# 短編を書きたかった アドベントできませんでした。 残響のイストリアより、魔法うさぎ隊の二次創作SSです。(公式とは直接関係ありません) ストーリー全体の原案は偽装用うさ耳さんからいただいたものに、ちょっぴりクリスマス風味を添えてみました。クリスマスまでには終わると思ってたんだけどなあ(汗 一応原作の後日譚なので、原作をまだプレイしてないよ!って方は結構なネタバレを食ってしまう可能性がありますので、ぜひそちらから手に取っていただけると幸いです!(隙あらば宣伝) ※災害を想起させる描写、性的な描写が含まれます。ご注意ください。 ### うさぎの墓 薄明かりの中、最果ての戦場に束の間の静寂が訪れ、俺は堤防の上にあぐらをかいた。土嚢のように魔物たちの残骸を積み上げただけの簡素な作りだったが、それでも気休めぐらいにはなった。 眼下では小柄な女が片腕で膝を抱えながら、足先にひしめき合うミミズのような生き物の群れをじっと眺めていた。あれが、魔物の正体だ。一つ一つでは虫けらと大差ないちっぽけな生命。けれど、それが何億とか何兆とか、数字で表すことすら馬鹿らしく思えてくるほど幾重にも絡まりあいながら地の果てまで広がっていく様は、まるで一体の巨大な生き物のようだった。魔物は何にでも交わる。森に住む獣たちと交わって街まで顔を出してくることもある。無論人間にも交わる。左腕に無理やり魔物をあてがったせいか、彼女の左目は血のような赤色に変わっていた。その目に映る全てを、彼女は遠景のように眺めていた。あの乱暴に千切られて風に舞った手紙も、少年の叫びも、あの精悍な相貌を崩すには至らなかった。彼女が少年に、どんな言葉を吐いたかはわからないけれど、少年にとっての大一番は彼女にとっては取るに足らない細波くらいのものだったことだけは確かだ。あの場にへたり込んだ少年の絶望に淀んだ瞳には同情を禁じえなかった。 「本当にあれでよかったのか?」 俺の問いかけに、彼女は振り向きもせず答える。 「何が?」 「昨夜のことさ。」 多少間をあけて、不機嫌そうな声が帰ってくる。 「それが何か?」 「ちょっとやりすぎだったんじゃないのか。すごい顔してたぞ、あの少年。」 「余計なお世話だよ。」 地平線からは、もう朝日が顔を出すとこだった。 「ああいう中途半端な年齢の男が一番タチが悪いんだ。人形みたいな無害な顔してたと思ったら、ある日突然豹変してさ。神話か何かの受け売りみたいなご高説垂れ散らかしたって、所詮ただの自意識過剰な妄想じゃないか。そのくせして、指一本ろくに触れる勇気もないんじゃ」 「いい、もういいって。わかったから。」 普段寡黙な彼女の口から止めどなく放たれる悪口を慌てて静止した。最早何を言ったかなど聞くまでもない。少年には一縷の希望さえ残されていないらしかった。 けれどまた、彼女をして饒舌たらしめるほどの爪痕を少年が残していったことも、また事実であるらしかった。待ち望んでいた手紙を破られたのだ。彼女だって相当の負荷を負っているはずだった。 「変なこと聞いたな。」 「別にいいよ。どうせ若い頃の自分に重ねちゃった、的なあれでしょ。」 「そんなんじゃ...いや、そうかもしれない。」 あまり思い出したくない記憶だった。けれど今ここにいる俺が、その記憶の延長線上にいることは確かだった。 ここに送られてきたものは皆、重罪を犯した者達だ。俺たちは、生きたまま地獄に落とされ、この世に骨一つ残さぬまま死を迎える。たとえその瞬間命だけは助かるとしても、それは死刑以上の重い刑罰と考えられてきた。けれど実態は、そんなイメージとは少し違ったものだった。魔物の臭い肉でよければ食べ尽くせないほど手に入るし、広大な砂地に寝そべり、魔物の死骸のベッドに潜り込めば寒さも凌ぐことができた。ちょっとした給料まででた。俺はそれを、未だ貧しい祖国の街で小さなパン屋を営む、とある夫婦への仕送りにしている。彼らから届くお礼の手紙の文面からは、いつも焼きたてのパンのような幸せの匂いがした。 「お人好しだね。」 「そんなんじゃない。ただ手紙を通して彼らの家庭を眺めていると、不思議と心が落ち着くんだ。」 「本当にそれだけ?」 「どう言う意味だよ。」 「いやもしかしたら、その奥さんってあんたの昔の恋人なのかな、ってね。」 俺は返答に窮した。女の直感、というやつなのだろうか。こうも見事に、自分の未練を当てられるとは思わなかった。けれど、誤解は早めに解いておかねばならない。 「別に、今でも彼女が好きとか、そう言う話じゃないんだ。第一、彼女とは具体的な恋仲になったことなんて一度もないんだから。」 釈明を終えてから、自然と早口になっていた自分に気づく。 「ふーん」 何一つ嘘は言っていない。