# 抜き書き いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ちこまないからだ。(反哲学的断章 p.167) 文章は、正しいテンポで読むときにだけ、理解することができる。そういう場合がときおりある。わたしの文章は、すべて、ゆっくりと読まれるべきだ。(反哲学的断章 p.153) わたしたちはこういわれる。「きみはこういう表現が理解できるだろう。だったらぼくは、きみの知っている意味で、この表現を用いることにする」。(「この特定の意味で」ではない。)とすれば意味というのは、ある言葉が自分の身にまとっているアウラ、ある言葉がそのときどきの使用のさいに運んでくるアウラ、なのではないだろうか。(反哲学的断章 p.119) 他人を手本にするのではなく、自然をきみの導きの星にせよ。(反哲学的断章 p.112) なにも釈明するな。なにも消すな。あるがままを見て、語れ。きみには、事実を新しく照らしだすものが、見えるはずだ。(反哲学的断章 p.108) わたしたちの最大の愚かさは、きわめて賢明なものである場合がある。(反哲学的断章 p.108) きみは新しいことを言っているはずだ。だがそれはまったく古いことでしかない。 たしかにきみは、古いことしか言っていないにちがいない。だがそれにもかかわらず、それはどこか新しいのだ。 「つかまえ方」が異なれば、それにおうじて、もちい方も異なってくるはずだ。 詩人だっていつも自問しているにちがいない。「いったい、わたしの書くものは、ほんとうに正しいのだろうか?」この質問はかならずしも、「これはほんとうに起きるのだろうか?」という意味ではない。 もちろんきみは、古いものをもってこなければならない。だがそれは、新しい建築のために。(反哲学的断章 p.109) もしもこの石が、まるで動こうとせず、にっちもさっちも行かないのなら、まず、まわりの石を動かしたまえ。 わたしたちはただ、きみの車輪がレールにのっているときに、きみを軌道に乗せたいと思うだけなのだ。軌道にのせられたなら、きみがひとりで走ればよい。(反哲学的断章 p.107) ほんらいわたしは、ひんぱんに句読点を打つことによって、読むテンポをゆるやかなものにしたいと思っている。というのもわたしは、自分の文章が、ゆっくり読まれることを希望しているからである。(ちょうど、わたし自身が読むように。)(反哲学的断章 p.180) 人間らしくあろう