそれも結構あやしいわけです。実際に医師に聞いてみると、余命の診断というのは、数日とかならほぼ確実にできるけれど、何カ月という単位になると、ほとんどできないと皆おっしゃるんです。実際、あと2、3か月の命ですと言われて、何年も元気で生きている人は世の中にたくさんいます。だから、治らない病気だからとか、どんどん進行していくから、「死ぬ権利」があるというのはやはりおかしいだろうと。 >体が動かない状況になって生きている方も、別に決して強い方だったんではなくて、先ほど言ったように、たまたま「生きることを肯定できるような何か」に出会った。出会うためには、やっぱりきょう一日を生き延びる。明日一日、もう一日生き延びる。決定をしないで、なんとかやり過ごす。そういうことが大事なことじゃないか。つまり、他人がある人の人生観・価値観を変えるなんてことは、どだい無理な話なんです。それは「変える」んじゃなくて、「変わる」可能性が常にどんな人にもあると思うのです。「変わる」可能性を絶ってしまわないためには、生きるか死ぬかという決定を先延ばしにしていくことが一番大事なのではないでしょうか。 >治らない病気とか、どんどん進行していく病気って、先のことを説明しようとすると、医学的にマイナスのことにしかならないわけです。つまり今後、治療しても良くなるとか、回復するとかっていう可能性がないのであれば、医学的にはマイナスの説明しかできないわけですよね。 ところが、例えばALSの方などに聞くと、病気が進行してできることが少なくなっていけば、どんどん生活の質が落ちていくかというと、実はそうではない。あるところで慣れるわけです。前できたことができなくなったときに、QOL(生活の質)が落ちて、本人も非常に落ち込んでしまうんですが、その状態に慣れれば、いろいろなサポートの方法が見つかったり、新しい器具を取り入れたり、口で喋れなくなったときに視線で入力してパソコンを打てるようになったりすると、自分の行動範囲とか、交流できる範囲がグッと広がりますね。そうすると、生活の質が上がるわけです。 >受け入れることによって、諦めてしまう、何もしなくなるというのは間違いです。誰にでも必ず死は訪れます。その限界を知った上で、その残された命を何に使うのか、何ができるのかっていうことを考えるのは、やっぱり人の使命なんじゃないか。それは何も拷問のように生を押し付けることでもなくて、変わる(変えられる)可能性は全ての人に開かれている、それを信頼するっていうことが、すごく大事だと思うんです。 ## 2021/06/16discord移行 [ヘンディン 2000](『操られる生と死』pp.270-271) >安楽死の推進者たちは、死に魅せられてきた。患者の自殺を、病気を治す方法とみなし、人間の力に勝る死の権力を奪い取る道と見るに至った。自分にかなったやり方で人生の最終局面を迎えられるよう建設的な努力をしないで、行きつく当てのない危険な道へと迂回し続けてきたのである。これは、国民の共感とともにあるべき社会政策の取る態度ではない。末期患者に対する、もっと大きくもっとポジティブな関心こそ、社会政策のベースになるべきである、それは、末期患者の痛みを取り除き、彼らの恐怖の性質を理解し、これまで生き、今なお続く制を肯定し、意味を与えることによって患者の苦痛を和らげようとする、前向きな決意を反映したものでなければならない。 [富山医科薬科大 盛永 2003](https://core.ac.uk/download/pdf/70320819.pdf >ランダでは緩和医療に関する認識があまりなかった。 最近, 苦痛 をとる技術について注目され, この技術が,安楽死の代替として, 少なからず安楽死に影響を与えて いる。 またカウンセリングの専門家を用意するなどして,患者とコミ ュニケーションをとることも試みられている。 安楽死を一つのオプシ ョンとすることにより,安楽死を 防げるのではないかという期待も出てきている。 医師としてある一個の人間の生命を終わらせることは とても難しいことであり, 医師にはその権利があるのだろうか, 多く のオランダの医師は困惑を感じているというのも、オランダのもう一つの真実である [東海大広瀬2009 ](https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10990025_po_19114505.pdf?contentNo=1&alternativeNo=) >興味深いのは、医療費抑制策にもとづく医療改革が進められている時期に、緩和ケアには予算を投じて短期間に整備が行われた点である。安楽死法をめぐる国際的な批判を避けるために緩和ケアを整備せざるをえないという指摘もあるが、見方をかえれば、オランダでは、安楽死法が緩和ケアを予想以上のスピードで発展させることになったと言える。 >だが、政府の政策は、施設を急速に増やすこと に終始しており、すべての市民に緩和ケアへのア クセスを保障するものになっていないという批判も ある16)。また、近年の緩和ケアの急速な発展につ いて、安楽死法に対する国際的な批判をかわすために、それを整備せざるをえないオランダの事情を指摘する声もある >また、緩和ケアをめぐる議論が、安楽死問題と切り離せないこともオランダの特徴といえる。緩和 ケアの充実が、安楽死を減らすことになるか、という点に関しては、国内でも意見が二分されている。 [京都大学佐藤 2011] (苦しみと緩和の臨床人間学―聴くこと、語ることの本当の意味) >痛みというのは、徹底的に孤独な世界の体験です。どんなに「痛い」と叫んでも、相手にはその痛 みはわかりません。しかし、「痛いのですね、痛いね」と手を握って傍にいてくれるだけで、痛みが 遠のくことが不思議なことに実際に起こるのです。 痛みは、徹底的に主観的体験なのです。主観的体 験であるから、その痛みの軽減も主観的作用(現象学的純粋自我の意識作用)によって、軽減される可 能性を秘めているのです。 人との関係性で痛みが和らぐことがあるし、逆に他者との関係性が悪いと痛みが増強することもあ るのです。科学的説明はできませんが、「痛み」が主観的体験としての出来事であるという事実から みれば、あってもおかしくないことなのです。 「今、ここのつらい事態を生きている」という差し迫った体験の物語が誰かに受け止められるとい うことは、鉄壁の孤独の世界に一筋の光が差すことを意味するのです。 >しかも、過去や将来が削ぎ落とされた「今」だけが残る世界にいます。つまり激痛とは「今、ここ にひとり」という閉塞状態を意味するのです。 激痛のなかの私は、「この私の痛み」一点に意識が向かい、「誰もわかってくれない、他者と共有で きない」(無関係)、「将来も過去もない、いつ終わるとも知れない」(無時間)、「どうにもできない」 (無自律)状態のなかで痛みに耐えているのです。「痛み」 >身体の痛みに対して、鎮痛剤を使います。鎮痛剤は科学的に痛みのメカニズムに作用し神経生理学的効果を現します。その場合、薬剤が体のなかで作用し、痛みがおさまるのですが、薬剤の作用を受け、神経になんらかの動きがあったとしても、神経の動きは、やはり主体となった身体のなしたことです。つまり、薬剤という物質は、痛みを和らげる動きを助けてくれたのであって、主体となっている身体が主役なのです。 薬剤の効果は個人差があり、物理的生理学的な標準的奏功が期待できない場合があります。なぜ、 普遍的奏功性が期待できないのかについては、恐らく科学的証明がなされているのでしょうが、筆者 にはそのあたりの説明はできません。ただ、どうしても鎮痛剤が効かない場合、医師はお手上げです。 そして、なぜ効かないのかについては、個体差としか言いようがないのです。 身体の痛みも徹底的に主観的体験です。その痛みを手の上にのせて差し出し「これが私の痛みで す」と言って見せることはできないし、言葉で巧みに表現したとしても、どうしてもその痛みを他者 に正確に伝えることができません。つまり他者には絶対にわからないのです。 そのような筆舌に尽くしがたい体験を言語という道具を用いて表さなければならないとしたら、それは「痛い」事態を生きている「今、ここ」の私の体験を物語として訴えるしか術がないのであり、 その物語を受け止めてもらいたい訴えが「痛い」と叫ぶ患者の在りようなのです。その在りようは鉄 壁の孤独のなかでの叫びだとしたら、その叫びは孤独の淵から救いを求めている声なのです。 痛い人は、「痛い」をわかってもらいたいのです、「わかってもらえた感」によって楽になり、次の 新しい一歩を踏み出せるのです。痛みを感じている当事者は「苦しみと緩和の構造」に示される「こ の痛みは、NOだ」(シェーマZのO)をまずは、受け取ってもらいたいのです。 