# 中古漢語における対立 :::info :pencil2: 編注 以下の論文の和訳である。 - Chao, Yuen Ren 趙元任. (1941). Distinctions within Ancient Chinese. *Harvard Journal of Asiatic Studies* 5(3–4): 203–233. [doi: 10.2307/2717913](https://doi.org/10.2307/2717913) 中古漢語の表記には下記の変更を加えた。 - 有気音の記号「*‘*」は「*ʰ*」に置き換える。 - 平声を「*¹*」、上声を「*²*」、去声を「*³*」で表記する。 また、誤植と思しきものは、特にコメントを付加せずに修正した。 ::: --- Karlgrenによる中古漢語(Ancient Chinese)[^1]の再構は、主要な特徴に関して、中国音韻学のほとんどの研究者に受け入れられ引用されている。本研究の目的は、この再構体系を根本的に見直すことではなく、単語形成要素の対立に着目することで、その特徴を検討することである。議論のために、Karlgrenの再構を以下に整理する。 :spiral_note_pad: **表1: Karlgrenによる中古漢語の頭子音** | | | | | | | | | | | | | :--------- | :--------- | :------- | :------- | :-------- | :-------- | :------- | :----- | :-------- | :------ | :------- | | 唇音 | | 通常 | 幫A *p* | 滂A *pʰ* | 並A *bʰ* | | | 明A *m* | | | | | | ヨード化 | 幫B *pj* | 滂B *pʰj* | 並B *bʰj* | | | 明B *mj* | | | | 歯音 | 破裂音 | | 端 *t* | 透 *tʰ* | 定 *dʰ* | | | | | | | | 流音 | 通常 | | | | | | | 泥 *n* | 來A *l* | | | | ヨード化 | | | | | | | 孃 *nj* | 來B *lj* | | | 歯擦音 | | 精 *ts* | 清 *tsʰ* | 從 *dzʰ* | 心 *s* | 邪 *z* | | | | | 硬口蓋音 | 破裂音 | | 知 *t̑* | 徹 *t̑ʰ* | 澄 *d̑ʰ* | | | | | | | | そり舌音 | | 莊 *tṣ* | 初 *tṣh* | 崇 *dẓ* | 生 *ṣ* | | | | | | | 歯擦音[^2] | | 章 *tś* | 昌 *tśʰ* | 船 *dźʰ* | 書 *ś* | 常 *ź* | 日 *nź* | | | | 牙喉音[^3] | | 通常 | 見A *k* | 溪A *kʰ* | | 曉A *χ* | 匣 *ɣ* | 疑A *ng* | 云 *i̯* | 影 *ꞏ* | | | | ヨード化 | 見B *kj* | 溪B *kʰj* | 群 *gʰj* | 曉B *χj* | | 疑B *ngj* | 以 *j* | 影 *ꞏj* | :spiral_note_pad: **表2: 頭子音と韻の共起分布** | | 一等[^4] | 二等 | 三等α | 三等β | 四等 | | :-------- | :------- | :------- | :-------------- | :--------- | :--------- | | 幫A *p-* | 保 *pâu* | 包 *pau* | | | 閉 *piei* | | 幫B *pj-* | | | 蔽 *pji̯äi* | 非 *pjwe̯i* | | | 端 *t-* | 多 *tâ* | 觰 *ta* | 地 *dʰi* | | 低 *tiei* | | 泥 *n-* | 那 *nâ* | 䋈 *na* | | | 泥 *niei* | | 孃 *nj-* | | 拏 *nja* | 孃 *nji̯ang* | | | | 精 *ts-* | 左 *tsâ* | | 揫 *tsi̯əu* [^5] | | 濟 *tsiei* | | 知 *t̑-* | | 䋾 *t̑a* | 治 *d̑ʰi* | | | | 莊 *tṣ-* | | 渣 *tṣa* | 鄒 *tṣi̯əu* | | | | 章 *tś-* | | | 周 *tśi̯əu* | | | | 見A *k-* | 哥 *kâ* | 加 *ka* | 葉 *i̯äp* | 殜 *i̯ɐp* | 肩 *kien* | | 見B *kj-* | | | 甄 *kji̯än* | 建 *kji̯ɐn* | | :spiral_note_pad: **表3: Karlgrenによる中古漢語の韻(外転)[^6]** | | 一等 | 二等 | 三等α | 三等β | 四等γ | 一等 | 二等 | 三等α | 三等β | 四等γ | | :----- | :----------- | :------- | :-------- | :------------ | :-------- | :-------- | :-------- | :--------- | :--------- | :--------- | | 果, 假 | 歌 *â* | 麻 *a* | 麻 *i̯a* | 歌 *i̯â* | | 戈 *uâ* | 麻 *wa* | | 戈 *i̯uâ* | | | 蟹 | 咍 *ậi* | 皆 *ại* | 祭 *i̯äi* | 廢 *i̯ɐi* [^7] | 齊 *iei* | 灰 *uậi* | 皆 *wại* | 祭 *i̯wäi* | 廢 *i̯wɐi* | 齊 *iwei* | | | 泰 *âi* | 夬 *ai* | | | | 泰 *uâi* | 夬 *wai* | | | | | | | 佳 *ai* | | | | | 佳 *wai* | | | | | 效 | 豪 *âu* | 肴 *au* | 宵 *i̯äu* | | 蕭 *ieu* | | | | | | | 咸 | 覃 *ậm* [^8] | 咸 *ạm* | 鹽 *i̯äm* | 嚴 *i̯ɐm* | 添 *iem* | | | | 凡 *i̯wɐm* | | | | 談 *âm* | 銜 *am* | | | | | | | | | | 山 | 寒 *ân* | 山 *ạn* | 仙 *i̯än* | 元 *i̯ɐn* | 先 *ien* | 桓 *uân* | 山 *wạn* | 仙 *i̯wän* | 元 *i̯wɐn* | 先 *iwen* | | | | 刪 *an* | | | | | 刪 *wan* | | | | | 宕, 江 | 唐 *âng* | 江 *ång* | 陽 *i̯ang* | | | 唐 *wâng* | | 陽 *i̯wang* | | | | 梗 | | | 清 *i̯äng* | | 青 *ieng* | | | 清 *i̯wäng* | | 青 *iweng* | | | | 庚 *ɐng* | 庚 *i̯ɐng* | | | | 庚 *wɐng* | | 庚 *i̯wɐng* | | | | | 耕 *ɛng* | | | | | 耕 *wɛng* | | | | :spiral_note_pad: **表4: Karlgrenによる中古漢語の韻(内転)** | | 一等 | 三等α | 三等β | 一等 | 三等α | 三等β | | :--- | :------- | :------------ | :------- | :-------- | :--------- | :-------- | | 遇 | | | | 模 *uo* | 魚 *i̯wo* | | | | | | | | 虞 *i̯u* | | | 止 | | 脂 *i* | 微 *je̯i* | | 脂 *wi* | 微 *jwe̯i* | | | | 之 *i* | | | | | | | | 支 *ie̯* | | | 支 *wie̯* | | | 流 | 侯 *əu* | 尤 *i̯əu* [^9] | | | | | | 深 | | 侵 *i̯əm* | | | | | | 臻 | 痕 *ən* | 真 *i̯ĕn* | | 魂 *uən* | 諄 *i̯uĕn* | | | | | 臻 *i̯ɛn* | 殷 *i̯ən* | | 諄 *i̯wɛn* | 文 *i̯uən* | | 通 | 登 *əng* | 蒸 *i̯əng* | | 登 *wəng* | 職 *i̯wək* | | | | | | | 東 *ung* | 東 *i̯ung* | | | | | | | 冬 *uong* | 鍾 *i̯wong* | | ## 1. ヨード化頭子音 Karlgrenは反切に基づいて、4つの唇音、2つの歯音の流音、そして8つの牙喉音のうち6つにおいて、通常の頭子音とヨード化された頭子音の区別を設けている。例えば、反切上字(反切の1文字目)に 古, 公, 佳, 過 などが用いられている単語は通常の頭子音 *k-* を持つのに対して、反切上字に 居, 舉, 九, 紀 などが用いられている単語は、ヨード化された頭子音 *kj-* を持つ。しかし、Karlgrenが47種の頭子音を設定したのに対して、同じ根拠に基づいているにもかかわらず、陳澧は自身の著作『切韻考』第2巻において40種の頭子音しか認めていない。これは、Karlgrenが反切上字の間の一般的な傾向に従い、例外的な接触を排除しているのに対して、陳澧はより見た目通りの視点を取り、1, 2度の接触にも基づいてグループを設定しているためである。そのため、Karlgrenが2種類に分割した 明母 *m-*, 來母 *l-*, 見母 *k-*, 溪母 *kʰ-*, 疑母 *ng-*, 曉母 *x-*, 影母 *ꞏ-* について、陳澧は1種類の頭子音しか認めていないものの、これらの頭子音の反切上字が2つのグループに分かれる傾向があることを明確に認めている。 次に、同じ音を指すとされる他の反切上字を詳しく見てみると、これらもグループに分かれる傾向があることが分かる。例えば、心母 *s-* について考察すると、その反切上字の分布は、韻の種類と比較すると次のようになっている。 | 被切字 | 一等 | 四等 | 三等 | | :------- | :--- | :--- | :--- | | 反切上字 | | | | | 一等 | 41 | 10 | | | 四等 | 5 | 6 | 1 | | 三等 | 5 | | 60 | 反切上字の分布は、被切字に対して完全に無作為ではなく、同じ等の韻の単語が使用される傾向があることが分かる。この傾向は特に、三等が一等や四等から分離される際に顕著である。一等の単語のうち5例が三等の反切上字を使用し、三等の単語のうち1例が四等の反切上字を使用しており、三等と他の等との間の異質な反切が合計6例存在する一方で、三等内での同質な反切は60例も存在する。 次に、これを來母 *l-* の状況と比較してみよう。 | 被切字 | 一等 | 二等 | 四等 | 三等 | | :------- | :--- | :--- | :--- | :--- | | 反切上字 | | | | | | 一等 | 55 | 2 | 12 | | | 二等 | | 1 | | | | 四等 | | | 1 | | | 三等 | 1 | 7 | 4 | 66 | Karlgrenの扱いに基づけば、三等の単語が他の等から分離されているのは予想通りであり、三等の単語は他の等の反切上字を持たず、一二四等の単語のうち例外的に三等の反切上字を持つのは12例だけである。正確な数の違いを除けば、先の表で示した心母 *s-* と來母 *l-* の2つの分布データの間に、原理的な違いは見られない。Karlgrenが行っているように通常の *l-* を持つ単語がヨード化された *lj-* で綴られている12例は例外として排除し、來母 *l-* を2種類に分割するのであれば、心母 *s-* についても同様に上の表で示した6例を例外として排除し、2種類に分割することもできるのではないだろうか。実際、來母 *l-* と心母 *s-* の例は決して特殊なものではない。來母 *l-* は、反切が通常厳密とされるところで区別が曖昧となっているパターンを代表しており、心母 *s-* は、反切が通常無関心とされるところでいくらかの区別を示す傾向があるパターンを代表しているのである。この状況に対する私の唯一の合理的な解釈は、反切には純粋な頭子音とヨード化された頭子音との厳密な区別が存在するわけではなく、代わりに、「**頭子音によって程度は異なるが、介音に関して反切上字は下字と一致する傾向がある**」というものである。これは一種の介音の調和である。次に、こうした手法が極端に実行された例を挙げる。 『切韻』からわずか150年ほどしか経っていないある著作[^10]では、明らかに同じ頭子音であるにもかかわらず、韻に応じて異なる反切上字が使用される傾向が明確に現れている。異なる等の単語だけでなく、開口と合口とでも異なる上字が用いられている。このような区別は『切韻』の反切上字には見られない。例えば、次のような例がある[^11]。 | 被切字 | | 反切 | | 出典 | | :----- | :------- | :----- | :----------------- | :--- | | 干 | *kân¹* | 岡安反 | *kâng¹-ꞏân¹* | 162b | | 冠 | *kuân¹* | 古歡反 | *kuo²-χuân¹* | 164b | | 姦 | *kan¹* | 澗顔反 | *kan³-ngan¹* | 160 | | 慣 | *kwan³* | 卦患反 | *kwai³-ɣwan³* | 161 | | 鞬 | *ki̯ɐn¹* | 羯言反 | *ki̯ɐt-ngi̯ɐn¹* | 148 | | 卷 | *ki̯wɐn²* | 厥遠反 | *ki̯wɐt-ji̯wɐn²* | 150 | | 肩 | *kien¹* | 吉煙反 | *kiet-ꞏien¹* [^12] | 153 | | 涓 | *kiwen¹* | 決玄反 | *kiwet-ɣiwen¹* | 156 | これは極めて典型的な例であり、決して例外的なものではない。この言語に対して、反切のセットが8つあるという理由で、*k-*, *k-*, *kj-*, *ki-*, *ku-*, *kw-*, *kjw-*, *kiw-* という8種類の *k* を仮定するのは明らかに不合理である。これらの単語は、反切の記述を容易にするために選ばれたに違いない。『切韻』の時代には、流音の來母 *l-* や心母 *s-* のように区別が緩いものから、軟口蓋破裂音の見母 *k-* のように区別が厳格なものまで、様々な程度の介音の調和が見られ、後の反切作家の流派ではこれが極端な形に発展していったことがわかる。『切韻』では、2種類の唇音がはっきりと区別され、軟口蓋破裂音も比較的よく区別されているものの、歯摩擦音についてはそれほど明確な区別がされていない。また、流音の明母 *m-*, 疑母 *ng-*, 來母 *l-* については、2つに分けられる傾向がある程度観察できるに過ぎない。『切韻』では開口と合口が区別される傾向はほとんど見られないが、唇音の単語が唇音の反切下字で表記される頻度は、ランダムよりもやや高い。