# ハンチバック
- 市川沙央
- 2023
- 文學界新人賞
- ページ数表記は文藝春秋9月号準拠
- ハッチバックではない
## 主要登場人物
- 井沢釈華
- 指定難病[ミオチュブラー・ミオパチー](https://www.shouman.jp/disease/details/11_21_053/)を患う43歳の女性
- 早稲田大学の通信課程に在籍しながら、ネット記事のライター・TL小説作家をしている
- 収益は「見知らぬ誰かの学費やふりかけになる」(239)
- 両親が「ワンルームマンションを丸ごと改造して作った施設、グループホーム・イングルサイド」(228)に住む
- 両親の遺産が潤沢にあり、金銭面では不自由していない
- 田中さん
- 田中順
- 自称弱者男性。「もしかしたらインセル」(236)。
- 34歳。
- 紗花
- 大学4年のソープ嬢
- ミニオ
- ミニオンに似ているメガネをかけた中年男性。
## あらすじ
- 釈華は「妊娠と中絶がしてみたい」(230)と望む。
- 「あの子たちのレベルでいい。子どもが出来て、堕ろして、別れて、くっ付いて、出来て、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことは出来ずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった」(235)
- 「健常者コンプレックス」
- 「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」(239)
- 「金で摩擦が遠かった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい」(239)
- 田中は、釈華のTwitterアカウント「紗花」を監視(ヲチ)していた
- 釈華は1億5500万円と引き換えに田中に妊娠させてもらうことにする
- が、その前にイラマチオをして精子を飲ませてもらった結果、誤嚥性肺炎になり、入院する(?)
- 田中は釈華が退院する前にグループホーム・イングルサイドを辞めている。渡す予定だった小切手はそのまま残されていた。
- エゼキエル書38章16,18,19,22,39章6−8([口語訳聖書](http://bible.salterrae.net/kougo/html/ezekiel.html))の引用
- Anne of InglesideのGogとMagogとの関係性
- 早稲田大学政治経済学部4年の女「紗花」はソープで働いている。
- 「担のせいで私はいつも胸が苦しくて不幸せだ」(260)
- 「兄が殺した女の人の少し変わった名前と少し変わった病名を、私は今でも覚えていた。(...)私の紡いだ物語は、崩れ落ちていく家族の中で正気を保って生き残るための術だった。彼女の紡ぐ物語が、この世界に彼女を存在させる術であるように」(260)
## Quotes
- 「コルバン『身体の歴史』によれば、20世紀初頭に「視線の犯罪化」によって見世物小屋は衰退し、入れ替わるようにハリウッドのクリーチャーが持て囃されるようになった。着ぐるみのワンクッションをおけば奇形の異様さを呵責も遠慮もなく目で楽しむことができるようになる」(234)
- 「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、--5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた」(234)
- 「健常者優位主義(マチズモ)」
- 「日本では社会に障害者はいないことになっているのでそんなアグレッシブな配慮はない」(238)
- 「博物館や図書館や、保存された歴史的建造物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく」(242)
- このテーマで1本書ける
## 批評的観点
- 現代性がこれでもかというほど盛り込まれている
- 略語や固有名詞, 隠語スラングなどが何の留保もなく使われているし、めちゃめちゃ多い
- WordPress, iPad, インセル, ヤフコメ, EverNote, 脊損, ノンケ, 即尺...
- それを知らなければ釈華の生活の質は大きく変わる = 知らずにはいられない(知らなければこの文章も存在していないかもしれない)ということと、知らないで「呑気に」生活している「健常者」の読者との対照を意図か?
- なのに「小説投稿サイト」の固有名詞は出さない ガチだからか??