第5章 他者の関与と援助 さて、他者が患部に手を当て、優しく撫でると痛みが和らぐのはなぜでしょうか。もちろん、物理 的侵襲による激痛には撫でるという行為は不似合いかもしれませんが、原因のわからない痛みに他者 の手のぬくもりがその痛みを和らげるのはなぜでしょうか。痛みとは主観世界の不思議な体験物語な のです。 >激しい苦痛に襲われたとき、人はどのような状態に陥るでしょうか。激痛に襲われ身動きできない 状態は、あるものが欠落した状態となります。 激痛時、欠落するのは「他者との関係性」「時間の概念」「自律的自己」です。 激痛のなかにあるとき、周辺の人間関係に意識は及ばず、隣で誰が関わっていてもそこに存在する のは「我」ただひとりとなります。激痛の只中にある状態ではそこに「女」は無いのです。 意識はただ一点、今ある激痛のみに向けられるのです。激痛のなかにあった者にその激痛が緩和さ れた後、「私がずっと背中をさすっていたよ」と告げても「全く気づかなかった」といいます。これ は激痛のなかにあった者は「汝」のいない世界に生きていたことを傍証しているのです。 また、激痛のときは周囲の状況もつかめません。周囲に誰がいるのか、暗いのか明るいのか、どこ に運ばれているのか、どんな処置が施されているのか、自分の衣服が乱れているのか否か、他者が自 分をどう見ているかなど考え及ばないのです。この世界には「我」ただひとりという鉄壁の孤独な 首都大学東京 西村 2019 >治療を中断するか/しないかという、二者択一的な選択はそれほど多くありません。表沙汰にならないだけで、そのつど医療者も考えながら治療しています。医療実践がうまくできていれば、やめるか/やめないか、という極端な判断にはならない可能性があります。つい数十年までは、侵襲の大きい手術を熱心にしていました。今の医療は、できるだけ侵襲を小さくし、負担をかけない治療方針に変わっています。それで治ったり回復すればそれでいいし、難しければ、病気をもちながらどうやって暮らしていくかを考える。がんの治療でも、突然「やめますか」と言われるわけではなく、「こういう薬もありますが、今の状態から考えると負担が多過ぎますね」と相談をしながら決めていきます。そうして細かな判断・選択をしてきているという自覚があると、ある種の選択が「大きい選択」という意味として迫ってこないのではないでしょうか。“選択”をあまりにもクローズアップし過ぎると「“選択”しなければならない」と思ってしまいます。それが「重く大変な課題が待ち受けている」という状況をつくってしまっている、ということもできます。さらに言えば、その判断を積み重ねれば、「死を選択するかどうか」ではない、もっと別の選択ができるのではないかと思います。 看護展望2019-9 >弁護士 奥野 1994 現代医学の力を持ってしても、末期がんを治癒に導くことができない。そのことがわかったとき、医師は患者を見放してしまう。安楽死事件の記録を読んでいていつも気づくことである。しかし、当該患者のがんを治癒することができず、死が確実に目前に見えてきたからといって、無駄と知りつつ治療効果のあがらない医療を続けることは問題であり、まして、患者を見放すようなことは論外である。余命幾許もない患者であるがゆえに、その限りある日々に光彩を与える援助がなされなけれならない。 がんが治癒できず、死が避けられない現実として、その人の前に今まさに訪れようとしているのであれば、患者を一人の人として扱う医師として、その患者のために闘うべきは、 痛みの除去と精神的援助ではないだろうか。 統計によれば、日本人は四人に一人ががんに倒れ、がんに罹患した人の四割が、激しい痛みとの闘いの中で死を迎えるという。その痛みの除去・管理が、医術的にコントロールできる事態になってきているとすれば、医者として、なすべきは、がん患者の疼痛管理であろう。痛みは人間を変え、人格まで失わせてしまう。人間は誰しもいつかは死ぬものであるから、死を受容することはできても、痛みはいかなる人格者でも、寛容な精神の持ち主でもこれを受容することができない。安楽死事件の記録は、そのことを明確に物語っている。それゆえに、末期がん患者のために、ホスピスの充実を声を大にして叫ばなければならない。 >なかでも、昭和五二年(大阪)、昭和五六年(京都)、昭和六〇年(東京)、平成二年(高知)および平成三年(宇都宮)の事件は、被告人を有罪とするのは、誠にしのびがたいものがある。これらの事件は、いずれも末期がん患者が被殺者となっていて、事件が起きた背景をつぶさに検討すれば、これらの患者のおかれている医療の貧困こそが、問題とされるべき事件であった。 これらの事件では、末期がん患者に配慮されるべき、痛みの管理と、患者はもとよりその家族に対する精神的援助が、なされておらず、さらに、3患者の個性、人格が省りみられていない。しかもその患者の余命は「あと数時間か」(宇都宮)、「もっても四、五日または一週間くらいだろう」と医師たちによって宣告されている。ところが、これらの医師たちは、激痛を 訴えている患者に対し、「病院にいても特別な治療方法がなく、自宅療法でも大差がない」、とないう理由で退院をさせているか(京都、東京、高知)、患者を病院に入院させている場合でも、「他に施す術がなかった」との医師たちの供述にもある通り、患者は医師から見放されていた。おかれている状況ターミナルケアが十分なされず、非人間的な医療のあり方が実は安楽死事件の共通基盤となっている 安楽死事件―模擬裁判を通してターミナルケアのあり方を問う 鳥取大学 安藤 2012 >医療の専門知や技術的介入の枠組み自体が,そうした病気や障害をもって生きる人々(もちろんそこには共に生きる人々も含まれる)の生の現実やその実感にとどかないだけでなく,そのことを医療者が意識できないことによって,そうした病気や障害についての偏ったイメージが伝達され、自己増殖していくことになる。このことは、終末期医療における死にゆく人々の生の現実にいても大いに当てはまるだろう終末期医療とも深く関係する安楽死や尊厳死については本章で直接に論じることはできないが,一つだけ指摘しておきたいことがある.安楽死や尊厳死が本人による「(死の)自己決定」という根拠によって肯定される場合,そこで一番問題なのは、そうした決定の基盤となる情報のあり方と質であると筆者は考えている。終末期にある患者やその家族,あるいは一般に生活の質がきわめて低い状態で生きているとされる患者やその家族が,実際にどのように感 じ,どのように生きているか、ということを知る機会は,一般の人には非常に少ないであろう。もちろんそうした当事者の感じ方や生き方はきわめて多様である とはいえ,当事者と直接に接する機会のない人々が,たとえば「こういう状態になったら死にたい、死を選びたい」と思うかもしれないような状態についての情 報は,直接あるいは間接に医師や医療者のフィルターを通して構成,伝達されている。そこでは、先に述べたような,医療の専門知の枠組みによってそうした状 態における生活の質(QOL)が過小評価されている危険性が高いばかりでなく、医療以外の手段によって生活の質がかなり向上し,生の可能性が拡大する可能性 に目が向けられていない危険性もある. このような状況で、死をもたらしたり、生命を短縮したりする決定が「本人の意思」を盾にとって肯定されることがいか に危険であるかは言うまでもないだろう4 第4巻 終末期医療 The Japanese Bioethics Series (シリーズ生命倫理学) 単行本 – 2012/12/18 元日本看護協会常任理事 季庭 1993 >がんの痛みの緩和には、薬剤がその主役であることはいうまでもありません。 しかし、まえに述べたように、痛みはいつも不快な体験であるため、つねに感情的な体験です。適切な薬剤と同時に、この感情的な体験に手を当てないと、効果 的な痛みの緩和にはなりません。 十分な睡眠や休息、人とのふれあい、気晴らしとなる行為などが、痛みの閾値を高め、ときにはモルヒネと同じ効果をもつ治療にもなります。 たとえば、モルヒネを一日240ミリグラム服用していたMさんは、痛みが強くなったときに、臨時にモルヒネを一日10ミリグラムずつ二回ほど追加すること もありました。 ところが、大好きな美空ひばりの歌を歌ったときやベッドのまま近くの公園に散歩にでたときには、モルヒネの臨時投与がなくなります。歌うことや気晴ら しとなる行為が、痛みの閾値を上昇させるのです。 閾値とは本来、化学や物理の分野の表現ですが、人間の痛み(苦痛)の感じ方を左右する情緒的・精神的な内容にかかわる言葉としてもつかわれています。 閾値をたかめるケアは、苦痛の緩和には不可欠です。