この点については後述する。 頭子音を区別する唯一の基準として、反切上字のグループを用いることを諦めるとすれば、他にどのような基準が使用できるだろうか。その答えは「**出現パターン**」である。反切グループや現代方言の読み方を参照するのは出発点にすぎず、単語における頭子音と韻の実際の分布にも注目すべきである。これがさまざまなタイプの頭子音にどのように適用されるのか、表2に示した例で見てみよう。 唇音(幫母 *p-*, 滂母 *pʰ-*, 並母 *bʰ-*, 明母 *m-*)は比較的規則的である。Karlgrenは、一・二・四等韻に対しては純粋な *p-*、三等韻にはヨード化された *pj-* を仮定している。反切上字もこれを裏付けているが、陳澧は明母 *m-* に対しては1種類しか認めていない。いずれにせよ、明母 *m-* や幫母 *p-*, 滂母 *pʰ-*, 並母 *bʰ-* の区別は、韻のタイプによって自動的に決定されるため、弁別的なものではない。つまり、\*pi ⇔ *pji* のような、韻が全く同じで頭子音が *p-* か *pj-* かだけが異なるといった最小対は存在しない。 Karlgrenは、端組 *t-* と知組 *t̑-* を別物として扱っている。これらの出現はほぼ相補的であり、端組 *t-* は一・四等韻と共起し、知組 *t̑-* は二・三等韻と共起する。ほぼ相補的ではあるが、完全ではない。表2には、実際に2組の最小対が示されている。例えば、 | | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :----- | :----- | :----- | :------------------------- | | 1 | 觰 | *ta²* | 都賈切 | *tuo¹-ka²* | | | 䋾 | *t̑a²* | 竹下切 | *t̑i̯uk-ɣa²* | | 2 | 地 | *dʰi³* | 徒四切 | *dʰuo¹-si³* (官話 *dì*) | | | 治 | *d̑ʰi³* | 直利切 | *d̑ʰi̯ək-li³* (官話 *zhì*) | また、第3のペアもある。 | | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :----- | :------ | :----- | :------------- | | 3 | 打 | *tɐng²* | 德冷切 | *tək-lɐng²* | | | 盯 | *t̑ɐng²* | 張梗切 | *t̑i̯ang¹-kɐng²* | 打 と 地 は完全に生きた単語であるため、単に不規則なものとして説明することはできない。地 には、第 *dʰiei³* と同音の 大計 という別の反切があるのは確かである。しかし、これでは官話 *dì* や呉語 *di* は説明できても、広東語では 第 が *tai* であるのに対して 地 が *tei* であることとは一致しない。この 地 *tei* は明らかに止摂(すなわち *-i* タイプの韻)に由来する。打 については、官話では韻が不規則的な *-a* となっているが、呉語の発音は予想通り *tang* である(冷 *lang* 参照)。したがって、これらの対立は本物であり、端組 *t-*, *tʰ-*, *dʰ-* と知組 *t̑-*, *t̑ʰ-*, *d̑ʰ-* は分けておく必要がある。また、觰 *ta* と 䋾 *t̑a* の対立の例の他にも、歯音の頭子音に続く二等韻を持つ非対立的な単語がいくつか存在する。 | 被切字 | | 反切 | | | :----- | :------- | :----- | :------------- | | 貯 | *t̑i̯wo²* | 丁呂切 | *tieng¹-li̯wo²* | | 尵 | *d̑ʰwại¹* | 杜懷切 | *dʰuo²-ɣwại¹* | | 窡 | *t̑wạt* | 丁滑切 | *tieng¹-ɣwạt* | | 鵽 | *t̑wat* | 丁刮切 | *tieng¹-kwat* | | 罩 | *t̑au³* | 都教切 | *tuo¹-kau³* | こうした例は『広韻』よりも『切韻』の写本の断片[^13]に多く見られる[^14]。このうち 貯 と 罩 は非常に一般的な単語であり、現代音ではそれぞれ *chu* と *chao* タイプの音を持つことから、『切韻』以後の早い時期に *t-* から *t̑-* への変化が起きたことを示している。これは後の『切韻』の反切からも裏付けられる。しかし、これらの例は特定の単語における頭子音の分布に関わるものであり、知組 *t̑-*, *t̑ʰ-*, *d̑ʰ-* と端組 *t-*, *tʰ-*, *dʰ-* の区別に関する一般的な問題には影響しない。我々は、この区別が存在することに同意している[^15]。 泥母 *n-* と來母 *l-* については、表2には 䋈 *na* ==:bulb: 奴下切 *nuo¹-ɣa²*== と 拏 *nja* ==:bulb: 女加切 *ńi̯wo²-ka¹*== の対立が見られる。