- グループホームの生活に対する圧倒的な解像度の高さ
- 執筆動機とこれを持って推挙、というのはかなりわかる話
- 将来性もあるし
- 健常者の生活にないもの(意識されないもの)をあえて描写しているので、単に障がい者が書いたらそうなるに決まってる、というラインを超えてきている
- ただの皿じゃなくて「メラミンプレート」(235)と書くところとか
- ぼーっと生きてたら皿って書くと思う
- 健常者へのコンプレックスという問題を作品に書き込むことが可能になるだけの膂力が、こういうところから読み取れる
- 突如としてありえないほど説明的になる、Moodleへの書き込み
- 「検索汚染が問題化して久しいいわゆるコタツ記事と呼ばれるSEO系WEBメディア記事のライターの対価は1文字0.2円〜2円くらい。コタツ記事というのは、取材をせず、ほとんどネット上の情報のつぎはぎで粗製濫造されたPV稼ぎの記事をいいます」(229)
- ここ説明も別に上手くない まあ釈華の文章なのでいいっちゃいいけど
- 意図があってそうしているのであればそう書いておいて欲しくはある
- 「設計図」
- 「姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ」(234-235)
- 「間違った設計図で生きすぎちゃって、それなのに大人になるのは遅かった」(247)
- 聖書の引用意図に絡んできてほしかった
- 本に対する愛憎
- 「本に苦しむせむしの怪物」(238)
- 「紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい」(238)
- ラストの「紗花」パート
- いらないという人もいるが、要る。シンプルにうまいし面白い
- 異世界転生ならぬ同世界転生
- 生まれ変わったら高級娼婦だった件
- 「釈華」パートのフィクション性を担保する役割
- 釈華の設定のどの程度が作者と重なっているのかは不明だが、少なくともミオチュブラー・ミオパチーの患者であるという点や、作品を読んで「これは到底当事者以外には書き得ない」と思うような部分もある。が、この作品をエッセイ的なものとしてではなく、1つのフィクションとして(「見世物」として)読むことを読者に許容する(許容するとは言っていない)役割
- 「私に兄などなく、私はどこにもいないのかも」
- 一人称「私」を介したメタフィクションへの移行
- では何が真実なのか? 何が「ある」のか? を読者に問わせる、けっして技巧的ではないがそれゆえに確実な仕掛け
- エディプス・コンプレックスのミラーリング(エレクトラ・コンプレックスとしてではなく)
- 「去勢不安」
- いずれにしてもフロイトに対する作者の皮肉・嘲笑をまとっている構成であるように思えるが。。。
# 原稿
## log
- 2024/10/29 作業開始
- 2024/11/07 第1稿 + 知人に公開
## 論点整理
- 障害者の性をめぐる問題系
- 2レイヤーある
- 現代において障がい者は何ができ、何ができないのか
- 「障がい者」に対する日本社会の視線のヌルさ
- 障がい者を同じ人間だと思っていないだろという告発
- こちらはとにかく当事者性を帯びなければスカる
- 主人公釈華と田中(インセル、弱者男性)との共犯関係に注目
## 総合評価
- オススメ度 00111
- 話の面白さ 00111
- 技術 00111
- 視点 11111
- 重さ 11111
短評: ミオチュブラー・ミオパチーという先天性の難病を患った作者が自身の経験を活かして書き上げた渾身の一作。インターネット的な独特の文体が読みにくいとの意見も見受けられるが、一方で寝たきりの著者の「リアル」とはそもそも限りなくインターネット的である。
インターネットは伏魔殿だ。都庁なんかよりもよっぽど伏魔殿だと思う。相手の顔も身体も声も一切何もわからないから、目の前の人間がどんな人間か想像するしかない。しかもその手がかりは、最初はほとんど文字だけだった。次いで画像と音声、最近では動画も観られるようになったが、それでも現実世界の圧倒的な情報量の「切り抜き」にすぎない。