けれど注がれる疑惑の視線に、俺はつい彼女から目を逸らした。その時、つい先程まで彼女の足元で様子を伺っていた先端部の魔物たちが、いつの間にか遠い浅瀬へと退いているのに気づいた。それは次の戦いが始まる合図だった。俺は慌ててかたわらに放置していた武器を手に構える。一方の彼女はおもむろに立ち上がって、目を閉じて深くため息をついた。それに合わせて、宿主の生気を吸い込んだかのように、片腕の魔物がずんと一回り大きくなった。バランスが崩れた反動で彼女の体がよろめく。もはやどちらが体の持ち主かわからなかった。それでもしっかりと立ち直り、迫り来る影をきっと見据えた。 「なら、戦うしかないね。あんたの大切なものが壊れないように。」 俺は決意を込めて頷く。 「百も承知さ。」 朝日を背にして到来した闇は、光を遮りながら実際の何倍も膨れ上がって見えた。蠕動するうねりを前に足を取られないよう、しっかりと大地を踏みしめる。流されてなるものか、そう自らに言い聞かせながら。 ・・・ 堤防の陰で休息をとっていると、遠くから聞き慣れた声がした。 「お、いたいた。」 見るとそこには少年が来る以前に以前に、この区画を担当していた中年の局員が立っていた。騒々しい奴だった。疲弊していた俺は関わりを避けるため、彼を一瞥するとまた手元に視線を戻した。 「つれねえな、久しぶりの再会だってのに。」 「疲れてんだ、静かにしてくれ。」 「そういうなって。」 けれど今の彼には以前ほどの覇気は感じられなかった。それもそのはずだ。今日ここに来たのが少年ではなく彼だったという事実が、そのわけを如実に物語っていた。 「もう、あの少年はこないんだな。」 彼はちょっと俯きながら、寂しそうに笑った。 「ま、みんな昔に戻っただけさ。また当面よろしく頼むわ。そうだ、今日はお前に渡したいものがあったんだ。」 彼は肩から下げた大きな鞄をまさぐって、小さな紙切れを取り出した。それは、いつも俺たちが使っている手紙だった。思い当たる節がなかった。彼女からの手紙の届くには、まだ時期が早いはずだ。けれどよくよく見てみるとその手紙の宛名の欄には、もうすでに『天使様へ』と書き込まれていた。 「ああ、懐かしいな。」 俺は思わずため息を漏らした。 天使たちの夜。 年の暮れを祝う伝統的な祭日で、教会を中心に始まったものらしいが、今や国境を超えて広く親しまれている行事の一つだ。特に子供たちにとって、この日は一段と待ち遠しいものだった。一年間いい子に過ごしていれば、「天使様」に一つだけ、何でも欲しいものをお願いできる。親は親で子供の手前、多少無理してでも用意する。この日一日だけ、世界は優しい嘘に包まれる。 「けど大の大人が持ってるんじゃ、ちょっと格好つかないな。第一、去年まで配ってなかっただろ、こんなもの。」 「今年から始めたんだよ。俺の発案だ。」 「どうりで子供っぽいわけだ。」 「なんだとー?!」 あの少年が辞めていってから、彼も彼なりに色々考えたのだろう。その結果が、どうして「天使様へのお手紙」なのかはわからないけれど。 「まあ、あれだよ。いくつになったって、たまには童心に帰って見てもいいんじゃないか。」 「別にいいよ、大して思い出もないし。」 俺は彼に手紙を突き返そうとした。 「受け取るだけ受け取ってくれよ、俺のためと思ってさ。」 「なんであんたのために俺が何かしなくちゃいけないんだよ。」 けれど押し問答する気力もなかったので、俺は大人しくそれを受け取った。 「それだけ言うなら、もちろん『天使様』はどんなお願いでも聞いてくれるんだよな?」 俺は目の前の「天使様」に、ちょっとした反撃に出る。彼は一瞬目を泳がせたが、声を震わせながらもどんと胸を叩いて答えた。 「おうよ、天使様に不可能はない!」 けれど見栄っ張りな天使は小声で、 「でも、できれば常識の範囲内でな。」 と付け加えた。 「じゃ、そろそろいくわ。他の奴らにも配らないといけないんでな。」 そう言って慌ただしく彼は去っていった。 休息を取りに来たつもりがかえって体力を使わされたのを根に持ちつつも、俺は手紙をポケットにしまって前線へと踵を返した。 ・・・ 日中賑やかなやつが遊びに来た分、夕凪の中で迎える静寂に俺はいくらか孤独を感じていた。改めてここは何もない場所だった。あるところで深い森は絶え、草一本生えない黒々と湿った砂土が、緩やかな傾斜でもって魔物たちの巣窟へと地続きに広がっていた。奇跡的に芽吹いた花も、日を跨ぐ前には奴らの体内でどす黒い触手に姿を変えてしまう。動物でも迷い込もうものなら、それはもう目も当てられない。特に鳥はかわいそうだ。その気になればどこまでも行けるものだから、魔物の世界に足を踏み入れていることにも気づかないまま飛び続け、ふと羽を休めようと思った頃には、どこにも帰る場所はなく、ただ自らあのどす黒い体内に落ちていく道を選ばざるを得ない。