# 01 Genjō Kōan 現成公案
==Numbers attributed to paragraphs and sentenses are subject to change.==
## Introduction
## Original Text and Translations
### [1]
> `1:1` 諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
> `1:2` 萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
> `1:3` 佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
#### Translations
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<summary>試訳</summary>
`1:1` あらゆる物事が仏法である時、すなわち迷と悟があり、修行があり、生があり、死があり、諸仏があり、衆生がある。
`1:2` あらゆるものが我にあらざる時、迷いなく悟りなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
`1:3` ==仏道もとより豊・倹より跳ね出るゆえに==、生と滅があり、迷と悟があり、生きる者と佛がある。しかしそのように言ったとはいえ、花は愛し惜しさに散り、草は憎ましくも生えてくるのみである。
^*訳・解釈多様。伝統的には「豊倹を跳出する」を世俗的な尺度を超越すると取る解釈が多い。松岡(1995)は1:1が「豊」悟りの概念的理解、1:2が「倹」空・無常を観ずるイメージであり、1:3は豊かな悟りのイメージ、空の貧しいイメージという二つから「仏道」が生じてくるさまを表現し、1:4は修行の実態と取る。しかし、少し混みいった解釈のように感じる。^
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<details>
<summary>English</summary>
`1:1` At times when the dharmas are the buddha dharma, just then there are delusion and awakening; there is practice; there is birth; there is death; there are buddhas; there are living beings.
`1:2` At times when all the myriad dharmas are not self, there is no delusion: there is no awakening; there are no buddhas; there are no living beings; there is no arising; there is no cessation.
`1:3` Because, from the start, the way of the buddhas has jumped out from abundance and scarcity, there are arising and ceasing, there are delusion and awakening, there are living beings and buddhas.And yet, while this may be so, it is simply “flowers falling when we cherish them, weeds growing when we despise them.”
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### [2]
> `2:1` 自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
> `2:2` 迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
> `2:3` 諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
> `2:4` 身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`2:1` 自己をもってあらゆる物事を修証することを迷とし、あらゆる物事をもって自己を修証するのは悟りである。
`2:2` 迷を大悟するのが諸仏であり、悟りに大迷するのが衆生である。さらに悟りの上に悟りを得る人がおり、迷いの中でまた迷う人がいる。
`2:3` 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己が諸仏であると覚知することはない。そうではなく、証仏である。仏を証しするのである。
`2:4` 身心をもって色を見取し、身心をもって声を聞き取るとき、それらをしっかりと会得するといえども、それは鏡に姿が映るようでもなければ、水と月のようでもない。一方を証するとき、一方は暗い。
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<details>
<summary>English</summary>
`2:1` Bringing the self to practice and verify the myriad dharmas represents delusion; the myriad dharmas proceeding to practice and verify the self is awakening.
`2:2` Those who greatly awaken to delusion are the buddhas; those who are greatly deluded about awakening are the living beings. Moreover, there are people who attain awakening on top of awakening, and there are people who are further deluded within their delusion.
`2:3` When the buddhas are truly the buddhas, they make no use of perceiving that they themselves are buddhas. Nevertheless, they are verified buddhas; they go on verifying buddhahood.
`2:4` When we take up body and mind and see forms, when we take up body and mind and hear sounds, although we understand them intimately, it is not like the reflection in a mirror, not like the water and the moon: when one side is verified, the other side is obscure.