これらの頭子音に関する反切は端母 *t-* と知母 *t̑-* の場合と似ているが、三等韻を持つ単語が *dʰi* というただ1つの形に限定されず、非常に頻繁に見られる点が異なる。しかし、2つの重要な違いがある。1つは、拏 と 䋈 が異なる声調であるため、最小対の例が存在しないことである。もう1つは、どの方言にも泥母 *n-* と來母 *l-* が2種類存在したという痕跡がないことである[^16]。したがって、中古漢語の泥母と來母にはそれぞれ *n-* と *l-* の1種類のみを同定する。この見解は、孃母に分類される反切上字を持つ単語が実際に *n-*, *nj-*, *ń-* のいずれであったかにかかわらず成り立つ。一・四等韻の前ではある1種類の反切上字のみが見られ、三等韻の前では別の種類の反切上字のみが見られ、二等韻の前ではその両方の種類の反切上字が見られるという事実は、介音の調和に向かう一般的な傾向によって説明できる。この傾向とほとんどの方言の証拠から、私は二等韻を持つ泥母や孃母の全ての例を *n-* と表記し、したがって 拏 を *nja* ではなく *na* とする。 精組 *ts-* (歯擦音)に関しては、既に心母 *s-* を示す反切上字が被切字の韻と調和する傾向があることを観察した。Karlgrenはこの系列にさらなる細分化を認めていないので、我々もそれに従う。 莊組 *tṣ-* の行と章組 *tś-* の行は、外転の韻において精組 *ts-* の行と相補的に分布している。そのため、宋代の韻図では、これらは全て「歯音」という見出しのもと同じ行に配置され、歯音(精組)は常に一・四等の欄、そり舌音(莊組)は常に二等の欄、口蓋化歯擦音(章組)は常に三等の欄に現れる[^17]。しかし内転韻では、表2に示されているように、揫 *tsi̯əu¹*, 鄒 *tṣi̯əu¹*, 周 *tśi̯əu¹* のような、同じ韻を持つ最小対が多数見られる。反切によれば、これらは全て同じ韻を持つため、これらの頭子音系列は異なるものと見なさなければならない。さもなければ、Lamasse and Jasmin(1934)のように、同じ尤韻 *-i̯əu* に対して人工的に *-eo*, *-yo*, *-io* という3種類の韻を設定し、走 *co*, 鄒 *ceo*, 周 *cyo*, 揫 *cyo* などと表記することになる。 見組 *k-* は、ヨードの問題に関して最も重要かつ興味深い頭子音系列である。表1と表2を見ると、1つの例外を除いて、韻の分布は唇音と全く同じであることが分かる。 | | 見 | 溪 | 群 | 曉 | 匣 | 疑 | 以 | 云 | 影 | | :----------- | :--- | :---- | :---- | :--- | :--- | :---- | :--- | :--- | :--- | | 一・二・四等 | *k* | *kʰ* | | *χ* | *ɣ* | *ng* | | | *ꞏ* | | 三等 | *kj* | *kʰj* | *gʰj* | *χj* | | *ngj* | *i̯* | *j* | *ꞏj* | 我々は、匣母 *ɣ-* と群母 *gʰj-* を1つの音素として同定し、*ɣ-* を常にヨード化される *gʰ-* に対応する非ヨード化音と見なすことさえできる。この解釈は、匣母 *ɣ-* の起源が上古漢語の有声有気破裂音であることと一致している。しかし、ここで問題となるのは喩母の扱いである。喩母には2つの異なる系列の反切上字が存在し、1つは 以, 羊, 余, 餘, 與, 弋 などが含まれるもの(以母)、もう1つは 于, 王, 雨, 爲, 羽, 云 などが含まれるもの(云母)である。これは見母 *k-*, 溪母 *kʰ-*, 曉母 *χ-*, 疑母 *ng-*、そしておそらく影母 *ꞏ-* も当てはまるが、以母と云母は三等韻にも見られ、同じ韻において最小対を形成している。例えば、 | | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :----- | :------ | :----- | :------------ | | 以母 | 由 | *i̯əu¹* | 以周切 | *i²-tśi̯əu¹* | | 云母 | 尤 | *ji̯əu¹* | 羽求切 | *ji̯u³-gʰi̯əu¹* | この現象は、ヨードを介音の調和に関連する非弁別的要素として扱う私の見解を覆すように思われるだけでなく、Karlgren自身の体系においても、他の非ヨード化頭子音は三等韻と共起しないため異常である。解決策は別の方向にある。 葛毅卿は短い論文(Ku 1932: 100–103)の中で、云母(彼はこれを于母と呼んでいる)は摩擦音 *ɣ-* であったと主張している。彼は複数の証拠を挙げているが、その価値にはかなりばらつきがある。しかし、特に興味深いのは、雄 (および 熊)が『切韻』の断片で 羽隆反 と記されており、後の音韻学者によって匣母として扱われ、Karlgrenによって *ɣi̯ung¹* (現代官話 *xióng*)と再構されていること、また『切韻指掌図』には匣母と喩母の相補分布が明示されていること、そして最も重要な点として、『切韻』の断片に次のような記載があることである。 | 被切字 | | 反切 | | | :----- | :------- | :----- | :--------------------------- | | 雲 | *ji̯uən¹* | 戸分反 | *ɣuo²* + *pi̯uən¹* = *ɣi̯uən¹* | | 越 | *ji̯wɐt* | 戸伐反 | *ɣuo²* + *bʰi̯wɐt* = *ɣi̯wɐt* | 云母の音価に関して、葛毅卿の見解はKarlgrenの見解あまり変わらない。Karlgrenによれば、「*j* はドイツ語 *ja* ような硬口蓋摩擦音」である[^18]。実際には、尤 *ji̯əu* と 由 *i̯əu* を区別するためには、子音性の強い発音が必要である。これが新しくかつ非常に重要な点である。*ji̯əu* の *j* を音素 *ɣ* に対応するヨード化音だと考えれば、以母を単純に独立したヨード化頭子音と見なすことができる。そうすれば、以母が三等韻の前に出現することに何の問題もなくなる。実際には、以母は異常な非ヨード化音であるどころか、正にヨードそのものなのである。前述したように、反切に反映されているこのヨードの問題は、介音の調和に過ぎなかった。*i̯* があるところにはヨードがある。しかしKarlgrenの体系では、以母だけが例外となっていた。ここで、云母を *ɣi̯-*、以母を *i̯-* と解釈することで、例外はもはや例外ではなく、完全に規則的なものとなった。 | | 見 | 溪 | 群 | 曉 | 匣云 | 疑 | 以 | 影 | | :----------- | :--- | :---- | :---- | :--- | :------ | :---- | :--- | :--- | | 一・二・四等 | *k* | *kʰ* | | *χ* | 匣 *ɣ* | *ng* | | *ꞏ* | | 三等 | *ki̯* | *kʰi̯* | *gʰi̯* | *χi̯* | 云 *ɣi̯* | *ngi̯* | *i̯* | *ꞏi̯* | ヨード問題の完全な説明のために、最後にもう1つ明確にすべき点がある。Karlgrenは、摩擦音 *j* に加えて、次のような *i* に似た音を区別している。 1. *-i̯əu* 等 ==:bulb: 三等韻== に見られる非摩擦音の子音的 *i̯* 2. *-ien* 等 ==:bulb: 四等韻== に見られる非成節母音の *i* 3. *-ie̯* 等 ==:bulb: 止摂の韻== に見られる成節母音の *i* この他、*-ai* 等に見られる *i* は末子音であることは言うまでもない。(1)と(2)の間では、ヨードの問題は *-i̯-* の有無で決定できる。しかし、止摂、すなわち脂韻 *-i*, 之韻 *-i*, 支韻 *-ie̯*, 微韻 *-e̯i* で構成される(3)では、これらの *i* はすべて「母音的」であるにもかかわらず、反切では常に *-i̯-* を伴う単語で表記される。そのため、Karlgrenはここに *j* を挿入する必要があると考えたが、他の韻においては *-i̯-* でそれを暗示するにとどめた。例えば、*kji*, *kje̯i* などはそのままだが、*kji̯än* は *ki̯än* と略して表記される。 「介音の調和」という我々の視点から見れば、これははるかに単純である。止摂の韻は他の三等韻と同じように扱うことができる[^19]。我々は経験的に、全ての三等韻は特定の頭子音と特定のパターンで共起することを知っており、それは反切に反映されている。反切上字 居, 舉, 九, 紀 が、子音的な *i̯* の前だけでなく、母音的な *i* (但し *-e̯* の前の *i* を除く)の前にも現れる傾向があると言うことは可能であるが、その規則は恣意的で、明確な音声的意味を持たないように見える。止摂の韻と *-i̯-* を持つ韻には、共通する音声的特徴があるはずである。私は、その特徴が母音の高さ(あるいは緊張性)にあると提案する。全ての三等韻の始まりには高い(狭い) *i* があり、全ての四等韻の始まりには低い(広い) *i* がある。狭い *i* の前では、子音が口蓋化されやすく、したがって狭い *i* を含む反切を持つ傾向(必ずではない)がある。広い *i* の前ではそのような傾向はない。*i̯* を持つ韻のそれは狭い *i* であり、*-ien* タイプの韻のそれは広い *i* である。止摂の *i* は狭い *i* であり、狭い介音 *-i̯-* が主母音と融合しているに過ぎない。もし狭い *i* を *i̯* と書くと、脂韻が *-i̯* と書かれることになり奇妙に見えるかもしれないが、代わりに *ị* のような記号を用いて *kị* や *kịan* と書けば、それほど奇妙ではないだろう。とはいえ、*ki* の *i* は狭い *i* であるということを知っておけば、誤解の余地はない。 さらに2種類のケースを説明する必要がある。