# この世の喜びよ - 井戸川射子 - 2022 - https://amzn.to/3DL33pt ## 主要登場人物 - 疎外の象徴、イオンモール - 喪服売り場のあなた(穂賀) - 2人の娘がいる - 上の娘は小学校教諭 - 名古屋に「家出」する - 下の娘は2歳下っぽい - 喪服売り場の同僚(加納) - 30歳?の息子?がいる - ゲーセンにいつもいるじじい - なんかすごい汚い雰囲気で書かれている - 妻(「ばあさん」)の手作りパウンドケーキをくれる - あきらかにこの小説のクライマックスの1つ - ゲーセンの多田(23) 嘘の存在 - フェイク一人暮らし - 「洗い物めんどいから、肉とかも手でちぎってますもん。だから肉は豚バラスライスしか買わないんですよね」(305) - スカっとジャパン要素 - 「呼び方失礼ですよ、帽子さんとか呼ばれたら嫌っしょ」(307) - 申し訳程度のオタク要素 - 「後から淫行だったとか言われたら死ぬじゃないですか」(331) - ヤングケアラーの少女(中3) - マックの女子高生 - 「『できないことが増えていくのって、慣れないだろうな』」(318) - あきらかに言わされている - やってることがオタクの美少女~~なのに作家が女性だから許されている~~ - 「この子ならこうやって、気軽に親しい関係を取り結んでいけるのだろう、スポーツをやっていたんだし」(321) - 意味不明(穂賀のスポーツに対するコンプレックスの表出でしかない) - なんか恋しているし、なんか失恋もしている - 「だって二十三歳だよ」(322) - 純朴すぎる - 小説に必要なことをやる - 327以降のブチギレパートは、わざとらしい(が、ないと成立しない ## 批評的論点 - これは何についての小説? - 疎外を感じ続けてきた穂賀が自らの人生という「経験と歴史」を、それしかないと受け入れなおす話 - 2人称による語りは成功しているか? 失敗しているか? - 2人称の語りの狙いは?(技術的水準) - 「私は」と語りだすとき、原理的に、語られる「私」と語り手は**ひそかに**分離される - 日本語の口語では、主語が私であるときに主語の省略が起きやすい 「私」は見慣れた人称だが、一方で小説っぽく語ることに慣れているのような違和感が付きまとう → 語り手の「素人っぽさ」の表現 - この小説では、現在時点での出来事について積極的に現在形で語る傾向がある - 書き言葉には、過去になされた行為を事後的に語るというニュアンスがある - この効果をねらって、作者はこの文体を選択したのではないか - 「あなたは」と語りだすとき、語られる「あなた」と語り手はあらかじめ分離されている - あなたは私ではない - 「あなた」と指示される対象がじつは語り手自身であるこの小説の場合、「私は」と語りだしたときのような語り手との距離が生じることはない もとから空席だった場所(「あなた」の指示対象)に語り手が座りなおすだけ - この小説の場合、視点は穂賀に固定されているため、視点は一般的な一人称小説と変わらないのだが、そのことが通底した奇妙さ(気持ち悪さ)を生んでいる - 内なる目 内面を規範意識に視られている感覚 - 「加納さんは(...)首の筋肉に入れる力すら出し惜しみしている、加納さんの白い背が、吊られて伸びる服に囲まれ目立つ。あなたはそうはありたくはないので、さっきした書類の整理などをもう一度し直したりする」 (296) - 「穂賀は」と語りだすとき、語られる対象の名前は因果関係に規定されている - 「穂賀」は結婚相手の名前でしかない - 「『私小さい時、おばさんってあだ名だったことあるんだけど』(...)『親呪っちゃったよね』」(318) - 作家は、現在の穂賀自身から引き出される情報以外は記述しない - 「あなたは風景ならいつまでも覚えておける」(297) - 非常に言い訳臭い - 「彼女は」と語りだすとき、語られる対象から固有性は剥奪されている(また、性別が固定される) - 小説っぽすぎる? 