# 学び「この世界で働くということ」 ## 序文・序章 #### 序文概要 この本は仕事に聖書をどのように適用できるのか、信仰が働き方にどのように影響を与えるべきかという疑問の解決を助けてくれる本である。 *Katherine.L.Alsdorf* は1990年代のITバブルの中、ニューヨーク、シリコンバレーなどのハイテク企業の役員を務めながら、同時に「神に用いられる」という意識をどのように仕事で実践したらよいか、ということを模索してきた。 彼女は数億ドルの投資を受ける企業の役員というプレッシャーの毎日の中のどこに福音を取り入れればよいかを考えて働いたが、1年半のハードワークの末、会社は倒産してしまった。神に対する疑問や抗議の思いが広がった。 しかし、会社を閉める当日、従業員が自発的に会社に集まって、これまでの仕事の成果を喜び、お互いをたたえあうためのパーティーを計画していた。会社としては残念な結果になったが、自分の仕事や同僚との関係に喜びを見出せたこの組織のことを社員はたたえていた。 人々がいやされ、新しくされ、回復する。という神の御業をここで目にした。 その後、彼女はティムケラーが主任牧師をつとめるリディーマー教会で、ビジネスマン伝道のため、職場や仕事で、福音がもたらす希望と真理を実践するためにはどうすればいいのか。という疑問に苦しむ人々を手助けする機会を得た。 この本は神・イエス・聖霊についての考え方が書いてある。社会・文化・歴史の中で、特に仕事の中で、それぞれが働く組織の中で、どのようにして働くのか。これらの質問に対する答えは「神について」「神と人との関係」「神の計画」「福音」という基本的な神学から見つけることができるはずだ。 #### 序章概要 `難しいことがたくさん書いてあって難しいので気が向いたらまとめる` ## 第1章 神はどのような思いで仕事をデザインなさったか 1章のトピック 1. 初めに仕事があった 2. 神が定められた仕事のかたち 3. 仕事の美しさ 4. 労働と自由 5. あらゆる労働には限界がある ### 初めに仕事があった >こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(中略)神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させまたそこを守らせた。(創世記2:1-3,15) 旧約聖書に出てくる、「労働」をあらわす言葉は2種類あり、一つが単純な作業のような熟練の技を必要としないもの、もう一つが職人や芸術家が行うような熟練の技が必要なものを意味している。 天地創造の箇所で用いられている「わざ」は後者の労働を現しており、聖書はその冒頭で神が行った仕事について語っている。つまり仕事というのはそれほど重要で基本的なことということを聖書は語っている。 仕事とは、神による秩序立った天地創造であり、(地上の管理として)人間に与えられた、人の生きる意味と関連づけられている価値観である。(後述されるが「生きる意味=仕事」という意味ではない) 仕事とは、「偉大な神ご自身にふさわしくないもの」「人の罪によって導入された必要悪」というものではなく、天地の始まりから神は働いておられ、また人間が従事すべく作られたものである。 **仕事とは、罪に対するペナルティとして与えられたものではなく、神ご自身も行い、神から人に与えられたもの** ### 神が定められた仕事のかたち >神はおつくりになったすべての物を見られた。見よ。それは非常に良かった(創世記1:31) 神はご自身の仕事を楽しんでおられた。実際に、神は天地創造の後に一息入れて、ご自分のなした仕事を「すばらしかった」と振り返った。 人が自分が作った作品、成した仕事を振り返り満足するのと同様に、神にとっても仕事とは苦痛な作業ではなく、楽しむものであった。 神は天地創造という仕事をした後も、地を水で潤し、耕し、人のために園を作られた。そして最終的に、神は自分で働くだけでなく、自分の仕事を引き継ぐようにと人間に命じた。```地を従えよ```という言葉は、神が想像されたものはすべてよかったものの、そこにはまだ発展の余地があったと示している。人間が仕事を通し、その未開の可能性を切り拓くために、神はそのような余地を残された。 **仕事とは、神ご自身が楽しみ、人が神がから引き継いだもの。また、楽しむことができるように発展の余地も残されている** ### 仕事の美しさ >私の父は今に至るまで働いておられます。ですから私も働いているのです(ヨハネ5:17) 人間は神の似姿として作られており、神が働いて休んだように、人も労働と休息のリズムの中で生きている。