私どもの音楽療法士が行なった研究では、音楽療法の前後で、がん細胞を殺すといわれるナチュラルキラ ー細胞が、最大5%も増えることがわかりました。 このように人間のこころとからだは、深いつながりをもっています。最近は精神神経免疫学という新しい学問分野でも、そのメカニズムについて研究されるよ うになってきました。 あなたの感じる“痛み”はどのようなものですか がんの痛みからの解放は、基本的には適切な薬剤の処方と、この閾値を高める ケアを、一人ひとり個別的に考慮することによって、その効果があらわれます。 薬剤の処方は医師でなければできませんが、閾値をたかめる個別的なケアは、 可能です。 ナースの役割であると同時に、患者さん自身やご家族が主体的に実施することも お孫さんの書いた一枚の絵や、かわいがっていたペットとの面会が、患者さんの気分を高揚させることはたびたびです。 ホスピスケア 限りある命に寄り添う  上智大 浅見 2013 >特にALSは進行性の難病のため、「昨日できたことが今日に厳しい現実によって、否が応でも自らの限界を目の当たりにつきつけられます。そして同時 に、ケアする側もケアできる範囲が次第に少なくなっていく現実に、自分の無力さを痛感させられるという自らの限界に直面させられます。しかし、このことは、私たちが無限な存在であるという思いあがりを容赦なく打ち砕き、「有限を生きる」という人間存在の 囲とどう折り合いをつけていくのかという、私たちが様々な状況の中でこそ存在しうるという状況内存在であることを気づかせてくれるのです。 私が関わらせて頂いたその方は、ALSという難病を抱えて生きることについて、ある睡談交じりに笑顔でこう語ってくれました。「ALSになって変わったこと。頭が冴えてる。眼が治った。水虫が治った。無口になった。女の子にもてるようになった。禁煙できた。ダイ エットできた」と。私はこの言葉を文字盤で読み取りながら感動し、フランスの作家であるアンドレ・ジッドが綴った、「病気はわれわれにいくつかの扉を開けてくれることの出来る鍵だと思う。ただ病気だけが開けることの出来る扉があると思う。健康状態はわれわれがものを理解するのを妨げることがある」という日記の一節を思い浮かべたのでした。 その方もまた難病を自らのものとして了解し、これまで慣れ親しんできた扉を失意の中で閉 じるだけでなく、そのことによって開かれうる新た扉をしっかりと開いて、かつての世界に難病という色彩を加えて描き直した自らの新しい世界をしっかりと踏みしめることによって、世界内存在としてまぎれもなく現に存在しておられるのです。 >また、その生に関わることによってその生を支え、その生に参加している自分も意味づけられ、自分も同じ人間としてその可能性に気づかされます。試行錯誤しつつも、病気の進行に合わせたケアを模索することのうちで、新たなケアの可能性も開けていきます。このように、難病は人間存在の可能性と力強さを再確認させてくれる機会となりうるのです。 死ぬ意味と生きる意味 ——難病の現場から見る終末医療と命のあり方 富山医科薬科大 沢田 1996 >「自分が愛されている」、「必要とされている」と感じる時、人間の尊厳は回復してゆく。とりわけ、死という最も厳粛な瞬間が近づく時、その尊厳を取り戻すことができるのなら、それは不幸な人生を最後に補う力となってくれるかもしれない。ここに「死を 待つ人の家」の存在価値がある。この家では、看取られる貧しい人々も、看取る側の人間も、皆平等の関係にあるという。 その平等は、上から善意を施すのではなく、病者に仕えることが、同時に彼(女)らから受けるこ とでもあるという認識から生じるものなのである。そして臨死者は虫けらから人間の尊厳を取り戻して、安らぎの中に息を引き取ってゆく。この家はホスピスとは名のってはいないが、ここにホスピスの理想型を見るのは私だけであろうか。そういえば、近代ホスピスの生みの親と言われるアイルランドの修道女、メアリー・エイケンヘッドも、「死の前の平等」を期して、ダブリンにホスピスを設立したのであった。 人間の現実は底が知れている、と諦めるのは簡単である。しかしそこから得るものは何もない。 困難であるからこそ、理想に向かって努力をするのである。そこに成長の鍵も隠されているのではないかと私は信じたい。 >このように信仰に生命をかける人々をしても、死はこれほどの恐怖をもたらすのであるのなら、 弱い普通の人々は推して知るべしであろう。 それではいったい死の何が、それほど恐怖の対象となるのであろうか。残念なことに私が知る限りでは、この問題に重点的に答えている書物は少ないように思われる。死が恐怖を惹き起こすことはあまりにも自明なことなので、研究の対象とはならないのであろうか。しかし私は心理学的にもこの問題は、例えば不安神経症の病因など興味深い研究領域を開拓してくれるであろうと考えている。 それはさておき、少数ながら死の恐怖を分析した論文も確かにみられるので、それを少々紹介 したい。シュルツ(R. Schulz)による論文には、死の恐怖を構成する因子として次のような項目があげられている。すなわち、肉体的苦痛への恐怖、屈辱への恐怖、目標が果たされなくなることへの恐怖、死後の神罰への恐怖、存在を失うことへの恐怖、遺族の悲しみへの恐怖等々である。 この中では、存在を失うことへの恐怖が最も重いものであろうが、私が数多くのケースを体験して得た実感では、死の恐怖はもっと別のところより来ているように思われた。というよりは、これらの各項目は恐怖を構成する要因にはちがいないが、最も重要な項目が抜けているように感じそれでは、私が多数のケースに触れた実感から得た中心的な要因とは何であったのか。それは孤独への恐怖、しかも絶対的な孤独への恐怖であるように思われた。人間が死を恐怖するのは、「死 ぬ」という事実そのものによるのではなく、死によって自分が今まで結び、その中で安住してきたあらゆる関係が断絶してしまうことによるのである。人間は常に関係の中で生き、関係の中で精神の安定を得る存在である。それ故、一人では絶対に生きることができない。この関係は人間に対するものばかりではなく、他の動物や生物に対するものであってもかまわない。しかしながら死はある意味で、絶対的に一人になることを強要する。特に心に神をもたぬ人々にとってはっ うである。死路への旅は誰も共にはしてくれない。一人だけの出立でもある。けれども人間はそれを考えることに耐えられないのだ。特に互いが依存し合って生きてきた日本人には、その傾向が強いように思われる。だからこそ死を予感した時には、ふだんよりもいっそう他者を求めるのではなかろうか。しかし現実は往々にして彼(女)らの望みとは逆の場合が多く、末期患者が他者を求める時に、人々は自己防衛からか、または恐怖からか、彼(女)を避け、全き孤独の中に捨て 置くのである。こうして末期患者は一人ぼっちの病室で死の恐怖を先取りさせられ、その孤独は耐え難きものとなってゆく。 よく末期患者の口から出る、「死そのものは怖くない。それまでの諸々のことが怖いのだ」という言葉は、こうした状況も表しているのであろう。一人ぼっちの病室で、末期患者に悲観的にならないようにと言う方がむつかしいのである。まかり間違えば、末期患者は死そのものよりもそ 末期医療からみたいのち―死と希望の人間学 単行本 – 1996/4/1 [早稲田大 甲斐 2012](シリーズ生命倫理尊厳死安楽死p231) >鎮静は,事前に安楽を要請した80歳以下のがん患者にとって、ほとんど共通に行われるもので申告の割合の急激な増加は,部分的には,いかなる医療行為が生命終結として考えられるか,ということに関するより明確な見解の結果である.2005年に、バルビツール塩酸(barbiturates) のような神経・筋弛緩剤(neuro-muscularrelaxants)を睡眠薬と組み合わせて用いる内容の医療の99%は,安楽死として申告されている.2001年にはこのカテゴリーで、74%しか申告されていなかったが、本調査は,初めて,申告されなかった理由に関するデータを提供している。すなわち,相当の注意(due care)の全基準を充足したか否か疑わしいがゆえに申告しない医師,および訴追を恐れているがゆえに申告しない医師は、ほとんどいないのである。 評価研究が明らかにするところによれば,医師の20%は,催眠剤(opiates)および鎮静剤(sedatives)を用いた医療が安楽死ではなく,苦痛緩和ないし和的鎮静であるがゆえに,要請に基づく生命終結を申告していないのであるかくして,オランダでは、諸外国から批判を受けた「滑りやすい坂道(slip-pery slope)」の懸念は事実に合致していないという認識が強い、さらに5年を経て,2010年にも5度目の国家的規模の評価が行われたが,結果はしばらく公表されていなかった。