地平線を埋め尽くす、あの黒い輪郭線は全て魔物の体でできているのだから。もしもあの巨大な体がある日一斉に蜂起すれば、俺たちの存在なんてなんの役にも立たないだろう。森に入れば草花を枯らし、木々をへし折りながら獣たちを取り込み、通りという通りを洗いながら、町の隅々を埋め尽くしていく力強い渦の中に、争いようもなく人々の群れは踏み潰されて、個体同士の区別もつかないほどにどろどろに溶け合っていく。その何もかもが、皆一夜にして魔物の体の一部へと変貌する。そして翌朝、昨夜の狂宴が嘘だったかのように静まり返った大地に、ただ悠然となだらかな時が流れていくばかり。 そんな想像が頭の中を駆け巡った後、俺は寝汗をびっしょりかいて目覚めた時のような、じっとりとした不快感に必ず襲われる。人に言えないような夢を見た後に寝言を気にするみたいに、俺は当たりを見回して、そうしてほっと胸を撫で下ろす。この想像は俺にとって、そういう夢の一種に違いなかった。体が火照ったまま、頭だけが冷水をかけられたようにやけに覚めて、自分がいかに恐ろしい一線を越えかけていたのかを自覚して震えるのだ。俺はこの凄惨な図を、あろうことか美しいと思ってしまった。甘く痺れるような陶酔感に支配されていた。母に抱かれるような深い安堵に包まれていた。魔物を狩り、魔物を食らい続けていくうちに、俺は思考まで魔物によって言ってしまっているのだろうか。俺も段々と、いつまで人の心を保ち続けられるのか怪しくなってきた。 そんな不安を拭い去るかのように、俺は彼からもらった手紙をポケットから取り出して顔を見合わせた。本当に迷惑に思っていたなら、彼が帰った後ポケットに入れて持っている必要なんてなかった。もしかすると俺がこれを手放さなかったのは、失いつつある人としての何かを手繰り寄せるためだったのではないだろうか。 「なに見てるの。」 「わあっ!」 俺は素っ頓狂な声をあげ、慌てて手紙を隠そうとして、その手を止めた。 「なんだ、驚かせるなよ。」 俺の後ろにはダークラビットが立っていた。彼女の視線は、俺の手元にある手紙に注がれていた。 「彼女のことでも考えてた?」 少し考えて、俺は首を横に振る。 「あそこには手をつけたくない。」 「好きに書けばいいのに。無理な願いは叶わないだけなんだから。」 それでも、俺はやはり書けなかった。二人の家庭は、いわば俺の心の聖域のような場所にあって、例え想像の中であろうと俺は指一本触れてはいけないのだ。もしも触れれば、何か大切なものを失う様な、そんな気がしてしまうのだ。 「そっちはどうだ。」 「何も書く気はないかな。私なんかには、今ぐらいがお似合いだよ。」 ひどく投げやりな言い草に、俺は少し抵抗を覚える。 「今ぐらいなんて言い方する人間が、今に満足してるしてるとはとても思えないな。」 「また始まった。あんたの余計なお世話。」 「あの親父じゃないけどさ、一つぐらいなんかあってもいいってのは俺も賛成だ。今いる場所に甘んじてたら、落ちていく一方だろ。」 「重力には逆らえないよ。形あるものが必ず壊れるように、宙にあるものは必ず底に落ちる。」 「だからこそ、少しでも幸せになろうとするのが人情ってもんだろ?」 「平行線だね。」 しばし気まずい沈黙が流れる。俺はちょっと考えて、よし、と膝を打った。 「今で十分、ってならいっそ、絶対に叶わない願いを考える、なんてどうだ?大喜利だよ、それなら文句ないだろ。」 「なるほど、暇つぶしにはなるかもね。」 「じゃあ俺から、金持ちになって豪遊!」 「議会を武力占拠」 「近衛騎士団に編入!」 「爆破テロ」 「思考が犯罪者すぎないか?」 「なにを今更。」 とても彼女の口から、夢のある願いは聞けそうになかった。 「人間が達成できるレベルじゃ物足りないな、もっととっておきのものじゃなきゃ!」 「とっておきのものって、例えば?」 「そうだなぁ。」 俺は小さな頭をフル稼働させて、一つの答えを弾き出した。 「永遠の命、とか?」 得意げに言ってみた割にはひどく陳腐で少し恥ずかしくなったが、彼女は間髪入れずに 「採用。」 と言って、真っ白な紙面にさらさらと文字をしたためていった。 「まじで?」 「まじで。」 俺はそのあまりに迷いのない手付きを、少し寂しい気持ちで眺めていた。確かにこんなもの、頭を唸らしてまで考える様なものじゃない。それはわかってる。けれど彼女の乱暴さはどうにも彼女自身から切り離されているみたいに見えて、どうにももどかしかった。何をしても手応えがなく、彼女の体をすり抜けていってしまうような気がして虚しかった。俺は思わず地べたに身を投げ出した。