<style type="text/css">p {text-indent: 1em;}</style> # 群衆心理 > [TOC] ## 本書に関する注釈  本書は19世紀末にフランスの社会心理学ギュスターヴ・ル・ボンによって著された世界大戦以前の本であるが、現代における『群衆』の特性を的確に見抜いている。反面、時代の変遷によって古くなった情報もあるために、私の一存で割愛させて貰う。 ## 序論「群衆の時代」  歴史における文明の変遷の先触れたる大動乱は、民族の侵略とか王朝の転覆等の政治的事由であると思われがちである。しかしその背景には、民衆の思想に深刻な変化があったことが認められる。  かつて一世紀を振り返れば、国家における関心事の中心は諸国家の伝統的政策や帝王間の抗争だった。しかし今日では政治上の伝統や君主の個人的な意向はほとんど重きをなさない。群衆の声が優勢になったからである。これに王侯が採るべき行動を命ずる。実にこれを**群衆の時代**と形容できるだろう。  民衆階級が政界へ進出し、支配階級へと変わりつつあることが、この時代にみられる最も際だった特徴である。実は、これは普通選挙の実施に起因するわけではない。それこそ、この制度は当初から用意に指導され、歴史に久しく影響を与えることはなかった。ところが、群衆の拡大に比例して力を手にしたのである。群衆の勢力が生まれたのは、まず人心に植え付けられたある思想が普及したためであり、次に理論レベルの観念を実現しようとする個人同士が結合したからである。この結合によって、自己の利益を(正当ではなくとも)少なくとも極めて明確な観念を抱き、自己の実力を意識するようになるのである。  このように生まれた群衆は、どのような権力でも屈服させる企業組合を組織し、労働案内所を始めた(この労働案内所というのは、経済法則を無視して労働と賃金の条件をとにかく支配しようとする)。これらは政府主催の集会に代表者を送り込むが、その代表者たるはおよそ創意性と自立性に欠く、群衆の代弁者に過ぎないのである。  今日、群衆の要求はより明瞭となってきた。労働時間の制限、鉱山、鉄道、工場及び土地の没収、生産物の分配、民衆階級のための上層階級の除去である。これらはややもすれば現代社会を徹底的に破壊し尽くし、文明の黎明以前のあらゆる人間集団であった原始共産主義へと社会を引き戻そうとする。  一般的な徴候によると、あらゆる国において、群衆の勢力が急速に増加しつつあるのが見られる。群衆の台頭は恐らく西欧文明の最終段階を画し、新社会の出現の呼び水として(既に述べた通り)大動乱への復帰を示すものだろう。  これまで、老朽した文明の大破壊ということが、群衆の最も著しい役割をなしてきた。歴史の教えるところによると、社会の骨格たる道義力がその効力を失った時、まさに野蛮人とも言うべき凶暴で無意識なこれらの群衆によって、その決定的な破壊が行われたのである。  そもそも数多の国家は、これまで貴族的な知識人(特権階級)によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆の預かり知るところではなかった。**群衆は、単に破壊力しか持っていない**。故に、(確定した法則や規律、本能状態から理性状態への意向、将来に関する先見の明や、高度の教養によって創造される)文明を指導するに足らず、必ず混乱の相を呈する。  しかし過去の研究において、この群衆が犯す罪にのみ焦点があてられていた。もちろん、犯罪的群衆なるものは存在しよう。同時に、道徳的群衆、英雄的群衆、その他幾らもある。群衆の精神構造を理解するためには、欠点ばかりに目を向けていては正しく理解することは出来ないのである。  しかしながら、実を言えば世界の支配者、宗教あるいは帝国の建国者、優れた政治家、さらにくだっては小さな集団の一頭目に至るまで、彼らは無意識な心理洞察家である。群衆の精神を本能的に、極めて明確に知っていたのである。それ故に、彼らは指導者となった。 > 例えばナポレオンはフランス人の群衆の心理を実に見事に看破したが、異種族の群衆心理は往々全く見損なった。(中略)自身の失脚を招く戦争を企てることになったのである。  群衆を支配することは、今日では非常に困難になったーーという訳ではなく、せめて群衆に支配されまいと望む政治家の方便となるのが、群衆心理の知識である。群衆は純理論上の正当さに基づく法則では操ることは出来ず、群衆の心中に与える印象のみが、彼らを誘惑することが出来るのである。 > 例えば、仮に立法者が新たな税を設けようとする場合に、理論上最も公正な税目を選ぶべきだろうか? 断じて否である。最も不当な税目でも、もしそれが少しも目立たず、一見しては少しも負担にならないように見えるのならば、事実上、群衆には最上のものと思われることがある。この理由から、間接税は、たとえ法外なものであろうとも、群衆には必ず承認されるであろう。間接税は、日々の消費物件から少額ずつ天引きされるのであるから、群衆の習慣を防げず、対して影響を及ぼさない。これに代わり、給料や他の収入に課されて、一時に納入すべき比例税のようなものを採用すると、たとえその負担が間接税より十倍軽くても世を挙げての抗議が巻き起こるだろう。 (ここで、税金を用いた著者の例が上げられている。