精神的・肉体的・霊的に充実した人生を送るためには仕事が重要である。 また、仕事は、自分がどんな人間であるかを見出す方法の一つでもある。自分のアイデンティティーをなす主な要素である才能や能力の多くは仕事を通して見つけられるからである。 **仕事とは、単に生きるためだけではなく、生きるためそして人生を謳歌するために必要だと聖書は教えている** ### 労働と自由 >六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない(出エジプト記20:9) 自由とは、単純に「制限がないこと」ではなく、人や物事の性質に沿った正しい制限を見出すことである。前述したように、神が造った人のデザインの中には労働が組み込まれているので、その性質に沿った行い、制限をすることが自由である。 聖書にある神の教えには人間のあるべき姿が描かれている。だからその教えに従うことで得るのは不自由ではなく、自由である。 **神は人を働くものとしてデザインし、働くことを求めている。しかしこれは人に重荷を負わせることではなく、自由を与えるためである** ### あらゆる労働には限界がある >神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 神が人を働くものとしてデザインされたとはいえ、神ご自身が労働の後に休まれたことは重要なポイントである。 仕事は不幸なものであり人生の意味は仕事以外のところ(余暇や家族など)にのみ見いだせるものではなく、また逆に、仕事だけが唯一意味のあることで休息はあくまで仕事のための充電というものではない。 人生の意味を仕事以外の余暇や、仕事そのものに見出しそれに依存するのであればそれは偶像を作り出すことになる。人生において最も重要なものは、神と人間の関係である。 仕事は人生に目的を与える要素の一つだが、しかしそれは神のもとに正しく役割を果たさなければならない。体を回復させ、神を礼拝し、神が造ったこの世界を楽しむ時間を受け取るために、定期的に仕事を休まなければならない。 **人間は仕事をするために作られ、また仕事によって自由を得る。しかし最も重要なのは人と神との関係であり、それを感じることができるように休息(余暇・仕事以外の時間)を定期的にとる必要がある** ## 第2章 仕事の品格 2章のトピック 1. 仕事-品位のない単なる必要 2. 仕事-人間の尊厳の証 3. 物質社会も重要 ### 仕事とは品位のない単なる必要 >神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが海の魚、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26-27) 2章では、古代ギリシアの哲学の視点でとらえる仕事観を例に、聖書が教える価値観との対比を通して聖書がとらえる仕事観について解説している。 古代ギリシアには、プラトンをはじめとした「(瞑想などによって)物質世界とのかかわりを減らし、神の世界に近づくことがより良い人生である」という思想から、「労働をせずに暮らし、物質世界を離れることがより良い人生」、「頭脳労働は肉体労働よりも高潔」という考えがあった。このような考え方は現代の社会でも以下のような価値観として影響を与えている。 - 「仕事は必要悪」 - 「低い賃金は、その人の品位を下げる(人の品位は賃金で決まる)」 このような価値観によって、我々は「家族を養いつつ、つまらない仕事を誰かにやらせることができるくらい稼げる仕事」こそが"よい仕事"と考えたり、品位(賃金)を高めるために自分に合わない仕事を選んだりしている。 現代でサービス業などに従事する人を見下すような考えかたは、このような思想が背景にある。 ### 仕事とは人間の尊厳の証 > 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28) 一方で、「すべての仕事は、人間に品格があることの証拠である」というのが聖書の見解である。 なぜならば、創世記にて、植物や動物が単に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」といわれいるだけに対して、人間には「従わせ」「統治せよ」という仕事が明確に与えられいる。 ギリシアでは、単純労働は人間を動物に貶めるとことだと考えていたが、聖書に基づくならば、どのような仕事でもそれは人間と動物を区別し、尊厳を持つものに高めてくれるのが仕事であると考えられる。 **古代から現代に至るまで仕事内容で人の品位や格付けがなされてきたが、仕事ははじめに神が行い人に与えたものであるため、内容にかかわらず仕事そのものが人に尊厳や品位をもたらす** ### 物質社会も重要 > もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が宮古の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともし火の光も太陽の光もいらない。彼らはよよ限りなく王として納める。(ヨハネの黙示録22:3-5) 古代ギリシ人にとって、死は肉体的、物理的生活という監獄から解き放って高尚な次元に連れて行ってくれるものとしてとらえており、物質社会は仮設・死後の世界よりも劣るもの。としてとらえられていた。 それに対し、聖書では明確に死を敵とみなしており、人として神が受肉したこと、復活したことを鑑みればキリスト教はとても「物質主義」であり、何より神が創造された世界は美しく(創世記)そして永遠に存在する(黙示録)と書かれていることから、キリスト教にとって物質社会は天国に行くまでに一時的に過ごす場所ではなく、とても重要ですばらしいものである。 **聖書では、霊的なものだけでなく、神が造った物質的なものも美しく重要だと教えている。そのため、人々に福音を伝えるような仕事と、掃除や草刈りのような仕事には品位の差はなく、どちらもともに重要な仕事である** ## 第3章 「育てる」という仕事 3章のトピック 1. 地をみたせ、地を従えよ 2. 神とともに作る社会 3. 全ての労働は社会を作り出す ### 地をみたせ、地を従えよ > 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべて絵の生き物を支配せよ」(創世記1:28) 神は創世記で、アダムとエバだけを創造し(同時に多くの人間を創造できたのにそれをせずに)、「生めよ、ふえよ」といったことから、単純に種としての数を増やすのではなく、人が自ら人を増やし、社会を構築させ発展させることを神は望んでおられた。 また、神はすべてが完成され整った状態で世界を作られたのではなく、はじめは「茫漠」としていた状態から空と海を分け、光と闇を分け、空白であった所に天地を創造され、地上には様々な動植物、天には様々な天体を作ってその空白を埋められた。 「生めよ」「地を従えよ」と命じたことから、神が天地を作られたのと同じように、子孫や社会、あらゆる創造物でこの地を満たし、治めることを神は望んでおられる。 **神は、他の動植物と異なり人間が人の力で生み増やし、社会を構築することを望んでおられた。また、神が天地を創造されたのと同じように、人間がこの世界を区別し、創造し、管理することを命じておられる** ### 神とともに作る社会 > 神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来れられた。人がそれをなんと呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。 神はこの世界を作られたが、それを完全に完成させることはせずに、その管理の仕事を人間に引き継がれた。この仕事は単に神が造られた世界を維持して保つのではない。 神が造られた土と種をもって農作物を作ること、神が造られた音を秩序をもって並べ替え音楽を作ること、神が造られた科学的な現象を制御して技術を発展させること。このように神が残していった余白を秩序をもって埋めることが、神が人間に与えられた仕事である。 **神が造られた動物を人間に名づけさせたように、神は一人ですべての仕事をせずに人に仕事を与えられた。このように人間に与えられた仕事は、神が造られたものを磨き、調え、秩序を与え、神が造られた世界を神と共に作ることである** ### 全ての労働は社会を作り出す ここでは、2つの仕事を例に、それがどのように社会を作り出しているかを教えている。 - 投資銀行 神学校の校長がN.Yの銀行員に創世記の話をした。 神を投資銀行の行員と考えてみた時、神はご自身の資産を最大限に活用し、新しい命に満ちた世界を作られた。同じように、あなたが(この社会の)何かの必要に気が付き、その必要を満たすために(人間の生活がよりよくなるために)、リスクを冒して才能や資源に投資をするのであれば、その行いは神のわざと同じようなことです。 投資は単なる金儲けではなく、社会を構築し、神が造られた世界を育てていく方法の一つととらえることができる。 - 物理学教授 物理学の教授は、その研究内容だけでなく自分の授業や研究室の文化を作ることにおいて、できることが多くあるという。 実験結果に一喜一憂する生徒に、その結果の受け止め方を教えること。 仕事と休みのバランスをうまく取り、仕事のしかたのよい模範となること。 子供を職場に連れてくることで、家庭は仕事の妨げになるのではなく研究職は親としての人生の一部である。という意識を作り上げること。 学生を自宅に招くことで、学生を研究の生産性を上げるための存在ではなく、人間として学生を大切にしているということを示すこと。 自分の研究室という小さな規模であるが、この世界を良いものとするための力は確かに存在する。 **神が行った仕事のスタイルを踏襲するのであれば、インパクトのある仕事、日常的な仕事、どのような仕事にも尊厳があり、意義がある。** ## 第4章 奉仕としての仕事 https://docs.google.com/document/d/11lkydieMo6qzeCOlQRSHYssxc92Op5iKydDs9GY4E4Q/edit ## 第5章 虚しいものとなった仕事 なぜ仕事は虚しいものとなってしまったのか → 罪のため 神から離れたことにより、仕事の価値は下げられ苦痛を伴うものとなってしまった 虚しいものとなってしまった仕事にも、神は喜びを備えていてくださる https://drive.google.com/file/d/1iFyVo8pUZeFSW38HYATXMWu_ntkjZlC3/view?usp=sharing ## 第6章 仕事は無意味 6章のトピック 1. 日の下で 2. 仕事の無意味さ 3. 仕事で感じる疎外感 4. 選択の危機 5. 片手に安楽を満たす ### 日の下で > 私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。(伝道者2:17) 罪が入ってきたこの世界では仕事はむなしいものとなるだけでなく、無意味なものにもなりうる。 仕事において、理想を実現できなかった人はもちろん、実現し成功を収めてもなお仕事に満足できず、達成感を得られない人がいる。これはなぜなのか、伝道者の書から考える。 伝道者の書は劇中劇のように、書の中に架空の人物を設定しその人物が自伝を語る、入れ子形式のような文学形式をとっている。架空の人物の人生はケーススタディとして語られ、そこから得られる教訓や見解で締めくくるスタイルになっている。 登場人物である哲学者(コヘレト)はこの物質世界の中で得られる成功や喜び、知識などを通して自分の人生に意味を与えようと試みるが、それらはことごとく失敗する。なぜならば神やキリストを抜きにしては、仕事・恋愛・快楽・知識などは人生の基盤としてはもろく、いつかは失われてしまうからである。 **目的・意味のある生活を送るためには、抽象的な信仰だけでなく実存的信頼(実際に神を感じさせてくれるような信仰)が必要と伝道の書は主張している。** ### 仕事の無意味さ > 「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。後継者が知恵ある物か、愚か者か、誰にわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、虚しい。私は日の下で骨折った一切の労苦を思い返して絶望した」(伝道者の書2:18-20) 伝道の書のなかで哲学者は3つのアプローチから人生の意味を探っている。 一つは学習と知識を通して、一つは喜びや享楽を通して。しかしこれらからは意味を得ることはできなかった。最後に、仕事を通して自分が感じている人生の虚しさをなくそうとしている。 他人から認められること、業界を変革すること、社会全体をよくすることなど、人は自分の仕事を通して何かしらの影響を与えたいと思っている。その影響が大きければ大きいほど、長く続けば続くほど満足感を得られ、ここに仕事の意味がある。 しかし哲学者は、たとえ自分が望むすべての成功を手にしても無意味だ。最終的には永遠に続く成功など存在しないからだ、と主張する。 **私たちが世界を良くするために周りに良い影響を与えても、それは無意味である。 歴史に残るような偉大な実績を残しても、記憶は廃れ、発明は塵に帰り、全ての成果は失われてしまうためである。** ### 仕事で感じる疎外感 > 「私は再び、日の下で空しいことを見た。 > 一人ぼっちで仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして『私は誰のために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか』とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」(伝道者の書4:7-8) 仕事は無意味さだけでなく、疎外感をも感じさせてしまう。それは以下の2つから来ている。 - 仕事の無意味さ 「アマデウス」に出てくるサリエリのように、仕事の無意味さにとらわれ、十分な成功を収めていたにもかかわらずそれに満足できず、理想に到達できなかったと絶望し、神が自分を祝福してくれていないと感じるのなら、その絶望感はその人の心を休ませることもなく、神からも他人からも孤立させてしまう。 - 社会の中にある不公平感と”個”の喪失感 現代の労働は効率のために高度に細分化されていること、またそれによって低所得労働に閉じ込められてしまう者もいる。これらは労働者から仕事の成果・報酬を見えなくさせてしまい、仕事の充足感などから疎外させてしまう。 また、たとえ大きい充実感のために仕事にのめりこんだとしても、今度はそれによって家族・友人などの人々を顧みることがなくなり、疎外感を感じるようになる。 **現代の社会構造は仕事の成果を見えにくくする性質があり、また自らの名声や理想のために働くならば仕事は無意味なものになってしまう。** ### 選択の危機 仕事の満足感の喪失、無意味さは個人と職業のミスマッチによっても発生しているということを説明している。 現代では仕事の種類が多く、それゆえに高い収入・わかりやすい社会的意義・格好いい要素のある、ステータスのある仕事が注目を集めている。その結果、職業とのミスマッチが発生し、仕事に対して満足感や意味を得ることができなくなっている。 仕事を選ぶことに関して、聖書はどのような知恵を授けてくれるのか。 - 自分が成功できる仕事 幸いにも選ぶ余地があるならば、自分の才能と力量にあった仕事を選ぶべき。また、仕事のために自分自身を磨くことができるなら、それは神に召された仕事に自分自身を捧げることとなる。(つまり満足感を得られる) - 他の人に利益をもたらす仕事 仕事の目的は世界に仕えることなので、自分の仕事、また所属する組織や業界が人間の良い面を引き出すかどうかを考える必要がある。ただし、これに対する答えは個人差があるため、自分の仕事が社会にどのように貢献しているかについて、自分なりの明確な視点から努力して理解する必要がある。 - 自らが使えることができる仕事 創世記で神が動植物を自ら育てているだけでなく、それを育てる人々も造り出している。同じように「神が創造された世界をよりよくするため」という目的のために自分自身やその周りだけでなく、自分が携わる業界・仕事のために仕えることができる仕事がよい。 **他の人々に仕えるならば、感謝や褒美を期待するようになるだろう。しかし仕事そのものに仕えるならばその仕事の完成を目にすることができる。仕事につかえることは純粋な愛のわざである。** ### 片手に安楽を満たす 仕事は疎外感を与える無意味なものである。そして仕事は人に与えられた分であり、仕事からもその労苦からも逃れることができない。ではその中でどのようにして満足を得ることができるだろうか。 哲学者は「全ての労苦の中に幸せを見いだすこともまた神の賜物である」と答えている。 > 「愚かなものは、手をこまねいて、自分の肉を食べる。片手に安楽をみたすことは、両手に労苦をみたして風を追うのにまさる。」(伝道者の書4:5-6) 仕事をいっさい行わず平穏だけで過ごすこと、完全に仕事に打ち込んでいるスタイルでは仕事への満足感を得ることができない。人生の充足には仕事と平穏の両方が必要である。 このようなバランスの良い生活を送るためには、人が収入や名声を自らの救いとしてしまう性質を認識しつつ執着を断ち切り、世界に利益を与え自らが使えることができるような仕事に身を置くことである。例えそれによって収入や財産が減少したとしても、「片手に安楽をみたす」ことの方がよい。 しかし最も重要なこととして、キリストには究極の平穏があり、キリストの福音がなければ仕事につかえるための愛がなく、仕事の喜びや満足感を得ることができない。 **仕事から人生の意味を見出すならば、仕事のために自らを磨き上げ、正しい場所に身を置き、同時に平穏が必要である。** ## 第7章 自己中心的になった労働 7章のトピック 1. 名声を得る 2. 「宮」にいるという力 3. 「宮の中」にある危険 4. 