湿った砂つぶの感触が、頭の後ろで組んだ手の甲にチクチクと食い込んだ。 「何か不満でも?」 「別に。」 まるでふてくされた子供のように、俺は彼女に背中を向ける。すでに日が落ち切った空は、かすかに桃色の帯を残して人間の姿をことごとく真っ黒な影へと変えてしまった。凪は陸から吹き下ろす風となり、風上にある森の木々のざわめきを運んできた。俺は再び吹き曝しの孤独の中に寝そべっていた。静寂の中においては、視界から追いやられたダークラビットは遠い追憶の中の存在のように不確かで、けれどその分はっきりとイメージすることができた。時間も空間も異なる世界の中、彼女もまた吹き曝しの孤独の中で膝を抱えている。そんな姿を。けれどそんな幻は、彼女が発した一言でたちまち霧消した。 「今も、彼女のことが好き?」 思わず無視を決めこもうかとも思ったけれど、下手に邪推されても困ると思って、俺は「好き」をという言葉をあえて避けながら答えた。 「大切には、思ってるよ。」 「好き、ってこと?」 すかさず言葉の背後に回り込まれた。さては俺に逃げ場を与えない気らしい。 「好きって言っても、兄妹の情みたいなもんだよ。そう言うのはさらさらないんだ。」 もはやそれが正直な言葉なのかどうかもわからないまま、俺はなんとか彼女の言葉を退けようとしたが、彼女の生返事にはもはや疑いの色さえも見られなかった。 「ま、いいや。」 ぷっつりと糸がきれ、吊るされていた何かがことんと落ちた。そんな感じのする返事だった。 するすると淀みなく衣服のほどける音がした。湿った砂の中を伝って、ゆらゆらとした影が一歩、二歩と近づいてくるのがわかった。ぼやけたレンズのピントが合わさっていくように、距離が狭まってくるにつれ、不吉な予感が形を帯びてくる。それがはっきりと現実のものと知覚された時、すでに彼女の肉体は猛禽の鉤爪のように逃れがたい引力でもってこの体を包み込んでいた。目の周りを包む筋肉が硬直して、奥歯がガタガタと震え始めた。 「ほら、早く力抜いて。」 彼女の掠れた声は、もはや音や意味を遠ざかり、皮膚から伝達される物質的な振動としてしか認識できなかった。俺はやっとの思いで口を開いた。 「どういうつもりだ?」 眼球を硬直させたまま、夕闇の中ほとんど表情の見えなくなった顔を恐怖と忍耐で持って睨みつけた。 「わかってるくせに。罪人のあんたが私の噂を知らないわけないんだ。どうせあんただって、堤防で声をかけた時からそのつもりだったんでしょ。」 「違う。俺はただ単純に...。」 俺は言い切ることができなかった。最早自分でも確証が持てなくなっていた。ここは何にもない場所だった。当然娯楽なんてものもない。あるのは肉体を持て余した罪人たち。何が彼らの娯楽になるかは想像に難くない。俺は闇の中でうごめく影が魔物ばかりでないことを知っていて、どこか目を反らし続けていた。一般的な善悪の規範とは無関係に、俺はどこか自分から遠いもののように感じていた。忌避していたと言ってもいい。それはどこか死の瞬間にも似た色合いをしていた。だから、俺はあえて記憶の底に封じ込めた。同僚の口から教えられた、彼女のもう一つの顔。 『大人しそうな顔してとんでもないぜ、あの女。誰に何されたって一切拒もうとしないんだから。』 その話をされて以降、その同僚とは何となく疎遠になってしまった。とても少年には言えなかった。言えばきっと彼はあの比にならないほどの狂乱に身を委ねていただろう。けれど、彼女の前にくずおれた少年の空っぽの表情に俺が抱いたものは、果たして本当に同情や哀れみのようなものだったのだろうか。夢の中で、何度も終末の予感に誘われたように、俺は心のどこかでその瞬間に恋焦がれていたのではないだろうか。俺の行為がいかに無意味かという現実を叩きつけられることによって、俺は自らこの身に打ち込んだ杭から解き放たれたかったのではないだろうか。 「綺麗なふりしたって無駄だよ。あんたは結局こうなることを望んでたんだ。けれど自分を責めなくたっていい。所詮あんたも私も、みんなあの地を埋め尽くす肉塊どもの末裔に過ぎないんだ。意思もなく、己と他者との境界も曖昧なまま、ただただ巨大なうねりの中にこの身を委ねるしかない。本質は何も、あいつらと変わらないんだ。」「たとえ、そうだとしても、」 俺は最後の力を振り絞って、彼女の手を払った。 「抗うことはできるはずじゃないのか?」 彼女は鼻で笑った。 「抗うって、何をしるべに?道徳?倫理?神様?」 俺は、答えることができなかった。彼女は畳み掛ける。 「こんな最低な世界で、今更自分に何かを課したって苦しいだけ。こうやってるのが一番楽なんだよ。」 「俺にはとても、そんな風には見えない。」 「あんたからどう見えるかなんて関係ない。」 