まず、龜 *kjwi¹* のような止摂における合口の単語の場合、*-w-* の前に狭い *i* があると仮定し、*ki̯wi¹* とする。同様に、微韻 *-e̯i* の場合、介音 *-i̯-* は主母音と融合する機会がなく、全ての場合に *-i̯-* が存在すると仮定する。例えば、機 *kje̯i¹* は *ki̯ĕi¹* となり、歸 *kjwe̯i¹* は *ki̯wĕi¹* となる。この韻はβ類であり、かつ唇音と喉音の頭子音としか共起しないため、Karlgrenの体系では常に *j* を伴う。我々の扱いは、*j* を *i̯* に置き換えるだけである。興味深いことに、Karlgrenは説明もなく 衣 *ꞏe̯i* を *ꞏje̯i* に変更しているが、これは我々の表記では *ꞏi̯ĕi* となる[^20]。 我々はKarlgrenによる云母の表記を受け入れるが、これを最小対を形成する以母 *i̯-* に対応するものではなく、介音に関して相補分布にある匣母 *ɣ-* に対応するものとする。他のすべてのKarlgrenの非ヨード化・ヨード化頭子音に関しては、ヨードという概念の代わりに介音の調和という概念を用いる。原則として、狭い *i* で始まる韻を持つ単語は、狭い *i* で始まる韻を持つ反切上字で表記される傾向があり、広い *i* で始まる韻を持つ単語は、広い *i* で始まる韻を持つ単語で表記される傾向がある。 さらに単純化することができる。狭い *i* と広い *i* に言及した際、それらの出現条件については触れなかったが、実際には、*i* は修飾されていない *e* の前では常に広い音となり、単独または *e̯* を含む他の母音の前では、常に狭い音となる。したがって、実際には1つの *i* という音素しか存在しないのである(*-ai* の末子音 *-i* を含む;これが狭いものか広いものかを議論する必要はないが、おそらく広い音だっただろう)。 これにより、狭い *i* の前に現れる *ɣ-* の音価を示す贅沢な表記法として *j* を使うことができ、例えば *ɣi̯än* の代わりに *ji̯än* と書くことができるようになった。*kiän*, *kiĕi* と書いても(*a* や *ĕ* が狭い *i* を暗示するため)誤解は生じないが、明示するために *i̯* を使い続けて *ki̯än*, *ki̯e̯i* と書くこともできる。ただしこの *-i̯än* は、文字通りに「*k* + 狭い *i̯* + *än*」と理解すべきで、「*kj* + *i̯* + *än*」の省略表記ではない。Karlgrenの表記には2種類の *j* が存在する。1つは音素 *ɣ* の一部であり、もう1つは単なる *i̯* であるが、開口の脂韻 *-i*, 之韻 *-i*, 支韻 *-ie̯* では *i* と融合している。独立した *j* は存在せず、音素 *i* の一部としても存在しない。 ## 2. 開口と合口 『広韻』では介音 *-u-* に関して調和する傾向はないので、ヨードの場合のように頭子音の区別が問題になることはない。ここでは、中古漢語において何種類の *u* の対立があったかについて考えてみよう。效摂(豪韻 *-âu*, 肴韻 *-au* など)における末子音としての *u* は、蟹摂(泰韻 *-âi*, 夬韻 *-ai* など)における *-i* と同様、問題にはならない。問題なのは、*u* が介音や主母音として現れる場合である。Karlgrenは、韻目や現代方言の発展に基づいて、母音的な *u* と子音的な *w* を区別している。例えば、剛 と 光 は同じ唐韻に属するため、それぞれ *kâng¹* (> 広東語 *koːng*), *kwâng¹* (> 広東語 *kwoːng*) と表記される一方で、干 と 官 はそれぞれ寒韻と桓韻という異なる韻に属するため、それぞれ *kân¹* (> *koːn*), *kuân¹* (> *kuːn* !) と表記される。しかし、韻目に関しても方言に関しても、この区別には問題がある。『切韻』写本の断片では、これらの韻の区別は必ずしも存在しない。例えば、戈韻 *-uâ* が存在せず、『広韻』で戈韻の単語は『切韻』写本の断片では歌韻 *-â* に吸収されている。同様に、桓韻 *-uân* は寒韻 *-ân* に吸収されており、諄韻 *-i̯uĕn* は真韻 *-i̯ĕn* に吸収されている。したがって、*kwang* ⇔ *kang* と *kuân* ⇔ *kân* を異なるものとして扱う理由として、韻目は適切なものとは言えない[^21]。後世の方言の発展に関しては、むしろ証拠が過剰であることが問題である。例えば、干 *kân¹* ⇔ 官 *kuân¹* が *koːn* ⇔ *kuːn* に変化したのと同様に、仙 *si̯än¹* ⇔ 宣 *si̯wän¹* も広東語ではそれぞれ *siːn* ⇔ *syːn* に変化している。実際には、歌韻からの戈韻の分化は、特に早くに生じたとはいえ、宣 *si̯wän¹* > *siːn* ⇔ 仙 *si̯än¹* > *syːn* の区別と同様の、後続母音の変化と見なすことができる。