世界が注目しているので慎重に分析する必要があるというのが遅延の理由である。ようやく2012年夏にその評価結果が公表された。 2012年8月21日から23日にかけての現地調査で確認したところによれば、任意的安楽死の数は、全死亡数の 2.8%になった。ちなみに,2001年にはその割合は 2.6%, 2005年には1.7%であった。したがって2001年当時に近づいたことになる.安楽死を要請する患者の割合は,2005 年には全患者死亡数の 4.8%だったのが,2010年には 6.7%になっている。医師たちが安楽死を容認する割合も,2005年には37%だったのが,2010年には 45%になっている。オランダでは、安楽死法の定着により,緩和的鎮静との選択が明確に可能となり,医師・患者間の信頼関係が強くなったとして,この結果を好意的に受け止めている. >最近の医療では,かなり難しいケースであっても,症状緩和ができるといわれてきているが,それでも100%ではない、神経因性疼痛(neuropathic pain)に対しては 40 ~ 60%の患者に対して部分的緩和がもたらされるだけであるという報告もあるが、対応の難しいある種の苦痛は,深い持続的鎮静で意識レベルをさげて対応することになろうが,意識を落として何も感じない世界に生きることを良しとしない人もいる.他人の管理下でただ生きているだけの命を尊厳のある生とは言えないとする人がいても不思議ではないだろう 終末期の苦痛とは種類が異なるものの,ハンチントン病等の病状進行時の苦しみも尋常ではないといわれている、生命の終わりがみえない人への深い持続的鎮静はもとより不適切であるとされるべきなのかもしれないが,調査によればおよそ4人に1人が自殺を試み, 5.7 ~10%の人が自殺で死亡している. 尊厳をもって生きること,自由を望む人の安楽死の依頼を無視することはそう簡単ではあるまい. >日本医師会生命倫理懇談会は安楽死が存在するとしたが,実態調査は一つしかない、匿名性を保証して緩和医療界を対象とした調査によると, 54 ~53%の医師と看護師が死期を早めるように患者から依頼された経験があり,そのうち医師の5%が積極的な手段を講じて患者の依頼に応えたという「127. 同報告では,33% と 23%の医師と看護師が自発的積極的安楽死は倫理的に許されるとし,合法化されればそれぞれ 22%と 15%が実行すると答えていた.以上,医療関係者は自律を重んじる姿勢から自発的安楽死へ理解を示すが,一般人は自律概念ではなく慈悲殺の文化から安楽死容認の姿勢を有していることがわかる. 安楽死・尊厳死 (シリーズ生命倫理学) 単行本 – 2012/11/27 [ナイメーヘン カトリック大 ハーフ 2004](https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/22/0/22_KJ00005048832/_pdf/-char/ja) >1990年と1995年の実態調査は、安楽死要請の理由 に関するデータを与える。そこで示されるの は、死 や臨死についての新しいイメージの出現である。予期された通り、「耐え難い苦しみ」というのが、「人間性を奪う状態」とか 「尊厳の 喪失」とか、「苦痛」といったことと同様に、最も頻度が高く言及されている。もっと篤くのは、|無意味な苦しみ」とか、 「厄介になること」とか、「人生に疲れた」とかの、自分の状況に対処する個々の患者の能力にかかわ る、一連の理由である。これらの理由は、安楽死の正当化としての苦しみが、あの範型的な癌患者の身体的苦しみから、心理的あるいは精神的な苦しみヘ と拡張してきたことを反映している。最も注目すべきは、「苦しみの増大からの脱出」とか「呼吸困難 の予防」とか「苦痛の予防」とかのような、第3のカテゴリーの理由である。これらの理由は、安楽死がもはや単に耐え難い苦しみの状態からの脱出方法であるばかりでなく、そうした状態が起きるのを未然に予防しようとする鋭敏な戦略でもあるとみなされている。苦しみが耐え難くなるまでどうして待て ### 2021/06/22 [京大 児玉 2012](https://synodos.jp/society/1070) >例えば米国オレゴン州では、がん患者に対して「抗がん剤治療の公的保険給付は認められないが自殺幇助なら給付を認める」という趣旨の通知が届く、というのはよく知られた話だろう。オレゴン州とワシントン州の保健省は毎年尊厳死法を利用して自殺した人に関するデータを取りまとめて公表しているが、それらのデータから見えてくるのは、本来ならセーフガードで食い止められるはずの終末期ではない人や精神障害者に致死薬が処方されている、限られた医師が多数の処方箋を書いている、処方すれば後は放置で患者が飲む場に医療職が立ちあっていない、などの実態である。 >新法施行後には、病院と施設のスタッフには自殺幇助希望者の意思を尊重する義務が生じる。条件は、不治の病または怪我を負っていることと、自己決定できるだけの知的能力があることの2点。この条件がどれだけ幅広い病状や障害像の人を対象に含んでしまうかを考えると、暗澹とする。また、これでは劣悪なケアの施設や病院ほど死にたいと希望する患者・入所者が増えてベッドの回転率が上がることになり、医療やケアの質を担保・向上させるインセンティブは、もはや働かないのではないだろうか。 >事故で全身マヒになって「死にたい」と言っている人に向かって「そうだね。あなたの生は確かにもう生きるに値しないね」と言って毒物を飲ませて死なせてあげるのは、彼の中にあるはずの「くぐり抜ける」力を信頼しない、ということではないのか。必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、その人がくぐりぬけることを支える手を差し伸べること、誰にとっても、そういう社会であろうとすることではないのだろうか。 [京大 こだま 2019](https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnlsts/17/0/17_55/_pdf/-char/ja) >オランダでは,軽症時に書いた事前指示書で重症化した際の安楽死を 希望していた女性が,実際に重症となった時には暴れて抵抗したため,医師が家族に押さえつけさ せて毒物を注射したという事例もある >合法化の広がりとともに,各国の実態は日本で多くの人が頭に浮かべる「終末期で耐えがたい苦 痛がある人に自己決定で認められる最終的救済手段」というイメージからかけ離れたものとなりつ つある.2018 年 5 月に米国内科医学会倫理法務委員会は,医師幇助自殺に反対の立場を堅持すべ きと提言し,その理由の一つにヨーロッパの実態からすべり坂が懸念されることを挙げた > 現行法の解釈により個人的な利益目的で行うのでなければ自殺幇助が違法とはみなされないスイ スでは,外国人を受け入れるディグニタス,ライフサークルを含め自殺を幇助する団体が合法的に 活動しているため,「自殺ツーリズム」の名所となっている.終末期ではない人たちの自殺幇助も 多数行われてきた. 例えば,2008 年に論議を呼んだのは 23 歳の英国人青年のケース.ラグビーの試合中の事故で全 身マヒとなり,「二級市民」として生きていくのは耐えられないとディグニタスで自殺した3).翌 年には,やはり英国人の高齢男性が自身は健康であるにもかかわらず,末期がんの妻と一緒にディ グニタスで自殺4).近年急増しているのは,「自分の人生は生き終えた(completed life)」と考える 終末期に当たらない高齢者の「理性的な自殺」5)である.2018 年 5 月にもオーストラリアの 104 歳 の科学者が加齢による QOL 低下を理由に自殺した6). >オランダとベルギー オランダとベルギーでは法律要件の「耐え難い苦痛」が身体的な苦痛に限られていないため, 精神的な苦痛を理由にした事例が相次いでいる. 40 代の生まれつき耳の聞こえない双子の男性が 近く失明すると分かって二人揃って病院で安楽死(2012 年).性転換手術の失敗を苦にした事例(2013 年. 娘を亡くした悲嘆に耐えかねた高齢女性(2015 年)など多数に及ぶ . 近年は精神障害 者の安楽死も急増している.なお 2014 年の年齢制限撤廃以降,2017 年末までに 3 人の子ども にも安楽死が行われた オランダでは 2012 年に医師と看護師が車で自宅に来てくれる機動安楽死チーム制度が稼動 し,それ以降に精神障害者や認知症患者への安楽死者数が急増している.また知的 / 発達障害 者にも既に安楽死が行われている. 