「そう自分に言い聞かせて、自分の苦しみに蓋をしているだけなんじゃないのか?」 「わかったような口を聞くな!」 唐突な怒声が鼓膜をつんざいた。ダークラビットは、いつもの冷静さを完全に放り出していた。俺は思わず怯んで、何も言えなくなってしまった。彼女は深いため息を漏らすと、砂も払わず立ち上がって吐き捨てた。 「どうせあんたは、彼女に操を立てているだけでしょ。かわいそうに、もう二度と会うことも叶わないのにさ。」 ・・・ 彼女の指摘は実に正しかった。俺は、きっとまだ現実を受け止め切れていない。どこかに帰れる場所があるような気でいるのだ。自分だけ綺麗なまま生きていけるつもりになっているだけの、あの子供時代から何も変わってないのかもしれない。思えば彼女と出会ったのも、こんな真冬の日のことだった。切れかけた街灯の仄明かりの下、たったのボロ切れ一枚で痩せた肩を震わせていたのを覚えている。みなしごなんて、当時はそこら中にいたし、誰も彼もが困窮した街で彼女にコートをかけてやる者なんて、世間知らずの馬鹿な子供ぐらいのものだ。小さい頃から親父には、他人に情けをかけるなと口酸っぱく教えられてきた。けれど街を歩けば、自分がいかに恵まれた子供であるのかを、否が応にも思い知らされた。弱った老人、痩せこけた母親、泣く気力さえも失った赤ん坊。それらの人々を通り過ぎていくたびに、自分の心がどんどん冷たい氷に覆われていくように感じた。もちろんうちだって、他と比べたらましとはいえ他人様に施しをやる余裕なんてなかった。だから、これは奢りや偽善の類でしかないと今なら分かる。自分の身の丈も考えず、無闇に誰かの幸せを願ってしまった。いや、そんな綺麗なものじゃない。俺は自らの罪の意識を打ち消すために、彼女を利用していたに過ぎない。彼女はたった一欠片のパンで、しおれた花が再び咲き誇ったかのようにぱっと瞳を輝かせた。その瞳だけが胸に積もった雪を解かしてくれる灯だった。その輝きに俺は縋ったのだ。何度も親父たちの目を盗んでは自分のために親父が買ってくれたパンを彼女にやった。自分の胃袋が満たされるより、彼女のこぼしてくれた笑顔は何倍も栄養になる気がした。けれど、そんな生活長く続くはずもない。日に日に俺がやつれていくのを、親父たちは見逃さなかった。ある夜、彼女の元から戻り、いつものように裏口の窓からこっそりと入ってきた俺の前に、親父とお袋が待ち構えていた。親父は力一杯ぶん殴った。自分たちもろくに食べるものもない中、それでもたった一人の我が子のため、糊口を凌いで買い与えたパンを、恩知らずにも赤の他人に食べていたと知ったら、怒りを覚えるのは当然だ。それでも自己犠牲の夢に取り憑かれていた俺は、パンは今の半分でいい、俺は死んでもいいから、彼女に与える分のパンだけは奪わないでくれ、などと筋違いな説得を繰り返した。親父も我慢の限界だったのだろう。とうとう彼は俺に勘当を宣告し、身寄りのない彼女を外国に売って、損失を取り戻すのだと言った。そこから記憶が曖昧になった。目の前にいる人間を、俺は彼女と自分の前に立ちはだかる試練の壁にしか見えなくなっていた。あの厳然と聳える壁の向こうに、仄明かりに包まれたつつましくも豊かな二人だけの幸せの影を確かに見たのだ。俺は伝説にあった勇者のように、己の剣に思いを託し、力一杯振り下ろした。ついに壁は真っ二つに分かれ、向こう側が姿を見せた。けれど、その景色は想像していたものとは全く違っていた。暖かい家庭のテンペラがみるみると剥がれ落ち、赤黒い地肌をあらわした。壁だったものは凄惨な死体へ、勇者の剣はおぞましい凶器へと変わり果てていた。俺が自分のしでかしたことの重大さに気づいたのは、母の慟哭を聞いてからだった。親父たちのどこに、これほどの仕打ちを受けるいわれがあったのだろう。冷酷なまでに吝嗇な振る舞いも、全て目の前にある家庭を守るためだったじゃないか。自分が誰に生かされているかさえ気づかずに思い上がって、俺はこの手で全てを壊してしまったのだ。 所詮俺は死を待つばかりの罪人だ。過去をやり直すことなんてできない。それどころか、俺はまた同じ過ちを繰り返しているのかもしれない。この葛藤も、無駄な足掻きに過ぎないのだろう。それでも、このまま感情のままに終わりへと流されていくのだけは、どうにも受け入れられなかった。そこには道徳も、倫理も、神様も存在しない。誰も進むべき道に光を与えてはくれない。俺の守りたいもの、手放したくないもの。それらも結局、俺の薄っぺらな自己満足に過ぎない。けれど、そんな頼りない灯火だからこそ、より一層かき消してはなら無いように思われた。幸せなんてものは簡単に壊れてしまう。だから俺はそれにしがみつく。例え将来壊れる運命だったとしても、俺はもう何も壊したくない。