私はこれでもいいと思う - 「母」という属性を外部的に付加したくなかった? - 内容的水準 - 名もなき母の「あなた」 → 「穂賀さん」と少女に呼ばれる - 「あなたは名前を覚えていてくれる人がいるということだけで、一杯百円の価値はあると思っている」(302) - 「近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称すら混ざってしまっていた」(319) - その狙いの意義は? - 「母」という役割の外部性 - 母が先にいるのではなく、子によって母と規定される - ヤングケアラーの少女との一致性/不一致性 - 異常に叱る人々 - 「呼び方失礼ですよ、帽子さんとか呼ばれたら嫌っしょ」(307) - 「お父さんは今、関係なくない?それもあるのかもしれないけど、人のせいにしないでくれない?」(312) - 「ダメだよ、怒鳴らなくても、大人なら言葉だけで分かるんだから」(321) - 娘にもめちゃめちゃ叱られている - 「説教は娘たちにしなよ」(329) - 叱ることすら叱られる - はたしてこの作品は小説として書かれるべきだったか? ## 好意的感想 - 特徴的な文体を用いて読者に実存的な手ごたえを与えることに成功している - 文体的なギミックが作品のテーマと一貫しており、有効に機能している(「群像」の編集者はこういうのが好きという印象がある) - たぶん「お母さん」が読んだら感動するのでは ## 批判的感想 - 表現はうまいかもしれないが、別に小説はうまくない - 実存的な手ごたえと引き換えに筋の面白さを捨ててしまっている - そもそも別にトレードオフではない - その結果、持ち出してくる「母の実存」から遠いテーマに小説的な必然性が感じられない - 「母 - ヤングケアラー」は良いが、その他の問題系が散漫な印象 - いちど長編を書いてみてほしい - 「何の話!?」となる部分が多い割に、それがとくに機能してこない - ディテールとしてもヌルい - 「大学生の時に付き合った相手は、女の子の胸って水中で踏むと気持ちいいんだよねと言い、湯船で向かい合い、毛の濃い脛を上げて柔らかくあなたのを足蹴にしてきた」(306) - 読解コストを押し付けてきている - 小説的発想としては、ギミックはさっさと消化して、大ネタを持ってくるべき - 全体に人物造形が嘘すぎる - 母性という問題系に対して閉鎖的なアプローチばかりしている - 優等生的な問題設定 典型的な疎外の話 - 家族という社会制度は母という人間を疎外する(このことをずっと書いている) - 今気づきました! みたいな顔をされても困る - 全体に「オカン臭い」。主題から遠い人間を拒絶する小説 - 徹底的に異常独身男性を排除してくる - 作家が分からないからだとは思う - 想像で補ってなお足りない空白がこのテキストの限界を指している - べつに母 - 娘だけのための文学があってもよいのだが、それは父 - 息子だけのための文学とか文学的教養を持った人間のためだけの文学とかとどう違うのだろうか? という視点は挿入されてしかるべき - 作家の立ち位置がいっこうに見えてこない - 読者の視線が意識されすぎていて(巧緻すぎて)、作家の作為が前景化されてしまっている - 指先で書かれた小説 - 詩人としてやりたいことはよく伝わってくるが、小説家としてやりたいことが伝わってこない。なぜその人の人生を語るのかという動機が申し訳程度の時事性しか付け加えられていないように見える - 「あなた」の背後にいる2人の「私」、穂賀と作家(および語り手)の距離を整理できていない - 穂賀は「母」として実生活を通して「この世の喜び」を見つける - が、これは作家の作為であり、穂賀のような平凡な人がさまざまな不満の中から(穂賀の不満について直接書かれることはすくない)生きた喜びを自発的に見つけることは、あまりリアリスティックではないように思える。