2016 年末には,75 歳以上の高齢者であれば終末期でなくと も安楽死を認める改正案が議会に提出された.成立はしなかったが,2018 年 5 月に改定された 安楽死行為準則により事実上は解禁されたとの指摘もある. >オランダでは,軽症時に書いた事前指示書で重症化した際の安楽死を 希望していた女性が,実際に重症となった時には暴れて抵抗したため,医師が家族に押さえつけさ せて毒物を注射したという事例もある22). >日本でも昨 今「死の自己決定権」や「死ぬ権利」として尊厳死のみならず安楽死や医師幇助自殺の合法化を求 める声が上がり始めているが,その「権利」は患者こそが医療の主体であるとの主張に十分に裏打 ちされているだろうか.「自分の医療について知る権利」,「医療について自分で決める権利」を要 求する医療の主体としての強固な意識が,患者の中にしっかり育まれてきただろうか.「患者の自 己決定権」と「専門職である医師の決定権」の対立をめぐる長く粘り強い議論の蓄積があっただろ うか.日本では両者は未だきちんと対立すらできていないのが実情ではないのか. >興味深い調査が 2016 年に行われている.日本集中治療医学会倫理委員会が会員に対して行った, DNR 指示に関する現状・意識調査である45).そこで浮き彫りになったのは,「医師が一人で DNR(DNAR:Do Not Attempt Resuscitation)を決めたり,複数でも多職種ではなく医師のみで決める ことが多い」実態(日本集中治療医学会倫理委員会 2017, 227)だ.会員看護師に対する「DNARの 判断は誰がされていますか」という問いでは,「主治医と他の複数の医師だけで判断する」との回 答が 43.5%.「主治医だけで判断する」が 27.2%に及ぶ(同前 , 248). >英米カナダで「無益な治療」訴訟が起こされる時,多くの場合,家族は患者が入院している当の 病院を相手に争う.その強靭な精神力を支えているのは,自分の医療について知る権利,自分の治 療について自分で決める権利,まさに「患者の自己決定権」の希求であり,患者こそが医療を受け る主体であるとの強烈な主張である.当然その究極である「死ぬ権利」も,ひとたび医療職の権威 によって一方的に治療が奪われようとするものなら入院先の病院と争い闘うことも辞さないほどに 強固な権利意識に裏打ちされている. 翻って,日本の私たちが「お世話になっている」病院を相手に,自分や家族が入院中にこうした 訴訟を起こすことは,筆者にはちょっと考えられないほど困難なことように思われる.日本でも昨 今「死の自己決定権」や「死ぬ権利」として尊厳死のみならず安楽死や医師幇助自殺の合法化を求 める声が上がり始めているが,その「権利」は患者こそが医療の主体であるとの主張に十分に裏打 ちされているだろうか.「自分の医療について知る権利」,「医療について自分で決める権利」を要 求する医療の主体としての強固な意識が,患者の中にしっかり育まれてきただろうか.「患者の自 己決定権」と「専門職である医師の決定権」の対立をめぐる長く粘り強い議論の蓄積があっただろ うか.日本では両者は未だきちんと対立すらできていないのが実情ではないのか. >医師の判断や決定が患者や家族に説明され患者側が追認すれば,それが患者の「自己決定」とみ なされる― .数々の終末期医療についてのガイドラインができた今でもなお,そうした「日本型『患者の自己決定』」が慣行化している. >象徴的な矛盾が,2015 年 4 月に日本病院会が出した「『尊厳死』―人のやすらかな自然の死につ いての考察」47)に見られる.「尊厳死」の定義に「不治かつ末期の病態」「自分の意思により」とい う文言を含めつつ,その例として「末期」に当たらない病態を挙げ,「(医療チームが延命中止を) 説明し,提案する」ことを提唱する(一般社団法人日本病院会倫理員会 2015, 2).前者の矛盾から は「すべり坂」リスクが,後者からは日本型「患者の自己決定」の前提が透けて見える. このように「患者の自己決定権」概念が医療職サイドにも患者サイドにも十分に成熟していない 日本で「死ぬ権利」の議論が広がるなら,基盤となる「患者の自己決定権」の実質を欠いたまま, むしろ日本型「無益な治療」論として機能するリスクが大きいと筆者は考える. [横浜市大 有馬 2015](http://synodos.jp/welfare/11862) >こうした状況では、仮に延命措置の差し控えや中止が合法化された場合、延命措置を要する人にたいして、周囲が、延命を諦めるよう働きかける可能性がある。とくに患者にもともと障害があったり経済的に余裕がなかったりすれば、その可能性は小さくないかもしれない。周囲としてはおそらく多くの場合はっきりと言葉にするわけでなく、また自覚的でさえないかもしれないが、それでも患者に大きい圧力が加わりうる。 >だから、仮に合法化のもともとの意図に的なところがまったくなかったとしても、いったん消極的安楽死等が合法化されてしまえば、死の間近に迫った状況でだれもが十分な支援のもと真に自律的な決定ができるとはかぎらない。あるいは、決して死ななければならないほどではない状態の患者についても、死のうとするのをだれも止めなかったり、むしろ延命を諦めるよう周囲から圧力がかかったりするかもしれない。そのような可能性があることは想像に難くない。社会的弱者へのリスクに訴える批判に含まれる主張のうちでさまざまな反論を凌ぎうるもっとも強力な主張はおそらくここにある。 >ところが障害者の場合「鎮痛剤を出さない、診断や予後評価や治療計画にまちがいがないことを確認しない、インフォームド・コンセントをしっかり得ない、といった医療ミス」が起きる。また「障害のない人にたいしては決して使用されない致死的な手段[=致死薬の処方]が使用される」 >実際のところたいていの法律や法案は、消極的安楽死や積極的安楽死が許されるための条件として、不治かつ末期であること、あるいは耐えがたい苦痛のあることなどを明記している。したがってこの条件に合わない病人や障害者の延命措置が合法的に差し控えられるといったことは、かりに消極的安楽死や積極的安楽死が合法化されたとしても生じえない。このように反論されうる。 次の節ではこの反論1の妥当性を検討する。検討してみると、むしろ反論1のほうにこそ社会的弱者へのリスクに訴える批判の主旨にかんする誤解があるらしいということが分かるはずである >しかし、合理的な選択や十分な支援の内容を、最初から完全にあいまいさを排した仕方で法律の規定に盛り込むことはおそらく不可能である。つまり、どうしても部分的にこれは臨床の判断に委ねざるをえない。問題は、この臨床判断が差別的偏見に大きく左右されうると考えられることである。 >安楽死の合法化について反対派は社会的弱者へのリスクを危惧してきた。バッティンらはこれを死亡者に占める社会的弱者の割合の大小の問題として理解している。しかし正確にいえば、危惧されているのは、合法化された手段の利用者の中に社会的弱者が特別多く含まれるという状況では必ずしもない。 たしかに、合法化された手段による死亡者の全体に占める社会的弱者の割合が大きければ、周囲の支援不足で死亡した人の数もそれだけ多くなる可能性があるといえるだろう。したがって、割合が大きいとすれば、そのこと自体は憂慮されてしかるべきである。しかしたとえ割合が大きくないとしても、心配の種が消えてなくなるわけではない。 たとえばいま仮に全人口における障害者の割合が10%の社会で消極的安楽死が合法化されたとしよう。しばらく後に調べたところ、消極的安楽死で死亡した人のうち障害者の割合が10%以下(たとえば5%)だったとしよう。第一に、当然のことだがこれはその5%に当たる人々がすべて周囲の圧力とかかわりなく、いわば真に任意で消極的安楽死を択んだということを意味しない。じつは延命を希望しており、合法化さえなければ死を択ばずに済んだはずの障害者も相当数含まれる可能性がある。このことがまずそれ自体で憂慮に値する。 また第二に、割合は、障害者以外で消極的安楽死を択ぶ人々の数が大きければ、それだけ小さくなる。これらの人々がどのような理由でそうするか確かなことは不明だが、疼痛の他でも、たとえば体力や能力の衰えを特別強く否定的に捉える感覚、死にかたをコントロールしたいという強い意欲、あるいは育った環境の中にそういった感覚や意欲を強める要素があったことなど、多くの理由が考えうる。何かこうした理由で選択される消極的安楽死が、障害者にたいして周囲から圧力がかかることと比較してもなおより頻繁だとしたらどうか。この場合、圧力のもとで死んだ障害者の数が少ないということは全くいえない。