だからもし許されるなら、俺は証が欲しい。ちっぽけな灯火に、少しでも意味を与えてくれる根拠が欲しい。何かを壊した代償に、俺が唯一壊さずに済んだもの。かつて俺がパンを分け与えた少女は立派に育ち、他の誰かのためにパンを焼く仕事についた。たとえ身勝手な願いでしかなかったとしても、その灯火は確かに彼女の命をつなぎ、彼女の中で大きく育ち、多くの人に笑顔を与える希望の光になったのだとしたら、俺はどんなに救われるだろうか。そのたった一筋でいい。彼女の手により生み出された幸せの味をしるべとしよう。それさえあれば、俺はもう少しだけ、何かを守り続けることができる気がした。 ・・・ 私はああいう偽善者が一番嫌いだ。自分だけは綺麗なつもりでいる。何が「抗う」だ。男なんてみんなそうだ。私が声を上げないと見ればどんな恥ずかしい真似だって平気でできるくせに。母さんも同情するよ。あんな生き物に狂わされて、結果娘の私に殺された。肉が新たな肉を絞り出すだけの悲劇の悪循環に私も母さんもみんな囚われて、遥か昔から呪われた歴史を紡いできたんだ。けれどそれももうすぐ終わり。みんなもうすぐ魔物に飲み込まれる。魔法によって作り上げられてきた秩序は、あの馬鹿げた戦争のせいで虫の息。当然の帰結だ。魔力を制御してこそ魔法なのだ。法も秩序も通用しない、純粋な暴力のみがものをいう戦場において、私たち人間と魔物を分けるものなど何もない。さんざん魔物に抗いながら作り上げた歴史の果てにわかったのは、結局自分たちは魔物以外の何者にもなれないという現実だけだったじゃないか。 私は今まで、どれほどこの身が汚れていこうと一向に構わない気がしていた。私が汚れれば汚れるだけ、姉さんの存在が一際輝きを増すように感じられたからだ。だからあの時だって、少年が単に私を劣情の吐口にしようとしたならば、きっと私は躊躇いなく体を差し出したことだろう。しかしあいつは、私の中の姉さんそのものを否定したのだ。私には姉さんさえいればいい。彼女さえいれば、どんな最低な現実も痛くも痒くもない。そう思って生きてきた。けれどそれすら奪われてしまったら、面白いぐらい私には何も残らなかった。光あっての影なのだ。光を失ったそれは空っぽと同じ。ああ、それも悪くないか。これでまた一つ死ねない理由が消えた。 「そう自分に言い聞かせて、自分の苦しみに蓋をしているだけなんじゃないのか?」 うるさい、うるさい、うるさい。あの男の声が未だ頭の中で鳴り止まなかった。 何が「永遠の命」だ。ああそうだ。私はまるで、動かなくなる日を待ちながら、同じ歌を繰り返すだけのオルゴールだ。諦観に身を任せて、永遠のように安らかな眠りにあぐらをかいている間に、どんどん諦めて、どんどん切り捨てて、私はたくさんのものを失ってしまった。けれどこれも全て姉さんのため...いや、それすらも諦めるんだっけ。もう、何にも見えない。何もわからない。ねえ教えてよ、偉そうな口叩くんならさ。私は一体どこに向かっているの?あんたは見えてたんでしょ?闇の中で私を見上げたあんたの瞳は、迷いの中に震えながらも、己の中にある何かを後生大事そうに抱えていたじゃないか。こんなところまで落とされても、まだ掛け替えのないものがあるの?それが天使様への願い事なの? どうせ大したものじゃない。でも、もしそこに何かあるんだとしたら私にも見せてよ、天使たちの夜に、さ。 そしたらあんたのお説教も、少しは耳に入れてあげる。 ・・・ 「今日からお世話になります!」 声変わり前の甲高い少年の声が、辺境の狭い通信局中に響き渡った。 「一生懸命頑張りますので、どうかよろしくお願いします。」 そんな活気あふれる声に、老兵は一抹の不安を掻き立てられる。 目の前のひたむきそうな少年の姿に、彼はこの間の少年の姿を重ねていた。 「やる気があるのは結構だがな、あんまり頑張り過ぎんなよ。大抵は暇な仕事なんだから、ゆるーくやろうぜ、ゆるーくさ。」 「そんな適当でいいんですか...?」 「そうとも。なんならこれから一杯ひっかけに行くか?」 「業務時間中ですよね?!」 「いいっていいって、新人の洗礼も立派な業務さ。ともに語らおうじゃないか、今日ぐらいさ。」 「はあ...。」 「じゃ、決まりだな!」 彼は強引に少年の肩に腕を回した。 新米は若干顔を顰めつつも、結局彼の誘いに乗ることにした。この男の下で働くことへの不安はあったが、ともかく彼の新しい生活は始まりを告げたのだった。 ・・・ ついに天使たちの夜が訪れた。 この日一日だけ、通信局の人々はプレゼントを運ぶ天使になる。 ついこの間まで与えられる側だった小さな天使は、今年は自分が与える側になったことをひそかに喜びながら、魔物たちの寝静まる真昼の日差しの中、自分の体ほどもある大きな風呂敷を背に歩いていった。 