だとすると作家は何をしていることになるのだろう? - 疎外されている状況は解決できないので、それこそが自分の人生だとして積極的に受け入れていくしかない、というごくサルトル的な解決 - おもろいか? - 平凡な人間にも「この世の喜び」を見出してやる、芸術がその役割を担うのだ、という作家の尊大さ - 穂賀は誰かを「あなた」と呼んで終わるのではなく、先に「私は」と語り出すべきだった - 本当にそのテーマを扱いたいなら、この紙幅では足りないのでは? - 「そこに『この世の喜び』というほど大仰なものが漲っているのかどうか」(松浦寿輝の選評) - なんで関西弁でしゃべらないんだろう? # 原稿 ## log - 2024/11/08 作業開始 - [time=Tue, Nov 12, 2024 5:03 PM] 第一稿 ## 論点整理 - この小説を読んでいると巨大な嘘の塊に直面している気分になる - 俺だけか? - 語りの水準の分析 - 二人称一元小説 - ## 総合評価 - オススメ度 00001 - 話の面白さ 00001 - 技術 00001 - 視点 00011 - 重さ 00011 短評: 私はこの小説に向き合うたび、嫌な気分になる。国語科の教員が書いた、いかにも教員らしい文章だと感じるからだ。一文一文が読者を試している。一文一文が読者を「正しい読み方」へと導いている。そして私は、私の父が国語科の教員だったことを思い出す。井戸川射子の文章は、私の脳内に汚れた種を無遠慮に撒き散らす。 最初にはっきりと言っておかなければならない。私はこの作家が、井戸川射子が苦手だ。好き嫌いの問題ではない。何を考えて「この世の喜びよ」という小説を書いたのか、さっぱりわからないのだ。「この世の喜びよ」はほとんど要約不可能なように書かれた小説だが、何についての小説なのかは簡単に示すことができると思う。これは、母の主体性の疎外と、おそらくはその回復についての小説だ。 田舎のショッピングモールの喪服売り場で働く穂賀は、二人の娘が自立して家を出てからというもの、ほとんど呆然として生きている。散漫な描写と無秩序に喚起される子どもたちとの記憶の群れは、穂賀が現在を生きていないということを暗示している。さらに、穂賀は「名前を覚えていてくれる人がいるというだけで一杯百円の価値はあると思っている」ほどに孤独でもある。 幸いにして、職場であるショッピングモールは娘たちの思い出の場所でもある。けっしてこの設定自体に無理があるわけではないが、ほとんどモールを出ることなく描写を完結させようという作家のミニマリスト的企みが透けている。作家にとって都合の良いように整地された世界を描いている、と言い換えてもいい。そのことの問題は明白で、物語がショッピングモールという場所に縛りつけられた結果、話らしい話がほとんど生起してこないのだ。確かに、現実の片田舎のショッピングモールに作家が感心するような物語などほとんどないのかもしれない。だが、ではなぜこの作家は控えめに言っても面白みのないこの舞台を選び、小説を書くのか? 念のため確認するが、「この世の喜びよ」は、詩ではなく小説である。 物語内容に対する戦略がいっこう見えてこないのとは対照的に、語りの戦略は充実している。まず、穂賀は語りのなかで「私」ではなく「あなた」と名指される。「私は」と語り出す小説を一人称小説と一般に言うが、その意味で、「この世の喜びよ」は二人称小説と言うことができるだろう。この小説としてはややイレギュラーな工夫の意図は大きく二つある。 第一には、「この世の喜びよ」は母・穂賀の主体が疎外されていることに対する文体的表現である。本来「私」と言って語り出すべき語り手=主人公がなぜか「あなた」と自分自身を名指す。 > あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。(中略)あなたは努めて、左右均等の力を両足にかけて立つ。片方に重心をかけると歪んでしまうと知ってからは、足を組んで座ることもしない、腕時計も毎日左右交互に着ける。あなたは人が見ていないことを確認しつつ片手に一つずつ握っていき、大きさ重さを感じながら微調整し、ちょうどいい二つをようやく揃えた。 