つまりやはり割合はそれ自体あまり重要でないのである。 >また他方で、どれだけ慎重に要件を定めても、規定のあいまいさをかんぜんに排除することは不可能だろう。とくに周囲の大きい支援を必要とする患者が延命を拒否する様子が「任意」であるかどうかの臨床判断は、「これだけ支援しても死にたいというのだからしかたがない」、「こんな状態になったら死にたいというのも当然だろう」といった類の判断を要するものであり、ここに改めて判断する個人のがわの差別的偏見が影響しうる。結果として、患者が十分な支援を得られなかったり、延命しないほうがよいと思われていることのために圧力を感じたりする可能性が生じる。 病院経営コンサル 古村 2019 >世の中には多くの患者団体があり、そのなかにALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者団体があります。ALSにかかった人は、その初期段階では人生に絶望して「未来もない。死にたい」と考えてしまいます。今は体も動くけど、精神的に大変な苦痛ですから。 でも、ずっと生き続けていると、ALSでもそれなりに人生を楽しめて「安楽死がなくてよかった」と、時間の経過とともに患者の精神的な状態も変わったりする。 WHO方式がん疼痛治療法は、一定時間ごとに痛みの強さに応じた薬を飲むことを基本とする治療法ですが、適切に実施すれば、8割から9割の患者さんで、がんの痛みを取ることができると言われています。 さらに、WHO方式がん疼痛治療法でやわらげることができない痛みに対しても、さまざまな治療方法が工夫され、着実に成果を上げつつあります どんなに手を尽くしてもつらさを取ることができず、死がそれほど遠くない将来に迫っていると予想される時には、患者さんとご家族の意思を十分に確認した上で、薬を使って患者さんの意識を低下させて、つらさをやわらげます。このようなつらさのやわらげ方を、鎮静と呼びます [姫路聖マリア病院 高橋 2018](http://www.himemaria.or.jp/blog/kanwa/?p=3040) >緩和医療科医としては働いていると、「どうせ助からないし、こんなに(体が)苦しいなら、いっそのこと・・・・。」と訴えられることが多々あります。こういった時、我々緩和医療科医は、「安楽死や自殺幇助はできないが、それほど苦しいならせめて麻酔で眠らせて、この苦しみを感じにくくすることは出来ます。」とお答えします。そうすると、全員ではないものの、一部のひと(患者さんや、そのご家族)は、鎮静(ひらたく言えば、浅い麻酔)を望まれます。ただ、いきなり無意識にしてしまうことは、ご家族が、あとから後悔されることもありますので、まずは一時的(数時間)鎮静(麻酔)してみます。これを間欠的な鎮静といいます。具体的には、緩和ケア病棟ではフルニトラゼパム1mg+生理食塩水 100mlや、ミダゾラム 5mg+生理食塩水 100mlを点滴します。この間欠的な鎮静行ってみると(受けてみると)、この間欠的な鎮静が『ほど良い』のか、間欠的な鎮静をくりかえすことを望まれる患者さん・ご家族さんも多くおられます。また、一方で、常時うとうつしつつ、夜はぐっすり寝たい・・と希望される方もいます。この場合は、持続的な調節性鎮静(浅い鎮静)と、間欠的な深い鎮静を来る合わせます。多くの方は、間欠的な鎮静のみや、持続的な調節性鎮静(浅い鎮静)+間欠的な深い鎮静を行うことにより、苦痛が最小化された、おだやかな(最期の)時をすごされます。ただ、時に、「も~、絶対に目が覚めないようにしてほしい」と訴えられる方もおられます。また、持続的な調節性鎮静(浅い鎮静)+間欠的な深い鎮静では、おだやかな(最期の)時を過ごすことができない方もおられます。その時は、最期の時まで、目が覚め、苦しみを感じてしまうことがないよう、持続的な深い鎮静を施行することもあります。 https://www.buzzfeed.com/jp/takuyashinjo/nemuruyouniikitai [聖霊三田原病院院長 森田 2017](https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2017/PA03220_02) >この数年で,緩和ケアに関連するガイドラインやマニュアルの整備が進みました。30年前には,日本語で記載された緩和ケア関連書籍はほとんどありませんでした。疼痛緩和のための医療用麻薬を処方できる医師は今よりも少なく,調剤にはモルヒネ原末を用いていました。近年は,オピオイド製剤が多数市販されるようになり,一次的な緩和ケアを自ら実施する医師が増えましたね。皆さんは,ここ数年での緩和ケアに対する意識の変化をどう感じていますか。 >岡山 当院緩和ケア病棟では,看護師全員で患者さんのトータルペインを看る意識が培われてきたと感じます。近隣の大規模病院からの紹介患者を多く看ますが,他科の患者さんにも緩和ケアチームが介入することで標準的な緩和ケアが行えています。最近では一般病棟の看護師も,緩和ケアチームにコンサルテーションしながら,ケア内容を提案することもあります。一般病棟の看護師にも緩和ケアの手技や考えが普及してきました。 >田村 患者さんの痛みを気にする看護師は専門を問わず増えましたね。痛みはあるのか,あったら何らかの方法で緩和できないかと気にしています。 >田上 医師の立場からも,マニュアルに基づく緩和ケアの方法は職種を問わず浸透してきたように感じます。容体が悪くなってきたから今後のことを家族と相談しよう,痛みが強いからオピオイドを注射薬で投与しよう,突出痛へのレスキュー薬(速放製剤)を用意しよう,などよく聞くようになりました。 [静岡がんケアセンター](https://www.scchr.jp/cancerqa/kjyogen_print.html?no=10079) >薬や治療法の進歩によって、適切な緩和ケアが行われれば、ほとんどのがん患者さんのつらさ(からだのつらさ、こころのつらさなど)をやわらげることができるようになりました。ただ、割合そのものは少ないのですが、現在有効と考えられるどんな方法を使っても、つらさを十分にやわらげることができず、患者さんが“耐えられない”と感じるような状況が続いてしまうことも、ごくまれに起こることがあります。 どんなに手を尽くしてもつらさを取ることができず、死がそれほど遠くない将来に迫っていると予想される時には、患者さんとご家族の意思を十分に確認した上で、薬を使って患者さんの意識を低下させて、つらさをやわらげます。このようなつらさのやわらげ方を、鎮静と呼びます。 緩和ケアの現場で行われるこのような鎮静は、つらさをやわらげることを目的としています。これに対して、安楽死は、命を縮めたり、奪ったりすること自体を目的とするもので、緩和ケアの鎮静とはまったく違う考え方に基づいています [横浜市大 有馬 2019](「死ぬ権利はあるかp343~344」) >懸念される状況を具体的に考えておこう。たとえば、ルールの意図は、あくまでさきのがん患者のようなケース(末期で不治、つらい身体症状がある等)において、生命維持医療の見送りを容認することにあるとしよう。この場合、規定の内容も、見送りが容認できる対象について、不治で末期の容体にある病人の場合だけ、などと限定しているかもしれない。それでも問題はなくならないのである。これは、不治で末期の病人が、同時にさまざまな機能障害の持ち主でもあるということがありうるためである。たとえば、がんなどの慢性疾患やその治療の副作用のために四肢の自由が一部効かなくなったのかもしれないし、あるいは、もともと四肢まひや呼吸障害のあった人が新たに慢性疾患や感染症を患ったのかもしれない。(また、不治で末期の病人が、同時に、低所得者だったり、高齢者だったりする可能性もあることはいうまでもない。いずれにしても、こうした状態の患者が、生きる意欲を失って死にたいと漏らすとしよう。 懸念されているのは、このとき、患者が必要なサポートを得られないという事態である。周囲の人は、介護にかかる負担を嫌って、患者がむしろ速やかに亡くなることを望むかもしれない。差別的偏見のために、これ以上生きても患者のためになるわけがないと早合点するかもしれない。そこで、今すぐ死に たいという患者の意向について、もしかしたら治療を受けてできるだけ延命するという選択肢についてもよく検討した末の決心ではないのではないか、(苦痛を完全に取り除くことはできないにしても) あるていど有効な緩和医療が受けられることを本人は理解していないのではないか、一時的なうつの状態にあるのではないか、といった疑いを周囲が持ってくれないという事態が生じうる。もしかすると、患者は、本心をいえば死にたくないのだが、家族の圧力のまえで生き続けていたいといい出せないだけなのかもしれない。