「ええっと、次の贈り物は・・・この辺りかな?」 見るとそこには、黒髪の女性が一人、真っ黒な堤防の日陰にもたれかかって目を閉じていた。 「ふふっ、よく眠ってるなあ。」 気分は子供の寝顔を眺める大人そのものだ。彼は彼女を起こさないように、そっと赤いリボンに包まれたパンを腰の近くにおこうとした、その時だった。 「それは私へのプレゼントじゃないよ。」 突然彼女は口を開いた。長いまつ毛の間から、色違いの綺麗な瞳がのぞく。少年はドキリとして、恐る恐る尋ねる。 「お、起こしちゃいましたか?」 「ずっと起きてたよ。」 彼女は微笑を浮かべていった。 「あの、これあなたのプレゼントじゃないって、どういうことですか?」 「これはね、ついさっきまでここにいたやつのプレゼントなんだよ。」 「なら、今その人はどこにいるんですか。」 そう尋ねると、彼女は堤防の向こう側を指さした。そこには束の間の穏やかさで魔物という名の太古からの海が、波間にきらきらと陽の光を反射しているばかりだった。 「それって、もしかして...。」 「よほどプレゼントが楽しみで浮かれてたんだろうね、バッサリといかれたよ。」 なんてこともないように、彼女は言ってのけた。少年は戸惑いを隠せない表情で彼女を見つめた。 「随分、落ち着いてるんですね。」 「よくあることだからね。毎回動揺してちゃ身が持たないよ。」 少年は残されたパンに視線を落とした。ここがどんな場所か、彼はあらかじめわかっているつもりだった。それでもいざ現実を目の前にすると、やはり少年の繊細な心には、どうにも受け入れ難いものがあった。 「それ、食べちゃっていいよ。」 そう言われても、とても食べる気にはならなかった。少年は俯いたまま、無言で首を振った。 「そっか、なら私が食べようかな。」 そう言って、彼女の手はパンを掴もうとした。 「あの!」 少年は思わず彼女の手を静止した。 「これ、その人へのお供えものにしませんか?」 ・・・ 静かに寄り返す波の前に、うさぎ一匹入らないような大きさの砂土が盛り上げられていた。きっと次に大きな波が来れば、跡形もなくそれは消えてしまうだろう。そんな儚い彼の最期を前に、少年はただ手を合わせることしかできなかった。 岸辺を散歩していた罪人が、墓の前で立ち止まって言った。 「なんだ。死んじまったのか、あいつ。」 「親しい方だったんですか?」 「一時期な。最近はすっかり疎遠になっちまったけど...おっ!」 罪人はめざとく少年の手にしていたつつみを発見した。 「なんかいいもん持ってんじゃん。」 「はい、この人のお墓にお供えするんです。」 「でもこのままほっといたら魔物の餌になるだけだぜ?どれ、俺がもらってやるよ。」 「あ、ちょっと!」 男はひょいとプレゼントの袋を、少年の手元からつまみ上げた。 「いいだろ、お前の食いもんじゃないんだから。」 「そうですけど...親しい方だったんですよね?死を悼んだりとか、そういうのないんですか?」 そんな少年の言葉に、男は思わず吹き出した。 「悼むも何も、もうとっくに死んでんだよ。ずるして生き延びてるだけなの。俺たちも、この世界も。」 少年は何も言えなくなってしまった。その様を見て、男は満足そうに、 「わかりゃいいんだよ、わかりゃ。」 とおもむろにパンを口に運んだ。 ところがパンを一口齧ると、彼の表情は一瞬怪訝そうになった。するとその顔はみるみる青ざめていき、脂汗が額に滲んできたかと思うと、最後にはひどくえずいてパンを取り落としてしまった。 「まっず!なんだこりゃ!魔物の肉の方が百倍マシじゃねえか!」 そう言ってちくしょう、騙されただのと呟きながら、実に気分悪そうにその場を後にした。少年は、そんなわけはないと思いつつも、男の差し迫った表情を思い出すと確かめてみる気にもなれなかった。 背後から、どっと湧き上がるような笑声が聞こえた。振り返るとそこには、端正な顔を惜しみなく歪ませて、腹を抱えてゲラゲラと笑う彼女の姿があった。 「何がおかしいんですか。」 ちょっと怒ったような少年の声に、ダークラビットは笑い涙をこぼしながら語り出した。 「何がおかしいって?全部だよ全部。これ以上の喜劇があるものか。あのパン屋は姉さんの贔屓の店なんだよ。美味しすぎて全部食べると記憶がなくなるんだって、いっつも手紙で教えてくれたよ。見た?あの男の顔。記憶も無くなるわけだ。一口であれじゃ、無理して全部食べたりしたら失神してしまうよ。君さ、本当にその店の経営が、あのまずいパンだけで成り立つと思う?奥さんがあの味を世に出して平気でいるのはいいとして、それを止めないあたり旦那も相当イカれてるだろう。