まんま日本の『消費税導入に至る経緯』をなぞっているために、そちらの[解説動画](https://youtu.be/BHt32bB1Dqw)も紹介しておく) ## 第一章「群衆の一般的特性」 人間は個人から集団化すると(まるで元素同士の化学結合のように)各個人の性質を失い、全く新しい性質へ変容する。すなわち、**意識的な個性が消え失せ、あらゆる個人の感情や観念は集団精神となって同一の方向へと向けられる**のだ。これは恐らく一時的なものだろうが、非常にはっきりとした性質を示す。これらを組織された群衆、「心理的群衆」と名付けよう。それは単一の存在として、群衆の精神統一の心理法則に従っているのである。 決して多数の個人が偶然に寄り合ったといって、心理的群衆の性質を帯びる訳ではない(例えば、目的もなく、たまたまある広場に千人の個人が集まったとしても、心理的群衆を形成するわけではない)。心理的群衆の特性を具えるには、ある刺激が必要になるからである。そしてその刺激の性質が、心理的群衆の特性を決定するのだ。 特に意識的個性の掃滅、感情や観念の同一方向への転換は、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴である。これは決して、同一座標に存在することを必要としない。つまり国家の大事件のような、強烈な刺激を受ければ遠い個人においても心理的群衆の性質を具える。それが、たまたま個人が集合した時に、群衆としての行動を開始することだろう。 心理的群衆は「一般性質」と「特殊な性質」で構成される。この特殊な性質は、群衆を構成する分子に応じて変化し、群衆の精神構造を変更し得るものである。一般的な性質を見出すことは用意ではない。その組織が集合体の編成や種族に応じて変化するのみならず、受ける刺激の性質や程度に応じて異なるからである。実際に、人間は小説に登場するような一定不変の主義主張に基づいて行動することは有り得ない。単に一様な環境にのみ、見かけだけは一応な性格を生むのである。 > (前略)、あらゆる人間の精神構造には、環境の急変に影響されて現れるかも知れない性格上の可能性が含まれているのである。最も凶暴な国民公会議員(コンヴァンシオネル)のうちに、罪のない市民たち加わっていたのも、この理由によるのである。彼等は、平時ならば、穏和な公証人か有徳の役人になったであろうような人々であった。革命の嵐が過ぎ去ると、彼等は、正常の性格を取り戻した。ナポレオンは、そういう人々のうちに、最も従順な配下を見出したのである。 ここでは群衆が形成される各段階をいちいち研究せず、完全に組織化された場合に限定して考察する。 ことに重要であることは「群衆が常にいかなるものであるかということではなくて、それがいかなるものになりえるか」という点である。専ら、このように組織の程度が進んだ場合においてのみ、種族本来の不変で支配的な素地の上に、(ある刺激によって)新たな特性が加えられる。これにより集合体のあらゆる感情や観念が同一方向に転換される。これが群衆の精神統一の心理法則である。  群衆の心理的性質は、単独に見出されるもの、これに対して集合体のうちに見出されるものもある。まずはそれらの特性を研究する。 心理的群衆の示す最も際だった事実は、個人(生活様式、職業、性格あるいは知力)の相違を問わず、単にその個人が群衆に成り代わったという事実だけで、一種の集団精神を与えられる。この精神のために、その個人の感じ方、行動の仕方が、孤立している時とは異なっていく。 さて、このような一般的性質は無意識に支配されるものである。なぜならある種族に属する個人の大部分が無意識的思想をほとんど同程度に所有するためであるが、まさしく群衆に共通する性質なのである。群衆中において、各の知能等は消え失せ、群衆は無意識的性質に支配されるのだ。 >このような尋常平凡な性質が共通に存在するということ、これによって、なぜ群衆に高度な知録を要する行為が遂行できないかの理由が説明される。それぞれ専門を異にする優秀な人物たちの懐疑で採決される一般的利益に関する決議が、愚か者の会合で採決される決議よりも際だって優れているというわけではない。群衆はいわば智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ。(後略) しかしこれだけでは、共通する下地についての説明に留まり、群衆が新たな特性の発生は説明できていない。この特性の出現については、様々な原因がある。  第一の原因は、**群衆中の個人は、単に大勢の中にいるという事実だけで、一種不可抗的な力を感じる**。単独であれば理性によって押さえ込むことが容易なそれは、群衆に名目がなく(つまり責任がなく)、責任能力が消失して本能に負けるのだ。  第二の原因は、集団感染である。**群衆においてはどんな感情も行為も感染しやすい**。個人が集団のために犠牲になるほど感染しやすい。これこそ、個人の本性に反する傾向を示す。  第三の原因は、**最も重要で、被暗示性である(これが個人の特性を相反する特性を発揮する起因である)**。第二の原因は、もとよりこの性質の結果である。 >(前略)個人はその意識的個性を失うと、それを失わせた実験者のあらゆる暗示に従って、その性格や習慣に全く反する行為をも行うようになる、ということを今日の我々は知っている。(中略)被術者は、脳作用が麻痺させられてしまうので、無意識的活動の奴隷となり、これを催眠者が意のままに操るのである。意識的個性が消え失せて、意志や弁別力がなくなってしまう。そのとき肝臓も思考も、催眠術士の決定する方向へ向けられるのだ。