ハンチバックの感想メモ 歪み 釈華は身体の設計図が間違っている弱者 両親によって経済資本、文化的資本には恵まれている。 経済的弱者に対しての「もしかしたらインセルじゃん。こわ。p.31」 ←「苛立ちや蔑みというものは、はるか遠く離れたものには向かないものだ p.33」 弱者と強者は近くにあり、弱者同士は遠く離れ合っている? モナリザ「完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるもの達が嫌いなのだ p.45」 釈華の持つ資本は両親によって完成され、壊れず残り続ける. →釈華は田中に遺産を渡して子供を作り中絶することで、完成された資本を破壊したかった。愛した両親の遺産を自分の嫌いな形にしておきたくなかった?(VRゴーグルを買うことも、ただ古びていくための存在にしないための欲望?) 「生きるために壊れる、生き抜いた証として破壊されていく p.46」愛しているパパとママの残してくれた資本を、生きるために壊すことで愛する。「釈華が人間であるために殺したがった子 p.93」 とはいえ、両親の資本を中絶のために浪費する事への罪悪感もある「親の遺産を馬鹿なことに使う罪悪感で手が震えていた p.61」 →結局資本に手も出されず、「私はモナ・リザにはなれない p.81」 子供を持つという普通さ 子供を持てる身体だという普通さ →高級娼婦 人間であるために子供を作ることが必須 ←「釈華が人間であるために殺したがった子をいつか/いますぐ私は孕むだろう p.93」 中絶することはキリスト教的価値観では? 子供を作ることが目的ならフェラも飲精も必要ない。結局は性欲?(結局は性欲?と言ってしまうのは強者の理論) 自分はモナリザが嫌いだと言っているのに、最後では「私はモナリザには「なれない」」と言っている。壊れずに残っていくことに対する憧れが嫌悪感に反転している? モナリザが嫌いな自分がサステナブルな家族制度によって支えられ生きてきたことの歪み? ラスト「紗花」パート  最初は釈華の書いた文章かと考えたが、別の物語であるという風に読むのが自然だと思う。このパートで紗花が「私に兄などなく、私はどこにもいないのかも」というふうにすべてフィクションであったことを明らかにする。そうすると、読者は釈華についても同様にすべてフィクションだったと、改めて認識する。 では、このパートは読者に物語はすべて意味の無い妄想であったと知らせたかというと、そのようなことは絶対にない。すべてのフィクションは他のフィクションと繋がり合い重なり合い、そして現実を反映していて、現実を知るための道具となるということを、あえて釈華パートがフィクションであることを強調することで示したのである。  最初のハプニングバー記事で登場した早稲田政経のSさんが明らかに紗花に似通っていることはそれを強調するために為された工夫だろう。  釈華の書いたコタツ記事というインターネット上の真偽不明の情報を継ぎ合わせたフィクションの中にいるSさんと別のフィクションの中にいる紗花とが、その二人を取り巻く環境が重なり合うことは、そのフィクションがある一つの方向を、現実の方向(作者の見ている世界)を向いていることを示している。  フィクションは、インターネットのつぎはぎ情報は、現実世界を反映している。少なくとも、身体障害を持った作者は広く世界歩き回りリアルな感触を味わうことは出来ず、世界をそのようにしか捉えられない。嘘松乙と言って向かう先が彼女にはない。フィクションが現実を反映していないなら、何を信じればよいのか。そのような叫びが、このパートだと思う。 弱者は美化されやすい。障害者は善人として描かれやすい。障がい者も俗で嫌みのある一般人である。 所感 読みやすかった。→文学は最後まで読まれることが価値のために必須(最後まで読んでいない人の批評には全く価値がないから)?↔文学は読まれる(批評される)ことがなくともそのもので価値がある?(頭の中なら誰でも名作を作れる→それを客観視出来る形にするのが芸術)→最後まで読まれない「難解な文章」は無価値ですらなくなることが多く、「読みやすい文章」の方が価値の期待値が上がる。→読者のリテラシーが下がれば、文学の価値は低いものと(読まれれば価値が高いが読み終わらず)無価値なものになる?