宮の素晴らしさの中に住む ## 第8章 仕事が明らかにする自分の偶像 8章のトピック 1. 社会に浸透した偶像(アイドル)とその力 2. 社会および集団における偶像 3. 伝統的文化における偶像 4. 近代文化における偶像 5. ポストモダン文化における偶像 6. 仕事に希望を見出す ## 第9章 仕事のための新たな物語 9章のトピック 1. この世界の仕組みを理解する 2. 物語と世界観 3. 福音とそれ以外の世界観 4. 福音とビジネス 5. 福音とジャーナリズム 6. 福音と高等教育 7. 福音と芸術 8. 福音と医療 9. キリスト教の世界観はすべての仕事に影響している ## 第10章 仕事に対する新たなコンセプト 10章のトピック 1. 神の働きにはすべての人がかかわっている 2. 一般恩寵にあるバランス 3. 一般恩寵の自由 4. 大衆文化に関する様々な意見 5. 二元性 対 統合性 ## 第11章 仕事のための新しい羅針盤 11章のトピック 1. 倫理の限界 2. この世とは異なる価値観 3. 人間性をどう考えるかどこに手引きを求めるか 4. この世とは異なる観衆 5. 新しい羅針盤が示す方向 6. 召された仕事におけるクリスチャン倫理 ## 第12章 仕事のための新たな力 12章のトピック 1. 仕事ののもとにある仕事 2. 真の情熱が持つ力 3. 深い休息が持つ力 4. 休息のもとにある休息 ### 仕事のもとにある仕事 > 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23) なんのために仕事をするべきか、仕事がもたらす偶像について説明している。 - 仕事に使われるということ 何かをすることによって、仕事をすることによって満足感や達成感を得ているという人は、自分の生産性や成功、あるいはお金を稼ぐことによって自分の価値や安心感、存在意義を見出している。(仕事の中に自分の偶像を見出している) しかしそのようなスタイルではやがて情熱が失われ、仕事はやがてただのつまらない作業となる。このような状態で仕事に臨んでいるとき、あなたは「仕事に使われている、仕事にとらわれている」状態になり、仕事はつらいものになってしまう。 最初に使徒たちがイエスから「世界を贖いだす」という大きなプロジェクトに召されたとき、使徒たちはこれまで経験したことのないほど大漁であり、経済的に最も成功しているタイミングであった。にもかかわらず、網を手放しイエスについていった。また、使徒となった後も時々によって元の仕事に戻ったりしていた。 神さまからの召し、神さまの計画のために仕事をするとき、お金ややりがいなど仕事の偶像から開放され、むしろ仕事の中に新たな自由を得ることができる。 - 仕事の偶像から解放されるために 自分の安心感や仕事の達成感、お金などの仕事の偶像から解放されるにはどうしたらいいのか? 列王記Ⅱに出てくるナアマンは、ツァラトがいやされたあとエリシャに「私の王様が、別の神を礼拝するときに一緒にいなければいけません。そのときに別の神にひれ伏さなければなりませんが、どうかそのことを主が許してくださいますように」とお願いして、「国に仕えるが、国を礼拝することはしない」というスタイルで働くことをゆるされた。 ナアマンは神に出会い、神を礼拝することによって仕事の偶像から解放される力を得た。 **福音は私たちに仕事以外の価値観を与え、私たちはそれによって新たに仕事に対する情熱や休息を得ることができる** ### 真の情熱が持つ力 > 兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい(ローマ12:1) ここでは、主に使える、より良い仕事をするために必要な真の情熱とはどのようなものか説明している。 - 無関心からくる情熱 情熱というものは、従来より優れた力を発揮させ大きなエネルギー海、仕事を突き動かす源泉になる。しかしその情熱の種類やその源は、様々なものがあるのでよく注意する必要がある。 セイヤーズは、その著書の中で「無関心とは、『それは、自分にとってどんな利益があるのか』という費用対効果に基づいて生きるということ。」といっている。 無関心は怠惰な人と異なりせかせかと活動しているので、情熱的に見えるが、その動力は自分の"必要・快適・利益"に対しての情熱から出ているため、ある種の偶像礼拝といえる。 - 真の情熱とは 聖書では、情熱(Passion)の真の定義は、キリストの受難(Christ's Passion)から、「誰かのために自分の自由を犠牲にすること」だとしている。