# はじめて考えるときのように ###### tags: `古堅` ## メモ - notion p30 「考える」っていうのは、耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。だから、考えている間中、その人は考えていない人と同じように行動していい。いろんなことをして、いろんなものを見て、いろんなことを感じて、いろんな思いがよぎる。ただ違うのは一点、「あ、これだ!」という声にその人は耳を澄ましている。 p.38 じっさい、考える人の不幸はそこにある。お風呂をお風呂だけで、食事を食事だけで楽しめなくなる。見るもの触れるものが、その問題に関係した顔つきになってくる。自分のまわりのものごとが問題に彩られてしまう。 p.69 型破りがあるためには、まず型ができていなければならない。 p.73 問題の発生はそれを問題たらしめる秩序がそこに見てとられていることと結びついている。 p.88 計算は一本道だ。それに対して考えることは分かれ道に立つこと。あるいは道が見えない藪の中に立つことだ。 論理もやっぱり一本道だ。だから、論理の道筋をたどることは考えることとは違う。 p.94 論理は前提から結論を導く道筋にかかわる。 前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別。 p.95 論理学の本なんかで条件文の説明を読むと、条件文というのは、その条件が満たされていないときのことは何も主張していない。 p.134 現実べったりの反応から一歩身を引いて、「もしかして」の世界に入りこんだ。硬いことばで言わせてもらえば、現実性から可能性の世界に入っていったことを意味している。 p.141 論理的に不可能なことは、夢に見ることもできない。 p.150 否定というのは、可能性と現実のギャップに生じる。だから、現実ベッタリで可能性の世界をもたないものには否定ということもない。すべては「あるがまま」。 p.174 常識というのは、つねに、「どういうひとたちにとって」とか「どういう活動に関して」という限定がついたものになっている。「常識」というひとつのものがあるわけじゃない。むしろ「常識たち」といういくつものものがある。それを場面に応じて、課題や問題に応じて使い分けている。 p.183 生まれて死ぬまでのぜんぶが夢かもしれないって考えることはできない。 p.186 常識を疑うということは、だから、常識を投げ捨てるということではない。かならずなんらかの常識を踏まえていないと、論理の神様よろしく身動きとれなくなってしまう。常識を踏まえつつ、自分の立っているそこを絶対視しないこと。 - 反証可能性 - アウフへーべん p.206 自分が常識と思っていたこと、そうして見えない枠として自分をしばっていたこと、それを共有しないひとが現れる。