引用箇所は「この世の喜びよ」の冒頭部分だ。まず指摘できるのは、この語り手が「あなた」=穂賀ときわめて近い視点を持っているということだ。一文目だけを読むと、ここで穂賀が何を探しているのか、読者には判然としない。だが、穂賀にとっては、片手に握られているものは柚子であることがすでに明白なので、「ちょうど同じようなの」を探すだけで良い。「片手に握っている柚子と」などと、説明せずとも自明なのだ。「この世の喜びよ」では、この種の省略によって、穂賀と穂賀を語る語り手との間の距離の近さが表現される。これは読者にとってはきわめて読みにくくなる仕掛けだが、作家はこの方法で読者と穂賀の間の距離をも示している。私たち読者は基本的にこの穂賀の内的世界のことがわからないのだ。 また、文章を読むとき、ふだんは「あなた」という人称代名詞は読者を意味するものとして読まれることが多い。だが、「この世の喜びよ」では「あなた」と呼ばれる人物は、後述する例外を除いて、穂賀だ。このことも、読者から語り手と穂賀を遠ざける効果を生んでいるだろう。だが同時に、「あなた」という二人称を用いることで、物理的な存在者である穂賀と語り手の限りなく近い関係のなかにも、しかしある種の乖離が存在することを暗示することができる。なぜなら、単純なことだが、ふつう自分自身には「あなた」という人称代名詞を用いないからだ。こうした一連の効果こそが第一の意図である。 第二の意図は、「この世の喜びよ」の最終段落に込められている。 > あなたと話したいから思い出したの、うちの近くには団地があって、それがありがたかった。寒さでベランダの柵が鳴り出すような古い建物で、錆びた遊具や枯れ木なんかが落ちてた。(中略)ああいうところが、長く待っているにはいいんじゃないかな。少女が近づく自分を見てうつむいたとしても、それなら出来るだけこれで最後だというように、でも力を込めてそう言う。進む足に力は均等に入る、スーパーの空洞を循環する暖かな追い風が背を撫でる。あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸を胸いっぱいの水が圧する。 引用部分の最初の「あなた」を穂賀だと解釈するのは難しい。これまでずっと使われてきた「あなた」と異なるのは、この「あなたと話したいから思い出したの」という言明には、呼びかけている相手が想定されていることだ。そしてその相手はスーパーの前の小さなフードコートで「放課後、帰って気まずくない時間ギリギリまで」暇をつぶしている十五歳の少女だ。 少女とのダイアローグはこの小説の話らしい話のなさを補うかのように劇的で、端的に不自然で虚構らしい。今時の少女という像を過剰に反映した、存在しない想像上の少女。それが意図したものかどうかはわからないが、この少女の名前は記述されていない。それゆえに、この少女は穂賀との対話の中でかなりの程度自己主張をしているが、それでもどこか亡霊のようだ。 少女は「この世の喜びよ」の冒頭で「あのね、穂賀さん忘れないでよ。記憶力ないと会話もできないよ」と言っている。引用の「あなたと話したいから思い出した」は、まさにそれに対する応答となっている。このことからもわかる通り、「この世の喜びよ」の散文的な構造はこの少女とのダイアローグを軸に構成されている。逆に言えば、「この世の喜びよ」からこの少女を取り去ったら、本当に話らしい話が一切なくなってしまうと言っても大げさではない。穂賀はこの少女と出会って初めて一人称を取り戻すからだ。 > いいと思う、本当に、何でもいいと思う、とあなたは答える。自信をもってそれが本当だと言いたいがために、結婚や出産をしてきた気さえあなたはする、痛みも、出す水も、それはできるだけ少ないほうがいいと思う。(中略)でも性的であることを極力忘れられるから、もう誰も、体のことや愛についてを、私に言ってこなくなるから便利で、とあなたは答えようと思ったが、こんな工夫はアドバイスにもならないと思い黙ったままだ。 穂賀は少女に「私は結婚しない、生まない」とはっきり言われて、自らの人生を反芻する。