「ハンチバック」は、「ミオチュブラー・ミオパチー」という先天性の難病を患った四十三歳の女性、井沢釈華の日常と性的冒険を描いた小説である。自身も同じ病を患っている作者が実体験をもとに書き起こす日常描写は立体的で、それだけでも一読の価値があるくらいのものだ。
釈華はネット上の文章を読み漁って、行ったこともないハプニングバーの体験記をいかにもそれっぽい文体で書く。R18のTL小説も書いている。コミケとか二次創作文化も知っているし、「なろう系」も知っているし、なんならうっすら馬鹿にしてもいる。釈華の実生活は性からも遠く、コミケからも遠い。だがそれらの情報はネット上にあふれるほど存在している。それらを読みこんで知ったように書く文章から浮かび上がってくる釈華の像は、いわゆる「ヒキニート」的ステレオタイプのそれに酷似している。
ヒキニートとは、「引きこもりニート」の略である。まず付言しておくと、釈華はニートではない。「某有名私大の通信課程」の学生という設定だ。また、作者も早稲田大学の通信課程を修了している。釈華のヒキニート性を暴論ではない形で語るために必要な補助線として、釈華の性的冒険――「妊娠と中絶がしてみたい」――に参加することになる、釈華のネトストの田中についての描写を引用したい。
> 「弱者が無理しなくてもいいんじゃないですか。金持ってるからって」
> (中略)
> 「俺も弱者ですけど。だから面倒増やさないでください」
> うわあ、やべえ奴だ。と、とっさに思った。弱者男性を自認してる。もしかしたらインセルじゃん。こわ。(中略)弱者でない人間同士ならばシナリオには全然別のセリフが並ぶだろう。――それどうやって使うの?(中略)ステマみたいな嘘寒い会話しか思いつかない。
> 嘘寒かろうが、何だろうが、会話することに意義を見出すのがコミュニケーション強者だ。知ってる。
引用部分後半で現れるコロケーションがすでにかなりインターネット的であることは指摘しておかなければならない。「インセル」とか、「コミュニケーション強者」(コミュ強)とかいった表現は現代インターネットにおいて幅広く流通した語彙だが、おそらく四〇代後半以降の世代ともなると目新しさを感じ、直感的には若者っぽい表現と感じられると思う。もちろん、「コミュ強」の対義語は「コミュ障」であり、これは「コミュニケーション障害者」の短縮語であることが推定できる。この部分を、「コミュ障」という言葉を使って語ることもできたはずだしそっちの方が自然だ。だが、「コミュ障」は若者が自他に対する嘲笑を含んでカジュアルに使われるネットスラングだ。ある種の「障害」の問題がこの作品の主題である以上、ここで軽々しく用いるには相応しくない。そういった判断を、語り手の釈華が、あるいは作者・市川沙央がしたことが、今年でインターネット歴二〇年になった私にはありありとわかる。わかってしまうのだ。
ところで「コミュ強」の対義語が「コミュ弱」ではなく「コミュ障」なのは奇妙だ。系譜をひもとくまでもなく、先に生まれたのは「コミュ障」という言葉だと私は知っている。そして事後的に、そうではない強者(言ってみれば「コミュニケーション健常者」)を指す言葉として「コミュ強」が発生した。
似たようなインターネットスラングに、「ギリ健」という言葉がある。「ギリギリ健常者」の略で、これも自他問わず嘲笑を含んで用いられる言葉だ。そうした「障害者」をめぐる語彙が好んで流通される裏にはつねに、「発話者/対象はほんとうは健常者である」という冷たい暗黙の前提が横たわっている。
「苛立ちや蔑みというものは、遥か遠く離れたものには向かないものだ」。この一文は「ハンチバック」本文からの引用だが、現代インターネットにどっぷり使った私たちには、この内容を広く流通しネットミームとなったある漫画の一節にたやすくパラフレーズできる。つまり「争いは、同じレベルのもの同士でしか発生しない」だ。