このような真の情熱に基づいた行いとは、どのような行いだろうか? パウロの書いたローマ人への手紙では「あなたがたのからだを、生きた供え物として捧げなさい」と語っている。「生きた供え物」とは、自分の利益については死んで、神のために生きるというリズムの中で行きなさい。ということ。これが神が我々に求めておられる情熱。 **自己中心から生まれる無関心という誤った情熱を抱いて働くのではなく、神の憐れみによって得られる「献身から生まれる情熱」を抱くことによって、神の目に義とされ認められ、愛されている。だから安心して、満たされた心をもって疲れを感じることなく働くことができる** ### 深い休息が持つ力 > 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(出エジプト20:8) - 安息日の意味 仕事と休息は共存的な関係にあり、よりよい仕事のために心身の休息が必要である。 しかし、福音に基づいた深い休息を得るには、聖書における安息日の意味を理解する必要がある。 - 人間のサイクル 天地創造の際に、神が6日間働いて1日休まれたように、仕事と休息のサイクルは人間の性質の一つとしてデザインされている。 - 休むことは、仕事の・物質主義の奴隷からの解放 申命記では、イスラエル民族に対してエジプトの地で奴隷であったこと、そして神によってそこから連れ出されたことを覚えるために安息日を守るように命じている。安息日を守ることは、お金や上司からのプレッシャーなど、物質社会の奴隷状態からの解放を意味している。 - 安息日を守ることは神に対する信頼 神が安息日を決められたのは、神がいまも働き、また休みを取っておられることを我々に教えるため。この世界を動かしているも、家族を養っているのも、職場のプロジェクトを動かしているのも自分ではなく、神である。そのような事実を覚えるために安息日を守る必要がある。(参照 マタイ6:25-34) - 安息日がもたらす利益を得るには 安息日がもたらされる利益を得るために、パウロは「互いの重荷を負いあい、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」といっている。しかし、同時に神にその重荷を委ねなさいとも言っている。 通常、仕事や実際的な問題について神によって支えられる経験はクリスチャンの友人から受ける思いやりや励ましを通して実感できる。 **安息日の意味を理解し、福音による休息を経験するならば、仕事の偶像から解放され、活力を満たし、情熱を新たにすることができる。安息日はエナドリ!** ### 休息のもとにある休息 > すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ11:28-30) - イエスのくびき・荷物 疲れた人をいやすのは、キリストの「くびき」であり「荷」である、といっている。どういうことだろうか?? キリストの最も重要で最も重たい仕事である「贖い」はすでに完了している。そのためいまキリストの負っている荷物は軽い。キリストは高品質な仕事を最速で求める上司や、最高のパフォーマンスをしなければ満足してくれない聴衆のようにプレッシャーをかけることはない。 それゆえキリストのくびき、荷は軽く負いやすい。 - 休息のもとにある休息にいるということ 休息のもとの休息にいるという状態は、キリストが保証してくれた未来に希望を持つということ。 トールキンが「二グルの木の葉」で語ったように、人が人生を通して何かを完全に完了させることはできず満足することもできない。あまりにも大きい神の計画の中で、自分が行っている仕事がどのように役立っているのか、誰の助けになっているのか、その全容を完全に把握して満足することはできない。 しかし、キリストに希望をもって生きるならば、いつの日か(おそらく天国で)その仕事の全容を神が見せてくださり、自分の行った仕事の意味や重要さ、それがどのように実を結んだかを教えてくださる。その時に初めて自分の仕事に満足して報われる。 休息のもとにある休息にいるということは、このような希望に身を寄せて、どのような仕事の中であってもそれを神が与えてくれたものと認めて平安を得ている状態である。だから常に喜びと情熱をもって与えられた仕事に打ち込むことができる。 **キリストが約束してくださった未来に希望を持つならば、仕事の偶像にとらわれることなく真の情熱と休息の中で仕事をすることができる。**
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