あるいは、本当に不治で末期の容体であるかの確認がおろそかにされるといったことさえおきるかもしれない。そのまま、生命の維持に有効な医療があるにもかかわらず、見送られるとしたらどうか。このような事態は、合法化を支持する人々が見ても受けいれがたいと思うにちがいない。 そこで、規定の内容がそれ自体で差別的偏見を前提としていなくても、合法化は、社会的弱者にリスクを負わせると考えることができる。このリスクのあることが、生命維持医療の見送りを容認するルールを置くことに反対する強い理由を構成する。社会的弱者へのリスクに訴える反対論に含まれる主張の うちでさまざまな批判を凌ぎうるもっとも強力な主張である [国立国会図書館 岡村 2017](https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnlsts/17/0/17_55/_pdf/-char/ja) 延命措置の中止义は差挫えは、一旦法律として成立すると、あとは旻件が揃い、ブロ七スを みさえすれば問題なしと考えられてしまう恐れがあることが指摘されている(129)。特に、わ が国の場合、大病院のなかで相対的に短い期間で死を迎える患者が多いため、その処置がマニュ アル化、ルーティン化していく可能性が高いのではないかとの危惧を持つ識者がいる(130)。 伝律によって許谷される延命猎道の中止を規定することは、医療の現場に法律の規定する以外の行為は許されないという解釈を生じさせ、結果的に患者の権利が制約されるという結果を もたらす可能性があり、また、逆にこうした事態を避けるために要件を緩やかに規定すれば、 濫用の危険が生じるとの指摘もある(131)。 法制化しなくとも、ガイドラインがあればよいのかもしれない。しかし、上記の厚生労働省 の検討会による意識調査では、厚生労働省のガイドラインについても質問しているが、担当す る死が間近な患者の治療方針の決定に際し、このガイドラインを参考にしていると答えたのは、医師19.7%、看護師 16.7%、施設介護職員22.7%であり、ガイドライン自体を知らないとの回答が、医師33.8%、看護師 41.8%、施設介護職員50.2%に上った。 [神戸大 山﨑 2003](http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81001267.pdf) >有無がここではポイントとされている。「もし本人の要請のよる積極的安楽死が本人の要請によらない安楽死と根本的に異なるならば,その境界線を引 くことは容易であり,したがって滑りやすい坂道を回避することは容易であ る。本人の要請による積極的安楽死は,患者の同意を要求するし,まさにその理由で道徳的に正しい。本人の要請によらない安楽死は患者の同意を要求しないし,その理由で道徳的に間違っていると考えることができる。その境界線を引くことは全く容易である。 [神戸大 山﨑 2003](http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81001267.pdf) >もし安楽死が合法化されるならば,文化的・社会的モーレスが時間をかけて変化し,その結果,死ぬ権利 よりもむしろ死ぬ義務を受け入れることになるであろう。歴史が示すように, 国家が医療専門職による殺人を権威づけると,その結果国家は,社会構造の本質的な要素を破壊する可能性をもち,その共同体の病者と高齢者に対する保護を弱めることになる。 [香川大 山下 1995](https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiYxtbWkLPxAhVyF6YKHbxqC9QQFjACegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fwww.keiwa-c.ac.jp%2Fwp-content%2Fuploads%2F2013%2F01%2Fveritas15-02.pdf&usg=AOvVaw397UaYrsOXSqhnreGTssnb) >レーネンの立言は,マースらの医師に対する調査では一応裏付けられる。彼らは詳細な背景事情の分かる187件について他者からの圧力があったかどうかを調査した結果,安楽死と自殺幇助の96 %で患者の要請は明白で持続的であったとし,99%で要請は他者からの圧力のもとでなされていない と医師たちは確信していたと記している。しかし,他方で,187件のうち,生の終結の要請の理由としては,患者たちによって,尊厳の喪失 (57%),苦痛(46 %),価値のない死の過程 (46 %),他人への依存(33%),生へ の倦怠(23%)が挙げられたとされており,患者自身の立場からみて果た して他人からの圧力等は皆無といえるのかという疑問は残る。 [ワシントン大 まーコミック 2010](https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabedit/20/1/20_KJ00007630191/_pdf) >統計資料は、あくまで患者と医療提供者がすべて法に則った過程で尊厳死を選択し行動し、正確に担当部局に報告されたという前提に立つ。この前提が正しいのかという問いもI-1000反対派からは提出されていた。 昨年10月末にオハイオ州クリーブランドで開催された米国生命倫理学会の年次総会で、ワシントン大学のHelene Starks博士他がこの法案に関するワークショップを行った。その中で、米国のオレゴン州、ワシントン州のみならず多くの州に、家族または医療提供者による“違法”な“死を早める行為 Hastening death”が潜在することを示唆した。(中略) 現場でのジレンマに起因する行為や、極めて危険な自殺幇助や死を早める違法行為が潜在することは否定できない。オランダにおいても監督機関へ報告されていない事例が相当数に上ると報告されている。 [東神戸病院 藤本 2002](https://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/site-wp/wp-content/uploads/2020/02/9fujimoto.pdf) >ことに日本では、安楽死の法制化を議論するだけで、介護が欠かせぬ老人や重度の障害者たちに心理的な 重圧を与えかねない。不況が長引き、家族に経済的な負担を掛けたくないという理由によって、むしろ患者本人 の意思に反して『死の登録書』に署名する者が続出することは十分に考えられる。[中略]日本人のように個人の 自立した権利意識の乏しい国民性では、横並び意識から尊厳死を望む恐れもある。 >いかなる場合に治療中止が殺人罪に当たるのかの明確な基準が示されていないため、医師は、一度延命治療を開始するとその後の中止は非常に困難となるという認識のもと、本来であればまだ治療により延命が可能な患者であっても、医療従事者はなるべく最初から治療を差し控えようとする方向に進みかねない ( そのことにより通に生命保護が弱められる ) ことが危惧される」 [宗教情報センター研究員 藤山 2014](https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=4959#_edn43) >障がい者や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねないとの懸念が示されている[41]。「尊厳死の法制化を認めない市民の会」の呼びかけ人で日本ALS協会理事の川口有美子は、ALS患者の場合、人工呼吸をつけなければならない症状が表れても終末期ではないが、人工呼吸をつけるか否かという段階で終末期と断定され、あるいは患者が家族に負担をかけまいと措置を拒否し、発症者の85%が呼吸器をつけずに亡くなるという [早稲田大 水谷 2017](http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/1714akari_mizutani.pdf) >医師の世界の上下関係や権力構造の中で、2 人目の医師の判断に本当 に独立性が担保できるのか。一定の年齢を超えたり、一定の重症障害のある患者には積 極的に治療する意味がないという持論の医師が、自分と同じ考え方の医師をもう一人見 つけてくればいいだけ、ということにはならないのだろうか。