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### [3]
> `3:1` 佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
> `3:2` 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。
> `3:3` 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。
#### Translations
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<summary>試訳</summary>
`3:1` 仏道をならうとは、自己をならうことだ。自己をならうとは、自己を忘れることだ。自己を忘れるとは、あらゆる物事に証されることだ。あらゆる物事に証されるとは、自己の身心および他己の身心をもって脱落せしむることだ。==悟った跡に休止するということがある。休止した悟りの跡を長出せしめよ。==
^*訳多様。詮慧『正法眼蔵聞書抄』曰く、「悟った後に休止する」というのがそもそも悟りの有る無しを論じるのであり、おかしな話であると取る。「休歇」は前文の「わすれる」ということ。悟りを忘れる。「さとりは‥‥休歇ならぬときなし」といい、「長長出」を物事に長けるという意味で理解して、悟りの自覚なしに修行していくことに親しく修行すべしと捉える。正直この説明では不満を感じるが、納得する説明は他に無い。^
`3:2` 人がはじめて法を求めるときは、法からは遠くかけ離れている。しかし、法がおのれに正しく伝わるときは、すみやかに本来の自分となる。
`3:3` ある人が舟に乗って進むとき、岸を見渡してみると、岸が動いていると見誤る。目を舟にうつすと、舟が進んでいるとわかる。それと同じように、身心について心得ず、あらゆる物事を理解するならば、自分自身が常にあるものだと誤解する。もし日頃の行いを顧みて、自分自身のもとに帰ってくるならば、あらゆる物事に常なるものなどないという道理が明らかになる。
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<details>
<summary>Egnlish</summary>
`3:1`
`3:2`
`3:3`
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### [4]
> `4:1` たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
> `4:2` かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
> `4:3` たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
>
#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`4:1` 薪は灰となるが、逆に灰が薪になることはない。されど、灰が後、薪が先という風に理解してはいけない。薪は薪の法位にあるのであって、その中で先があり後がある。前後があるといっても、前後が断絶している。灰は灰の法位にあるのであって、その中で先があり後がある。
`4:2` この薪が灰となった後、さらに薪とならないように、人が死んだ後、生きるということはない。しかしそれを「生が死になる」と言わないのが仏法に定められる倣いである。このゆえに、これを「不生」という。死が生にならないというのも、法輪が定める仏伝である。このゆえに、これを「不滅」という。生も一時の在り方であり、死も一時の在り方である。
`4:3` たとえば、冬と春のようなものである。春になるのは冬であると思わず、夏となるのが春と言わないのである。
^*わかり辛い例えだ。現代人がそのまま読むと「季節が」春から冬になるという風に主語を補完してしまうが、「春そのもの」が夏になるとは言わないという意図として書かれているらしい^
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<summary>Egnlish</summary>
`4:1`
`4:2`
`4:3`
`4:4`
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### [5]
> `5:1` 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
> `5:2` さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。
> `5:3` ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿點し、天月の廣狹を辨取すべし。
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#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`5:1` 人が悟りを得るというのは、水に月が映ることのようだ。月は濡れず、水が波立つことはない。広く大きな光にあてられていながら、一尺の水にやどり、月のすべてや天空は、草の露に宿り、一滴の水にも宿る。
`5:2` 悟りも人を何か損ねることがないのは、月が水を波立たせないことの如きである。人が悟りを妨げないことも、一滴の水が天や月を妨げることがないようなものだ。
`5:3` ==(水/修行の)深さは(月/悟りの)高さを示す。時間の長短については、水の大小を詳しく調べ、天月の広き狭きを弁えなさい。==
^*翻訳が分かれる一文。前文で示される月(悟り)と水(人)という比喩から、本覚的な発想にならないように、修行の要素を交えて次段と繋げているように思われる。これについてはあまり納得いく解説が見つからなかった。^
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<details>
<summary>Egnlish</summary>
`5:1`
`5:2`
`5:3`
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### [6]
> `6:1` 身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
> `6:2` しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
> `6:3` かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。
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#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`6:1` 身心がまだ法で満たされていないときには、法はすでに足りていると感じる。法がもし身心に充足すれば、一方で足りないと感じるものだ。例えば、舟に乗って陸の見えない海原に出て周りを見渡すと、ただ丸く見えるのみで、異なる形に見えることはない。
`6:2` しかし、この大海は、丸くも無く、四角でも無く、その余すところの海徳は尽きることがない。宮殿のごとく、
`6:3`
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<details>
<summary>Egnlish</summary>
`3:1`
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### [7]
> `7:1` うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
> `7:2` かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。
> `7:3` しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。
> `7:8` しかあるがごとく、人もし佛道を修證するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。
>
#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`3:1`
</details>
<details>
<summary>Egnlish</summary>
`3:1`
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### [8]
> `8:1` 得處かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。證究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。
> `8:2` 麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
> `8:2` 師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
> `8:3` 僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
> `8:4` ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、禮拜す。
> `8:5` 佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。
#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`3:1`
</details>
<details>
<summary>Egnlish</summary>
`3:1`
</details>
### [9]
> `9:1` 正法眼藏見成公案第一
> `9:2` これは天福元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。
> `9:3` 建長壬子拾勒
#### Translations
<details>
<summary>試訳</summary>
`3:1`
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<details>
<summary>Egnlish</summary>
`3:1`
</details>