健常者、あるいは強者の世界において行われるマウントバトルが「タワマン」とか「子どもの成績」などのポジティブな事実の積み重ねによって行われるのだとしたら、弱者の争いはネガティブなレッテルの貼りつけ合いだ。引用箇所で行われているのがまさにそれで、先手の田中は「無理してる弱者」「金持ってるだけの弱者」というレッテルを釈華に貼る。釈華も応戦して、口には出さないものの「弱者男性を自認している痛いやつ」「インセル」と貼り返す。一見、SNSで何千万回と繰り返された非生産的なやりとりに見える。
だが、私にとって重要なのは、田中が釈華を「同じレベルのもの」とみなし攻撃を行なっている点だ。それは、先述したような、インターネットにありふれた障害者に対する冷たい非存在化とは正反対の振る舞いだ。田中が行った「金持ってるだけの弱者」というレッテル貼りは、反転して田中自身が「金を持っていない弱者」であることを自然浮かび上がらせる。釈華のネトストでもある田中はあらかじめ、釈華が「妊娠と中絶がしてみたい」とツイートしていたという弱みも握っている。こうして、お互いが弱みを握りあう、ある種理想的とも言える共犯関係が釈華と田中の間で成立した。
話を釈華のヒキニート性に戻そう。釈華はその半生のほとんどを入院生活とグループホームで過ごしてきた。一般的なヒキニートのイメージは、なんかサボっている人、という印象が強いかもしれない。だが、自分を守るためには引きこもるしかなかった人たちもいる。田中に貼られたレッテルの一つである、「不本位な禁欲主義者」を意味する「インセル」をもじっていえば、彼らは「不本意な引きこもり」である。その理由にはいじめや病気、家庭の事情などさまざまなものがあるから一概には言えないが、少なくともその「不本意な引きこもり」という乱暴なグループ化のうちでは、絶賛引きこもり中である私の友人も、「ハンチバック」の釈華も、ある種の当事者性に基づいた結託が可能になる。私は「ハンチバック」の田中と釈華の共犯関係に、社会的弱者どうしの連帯の可能性を見出さずにはいられない。ここにこそ、弱者を強者として裏返すような力の源泉を感じてしまうのだ。
そしてインターネットが、彼ら「不本意な引きこもり」たちが外界に安全にアクセスするための強力なツールとして機能してきたことは疑い得ない事実だ。言ってみれば、釈華はインターネットという伏魔殿に潜む魔物の一体であり、また私という読者も、書き手にとってみれば魔物だ。相手の姿の見えない暗がりで、お互いを警戒しながらじりじりと距離を詰めていく。小学六年生のころからこの魔窟に親しんだ私にとって、それはもはや日常だ。おそらく釈華にとっても同じだろう。距離を詰めながら、絶対に相容れない他者か、それとも話の通じる友人か、自分を攻撃する敵か、読みながら、書きながら推定していく。読めば読むほど、あるいは書けば書くほど、そのコミュニケーションは複雑をきわめるが、あなたがほどよく幸運なら、ふと気づくときが来る。私たちって、もう他人とは言えないよね。あなたは自分の中にその存在を許している。それはもはや魔ではない。リアルの世界のどこにも見つけられなかった、心理的安全性を感じられる空間が驚きとともに発生し、束の間の安息をたのしむ。そして唐突に終わる。いつの間にか壊れ、狂い、暴力的な拒絶感が訪れる。あるいはそれを予期したかのように、しかし何の予兆もなく消滅する。ろうそくの火は消えて、孤独になり、何事もなかったかのように眠るが、もう二度と会うことはないとわかっている。
井沢釈華にとって、インターネット上の健常者によって書かれた無数の文章がすでに外界へのアクセスルートを示している。私のような頭でっかちの怪物たちが毎夜インターネットを徘徊するのはまさにそのためだ。そしてそれとまったく同じように、「ハンチバック」は市川沙央の世界へあなたを誘っている。「あらゆる活字には書き手がいる」からだ。「ハンチバック」にも、今あなたが読んでいるこの文章にも。なかよくなれるかな。私は父のお古のPCを借りてインターネットに初めてふれ、掲示板文化にふれたあの時を思い出す。Windows Meが本当にクソOSだったことはたぶん一生忘れないだろう。