もっとも、本当にそんな人物が存在したらの話だけどね。きっとあの男からの仕送りがなくちゃ、とても立ち行かなかっただろうね。結局あの男は、ありもしない幻を守るために戦い続けていたのさ。自分をパン屋だと思い込んだ少女を、本物のパン屋に仕立て上げた張本人が誰かということにさえ気づかないまま、幸せな空腹のうちに彼は生涯を終えたんだ。まごうことなき大団円じゃないか!これを喜劇と言わずしてなんという?」 最後の方になると、彼女は最早半狂乱に陥っていた。笑いすぎで咳き込んでも、彼女は笑うのをやめなかった。喉が枯れそうになっても胸の奥から絞り出した。まるで体の中にある全ての臓器を、笑いに変えて吐き出そうとするかのように。そんな笑いが、ただただひどく悲しい戦慄で少年の胸をかきむしった。少年は直感した。この人も、きっともうすぐ死んでしまうのだ。海の藻屑となって、この世に何も残さずに。少年はたまらなくなって尋ねた。 「どうして、こんなに悲しいんですか?」 語尾がかすかに涙で震えた。 彼女は、ゆったりと少年の言葉に顔を上げる。うすら笑みを浮かべた彼女の顔は、涙のせいか、さっきまで緑色だった方の目も、左目と同じように真っ赤に腫れ上がってしまっていて、まるで本物のうさぎのようだった。 「いいよ、教えてあげる。」 彼女は答える。この世に生まれた全ての命へ、精一杯の諦観と哀れみをこめて。 ### あとがき 久しぶりに、十年前の夢を見た。 降り頻る雪の中、重く閉ざされた玄関の前で、二匹の子うさぎが肩を寄せ合いながら震えていた。 「ねえ、ここを抜け出そう?こんなところにいたら、私たち死んじゃうよ。あてはあるんだ。街の真ん中にある芝居小屋。雨風ぐらいなら凌げるよ。あそこなら、誰も私たちを傷つける人たちなんていやしないよ。」 「大丈夫。私はもう平気。だってこの世界はもう、こんなにも綺麗なんですもの。さっきね、お母さんにぶたれそうになった時、私咄嗟に目を瞑ったの。そしたらね、すっごく綺麗だったんだよ。洗い物の積まれた流し台とかも透き通ってて、透明な中に星を閉じ込めたみたいで、明かりがついてるほう見ると綺麗な朝焼けの海岸にいて、それでいて海はどことなく暗いの。私それでわかったんだ。おめめ、邪魔なんだなって。おめめに映るお母さんはいつも怒った顔。でも本当は、とっても優しくて綺麗な人。ねえ、私たちはもう十分幸せだったんだよ。私は私が好き。お母さんも、今はいないお父さんも、みんな、みんな大好き。」 「現実を見てよ姉さん!私たち、誰にも愛されてないんだよ?それで幸せなわけ、ないじゃないか…。」 「ううん、幸せだよ。たとえ誰からも愛されなくなって、あのどこまでも透き通った海の中で、胸の中にいっぱいの星を抱いていれば、怖いことなんてなんにもない。」 「どうしてそんなふうに言い切れるの?」 「理由なんてないよ。私は出会ってしまったのだもの。もう何も見なくたって、聞かなくたって、この世界でなら私、きっと生きていけるよ。」 「それでも...私、怖いの。姉さんがどんどん遠くに行っちゃって、いつか私の手の届かないところまで飛んでっちゃうんじゃないかって。姉さんだけが唯一、私のことを見てくれた。そんな姉さんの目からも消えちゃったら、私はどこにいればいいの?私、まだ姉さんと離れ離れになりたくないよ・・・!」 「・・・わかった。ごめんね、ちょっと焦りすぎちゃってたかも。でも、あなたにもいつか見えたらいいな。あの机の上にいるウサギさん、とっても毛並みが綺麗なんだよ。」 「・・・うん、頑張ってみる。」 結局、私にはそれを見ることができなかった。それでも姉さんといたかったから、あたかも見えるように演じ続けた。演じて、偽って、嘘を重ねていくうちに、私は心をどこかに置いてきてしまったみたいだ。 彼女はもう何も見ない。何も聞かない。だって世界は、もう姉さんの中で完結しているんだから。あの小さな胸の中には、何者も侵すことの出来ない曇りなき清浄な宇宙が、どこまでも果てしなく広がっているのだから。汚れ切った私の目には姉さんの世界を見ることはできないけれど、それでも私は彼女の世界に散らばった星のかけらを、どうにか誰かに見せつけてやりたかった。お前たちが目も止めずに通り過ぎた小さな箱の中には、こんなにも綺麗な宝石が眠っていたんだぞ、ってね。幼稚な願いだよ。今更誰にわかってもらったって彼女は帰ってこない。 死んだのかって?まさか。彼女は死んだりしないよ。けれど彼女は、もうこの世界には干渉する気はないんだって。無理もないよ。楽園に笑顔をたやさないために、彼女は彼女で仕事が山ほどあるんだから。けれどいつか姉さんの夢が覚めたら、私の戦いも終わり。それまでは、私も頑張ろうと思ってるんだ。所詮、自己満足に過ぎないけどね。