逆に言えば、少女に自分の人生を話すという契機こそが穂賀を「私」たらしめる。少女の明瞭な意志表示に対して、穂賀が何かを少女に伝えるためには、当時穂賀が何を意志していたのか、語ることを迫られるからだ。そうでなければ穂賀の言葉が少女に届くことはない。引用部での「私」をめぐる表現はやや複雑だ。「性的であることを極力忘れ」たいと思っている「私」=穂賀の存在は明確だが、一方でそのために結婚や出産をするというのは、穂賀自身の補足なしでは本末転倒に見え、彼女の意図を読み取ることはできない。その補足があってさえも、少女は穂賀を理解できないかもしれない。穂賀にとって少女はそれくらい遠い。もしかしたら、少女には穂賀を理解できないし、穂賀にも少女のことは理解できないのかもしれない。少なくとも、彼らの相互理解のためにこそ、穂賀は語ることを強いられ、語るために思い出すのである。 先に引用した部分について、最初の「あなた」がこの少女を指していることは指摘しておいた。同引用部末尾の「あなたに何かを伝えられる喜びよ」の「あなた」もまた、この少女を指している。だが、最後の「あなたの胸を」のあなたは、おそらく穂賀を指す。「この世の喜びよ」の最後の一文で、この二つのあなたは区別されることなく併用されている。井戸川はこのラストの一文を書くためにこそ、「あなたは」と書きだした。これが第二の意図だ。 だが、穂賀と少女の距離は、結末に至ってもなお遠いように見える。穂賀は少女に接近するが、それはあくまで穂賀の心象風景にいる少女だ。それはおそらく穂賀も理解しているが、彼女は彼女の人生のために、少女に接近することをやめられない。彼女の母たる自我と呼ぶべきものが、穂賀を駆り立てるのだ。少女は、作中でその穂賀の衝動を的確に指摘して、「説教は娘たちにしなよ」と穂賀に言っていたのだった。この点で、穂賀の少女に対する接近は少女のためのものではなく、あくまで穂賀のためのものでしかない。だから私は、「この世の喜びよ」の結末はアンチクライマックスだし、悲劇だと感じる。穂賀の伝える喜びはすぐに伝わらない悲しみに変わり、この世は孤独と苦しみに満ちている。私は井戸川射子が何を考えているのかを、分かってやりたくない。 穂賀自身で結婚や出産や痛みを経験したからこそ、これが「あなたに何かを伝えられる喜び」であり、「この世の喜び」なのだろうか? 引用箇所の直後で少女が穂賀に言った一言は、この小説の核心を突く。「説教は娘たちにしなよ」 ショッピングモールに物語がないと思っているのお前だけ > 「読まなければならないものがあるはずだ」というベイト 文学ベイティング 「この世の喜びよ」は、母の主体性の疎外とその回復についての小説だ。で、誰がそれを小説にしろと? 田舎のショッピングモールの喪服売り場で働く穂賀は、二人の娘が自立して家を出てからというもの、かなりぼーっと生きている。「ぼーっと生きている」と書いてあるわけではないが、ぼーっと生きているようにしか見えないし、私はぼーっと生きている人が本当に苦手だ。ぼーっと生きすぎていて、今は夫と二人で暮らしているのか、それとも一人で暮らしているのかすら文章からは判然としない。そのぼーっと生きている人間の曖昧な感情の起伏に延々と付き合わされる。「この世の喜びよ」はそういう小説だ。 話らしい話はほとんどなく、話が動いたかと思えばそれはきわめて定型的で、面白いとは言い難い。芥川賞選考委員の松浦寿輝は選評でそれを「常同的」と評した。少なくとも物語内容の水準では、大したことが書かれているとは到底思えない。初老の女性がショッピングモールにいて、数人の人間と出会ったり娘と会話したりするだけで、ほとんど何も起こっていないからだ。フードコートに居座る中学三年生との会話の部分などはひどくぎこちなく、正直言って読むにたえない。 ついで語りの水準 読みにくくする工夫はふんだんに凝らされている。 はっきり言う。私はこの作家が、井戸川射子が苦手だ。だから以降の文章は、ほとんどすべて「この世の喜びよ」と井戸川射子の批判になる。 憎んでも呪っても、ひょっとしたら愛してさえもいない 時代錯誤の感すら覚える