と児玉が指摘するように、二人以上の医師が終末期だという判断をしたとしても、 そこに偏りが出てくる可能性は高い do and のよ 第8章 医師幇助自殺と自発的な積極的安楽死229 るのは、PASやVAEを明確に合法化したりすると、社会や患者や医療活動に有害な影響 が及ぼされ、その影響がPASやVAEのもたらす利益全体を上回るほど有害なものになる であろうということである。公共政策を変更してPASを合法化すると、ばらばらになっ が生ずるが、この問題だけから生まれる問題とは違った、一連の厄介な問題が新たに作り た個々別々の事情を考えてPASが道徳的に許容できると認めてよいかどうかという問題 出されることになる。PASを現状通り違法であるとしておけば、こうした問題の発生を 防ぐことができるであろう。 これまでに社会が厳重に禁止してきた行為を合法化することは、長年タブーとされてき たものを取り除くことである。以前禁止されていた行為が許容できると規定する法律は、 注意深く起草し、細かな条項を設けるようにしなければならない。そうすることによっ て、理論的には、法を悪用する可能性をなくすことができる。しかしながら、ひとたび社 会的タブーが破られれば、人が、行為できる限界を法が規定する限界を越えて拡大してい こうとするのは不可避であり、このことはまったく人間の本性から帰結することである。 こうして、限度を超えた行為をすることによって害悪が生み出されるのであるが、この害 悪は、その法が認めるものではないが、新しい法が制定されれば起こると予想がついて いたはずであり、疑いもなく、法の変更が直接生み出したものにほかならないい。長年の タブーを打破する提案はみな、濫用を防ごうと注意深く起草された条文が法律の中にあっ ても、必ず濫用を助長する運命にあるのである。なぜならば、「許容される限界を超える」 のは人の本性だからである。次節で論ずるように、VAEは、現在、オランダにおいては 合法化されている。だが、不幸なことに、オランダの法律で厳重に禁じているにもかかわ らず、慈悲殺に反対するタブーが破られたために、寝たきりの高齢者に対して非自発的な 安楽死も行われているのである。 PASやVAEを合法化することによって多くの害悪が生じうるが、こうした害悪は、 PASやVAEを合法化しなければ防ぐことができると思われる。PASやVAEを合法化す れば、医師は、病気を治す者としてだけでなく殺す人とも見られるであろうから、医療専 門職に対する一般の人々の信頼は損なわれることになるであろう。もし医師に殺す権限も あるとしたら、医師は常に健康を回復させようとしているのだと暗黙のうちに信用してい るのに、患者たちが、こうした信用をもち続けることができるであろうか? 人々の信頼 が失われれば、医師に寄せる人々の信用もなくなっていくであろうし、患者と医師の関係 に修復しようのない傷がつき、その結果、すべての患者に害悪を及ぼすことになるであろ う。 とを示す例が、1980年、BBCの「パノラマ」というウィークリー番組で、ある暴露放送 医療専門職に対する人々の信頼が失われたためにいかに大きな害悪が生ずるかというこ がなされた後に英国で起こった。その番組は、英国の医師たちの中に、臓器提供者を意 る。この報道は、内容は正確ではなかったものの、身の毛のよだつようなものであった 図的に増やそうとして患者の脳死判定を不正確に行っている者がいると申し立てたのであ 一発的な臓器提供者はたちまち劇的に減少し、その後も減少傾向が続くことになったのであ ため、医師に対する信頼や信用が広く失われる結果となった。このため、英国における自 これよりもっと直接的に問題となる例が、一定の事情があればVAEが適法であるとさ る オランダでの経験で明らかになったことは、純粋に自発的な安楽死が行われるよう注意 深く計画されたというのに、こういう計画でさえ、見かけは善意の医師が、安楽死がもた らす恩恵を他の人にも広げたいと思うことによって損なわれてしまう運命にあるというこ とである。ひとたび社会が医師による殺しについてのタブーを取り去ると、その後に非自 発的な積極的安楽死が続くのは不可避である。こうした形で悪用されることを防ぐ技術的 な解決策はない。現在、哲学者たちが、事前指示によるVAEは許可することが望まし いのではないかと論争しているが、この考えにも、患者の拒否と要求のところで述べたの と同じ難点がある。身体的および心情的に耐えがたく苦しんでいるということであった。患者を苦しめている 性の閉塞性肺疾患 (10%)、その他 (10%)であった。患者がVAEを要求した主な理由は、 理由は、治性の疼痛だけではない。多くの患者は、なかなか治まらない悪心や吐き気に 耐えており、失禁する患者もいれば、悪臭と進行した悪液質の見られる患者もいた。そし た。うつ病のような精神医学的な理由でVAEを要求することがよく見られたが、認め て、自らの肉体が次第に崩壊し、身体的機能が衰えていくことを直視できない者が多かっ オランダの安楽死プログラムは、ここまでは国民にまったく申し分なく受け容れられて いるように見える。しかし、この話にはまだ続きがある。プログラムを行う際の規則が厳 密に規定されているのに、規則が悪用され、しかも危険な形で繰り返し悪用されているこ とが報告されているのである。こうした報告が申し立てるところによれば、医師たちが、 患者が自発的に要求してもいないのに、その気のない患者に積極的安楽死を実施している。 のである。デ・ワヒテル (de Wachter) は、オランダにおける安楽死の概念には自発的で あること(voluntariness) が不可欠であるから、「自発的な安楽死(voluntary euthanasia)」 という用語は同義語反復であり、「非自発的な安楽死 (involuntary euthanasia)」という話 は矛盾語法(oxymoron) であると注意したにもかかわらず、恐れていた非自発的な安室 死という成り行きが、少なくともいくつかのケースで現実のものとなったのである。 医師たちの報告によれば、成人であれ子どもであれ、認知症や精神遅滞、そして他の形 態の慢性疾患のために意思決定能力をもたない患者が、昏睡状態や遷延性植物状態になる と、オランダの病院やナーシングホーム、精神遅滞患者の収容施設などで、非自発的に安 楽死させられていると言われる。医師たちがこういう行為を正当化しようとして、もし これらの患者に同意能力があれば、現在の悲惨な状態で生き続けるよりも安楽死させても らうことに同意したはずだという理屈をつける例もある。つまり、こうした医師たちは、 単に、患者の暗黙の願いを実行しているのであろうが、こういう行為をする根拠は、おそ らく、形を変えた代理判断か最善の利益の基準にあるとしているのであろう。こうした正 当化は、「生きるに値しない生命(lebensunwerten Lebens)」という悪名高いナチス哲学 と類似しており、身の毛がよだつ。 オランダの医師たちが、非自発的な安楽死という完全に違法な行為をどのくらい実行しているのか、正確にはわかっていない。ペイネンボルフ(Pijnenborg)と共同研究者たちが行った医師たちの面接調査および質問紙法による調査に基づけば、オランダにおける死亡者総数の0.8%は、患者が明確に要求したわけではないのに医師が生命を終結させる行為を行った結果であるということが見出された。1995年の調査では、この数字は0.7%であった。こうした事例の多くでは、死期が近い終末期の患者に多量のモルヒネを静脈注射して死期を早めていた。不治の慢性疾患や障害を抱えた入院患者あるいはナーシングホーム入所者が、どの程度、非自発的な安楽死をさせられたかということはわからないままになっている。 オランダにおけるVAEとPASの行われ方で懸念されるもう一つの問題は、医師たちが、どの程度患者に勧めているかということである。1990年の調査では、VAEを勧めた医師は、オランダの医師の50%にのぼることがわかった。このようなことがわかると、患者の要求は完全に自発的なものでなければならないという要件が満たされているかど私が結論的に言いたいのは、VAE と PASを現行通り違法としておくほうが、社会や市民の最善の利益になるということである。経験を積んだ医師なら誰でも、患者の苦しみに打つ手がなく、PASやVAEを行っても道徳的に正当化されるかもしれない思った特別な症例がいくつかあったことを覚えているであろうが、PASやVAEを合法化するのは、よくない公共政策を立てることになる。なぜなら、こうした合法化がもたらす総量としてのマイナスの影響が、プラスの影響を上回るからである。非自発的な安楽死という副作用が生まれるのは避けられないが、これは耐え難いことであるから、VAEやPASのプログラムを合法化することは望ましくないのである。