したがって、他の証拠がない限り、どちらも切韻体系としての中古漢語の対立について何かを証明したことにはならない。 この問題に関しても、介音 *-i-* の場合と同様、合口要素と他の要素の共起パターンを調査する必要がある。これについてMasperoは、「私は、母音である場合と子音である場合とを特別な記号で区別することなく、合口要素を一律 *u* と表記する」としている(Maspero 1920: 5、またp. 74も参照)。Karlgrenはより詳細に、「『切韻』のそれぞれの韻には、ただ一種類の合口要素しか無い」と述べ、「私の切韻体系の再構の枠組みには、1つだけ例外がある。しかし、私の『*Phonologie*』における(2つが異なる韻に属することを説明するための) 尹 *ji̯uĕn²* ⇔ 隕 *ji̯wĕn²* という再構は、確かに私の再構体系における最も弱い点の一つである。これはありえないことであり、再検討の必要がある」(Karlgren 1932: 126)と注釈を加えている。後の論文で、彼は再検討し、隕 を *ji̯wen²* と書いた(Karlgren 1933: 11–13)。この修正により、*ji̯uĕn²* ⇔ *ji̯wen²* における *u* ⇔ *w* の違いは非弁別的なものとなった。すなわち、*u* という音素がただ1つだけ存在し、*i* の異音の場合と同様に、音声的環境に応じて母音性介音・子音性介音・主母音・末子音のいずれかとなるのである。 | | 母音性介音 | 子音性介音 | 主母音 | 主母音 | 末子音 | | :--- | :--------- | :--------- | :--------- | :------- | :------- | | /i/ | 先 *-ien* | 仙 *-i̯än* | 脂 *-i* | 微 *-e̯i* | 泰 *-âi* | | /u/ | 桓 *-uân* | 刪 *-wan* | 東 *-i̯ung* | 侯 *-əu* | 豪 *-âu* | このことを踏まえて、我々はKarlgrenの *u* と *w* を便宜的な表記法として使用し続けるが、それに次の修正を加える。一等韻には全て *u* を用いる。Karlgrenも既にそうしているが、唐韻 *-wâng* [^22], 登韻 *-wəng* は例外となっている。それ以外の場合、虞韻 *-i̯u*, 東3韻 *-iung* を除いて、*w* を用いる。Karlgrenも既にそうしているが、諄韻 *-i̯uĕn*, 文韻 *-i̯uən*, 戈3韻 *-i̯uâ* は例外となっている。彼が諄韻に *u* を用いるのは、それが真韻 *-i̯ĕn* とは異なる韻とされているためである。しかし、隕 *ji̯wĕn²* が真韻 *-i̯ĕn* および諄韻 *-i̯uĕn* と同じ韻に属していることから、諄韻を *-i̯wĕn* と書くのは、『切韻』の断片の観点から見てより適切である。一方で、我々の枠組みにおいては文韻を *-i̯wən* と書くことで、魂韻 *-uən* と異なる韻であることがより明確になる。しかし、これらの点はそれほど重要ではない。重要なのは、合口は一種類のみであり、一等および(*u* が唯一の母音である)虞韻 *-i̯u*, 東3韻 *-i̯ung* では *u* と書かれ、他の全ての韻では *w* と書かれ、後者の場合 *u* は非常に短いと推測されることである。Masperoのように常に *u* と書くことも可能ではあるが、我々の表記法の方が音価をより適切に示唆しているように見える。繰り返すが、これは便宜的な表記法に過ぎない。 ## 3. 唇音の開口と合口 唇音の頭子音を持つ単語の開合は、その反切下字との関係においても、それ自身が反切下字となる場合の被切字との関係においても、一貫性がないことで悪名高い。襇韻 ==(山韻去声)== に属する単語を例に挙げる。 | | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :----- | :--------- | :----- | :-------------- | | 1 | 襇 | *kạn³* | 古莧切 | *kuo²-ɣạn³* | | 2 | 莧 | *ɣạn³* | 侯襇切 | *ɣəu¹-kạn³* | | 3 | 鰥 | *kwạn³* | 古幻切 | *kuo²-ɣwạn³* | | 4 | 幻 | *ɣwạn³* | 胡辨切 | *ɣuo¹-bʰ(w)ạn³* | | 5 | 辨 | *bʰ(w)ạn³* | 蒲莧切 | *bʰuo¹-ɣạn³* | ここでは、見母 *k-* と匣母 *ɣ-* のそれぞれにおいては、明確に開口と合口の対立が見られる。したがって、例4の反切下字 辨 は *bʰwạn³* となるはずである。しかし、その 辨 の反切下字を確認すると 莧 *ɣạn³* であり、したがって *bʰwạn³* ではなく *bʰạn³* と読むということになる。このような例は多くの反切に見られる[^23]。ここで興味深いのは、黄淬伯が研究した『韻英』の反切である。黄淬伯は、『韻英』の編者は唇音の単語を、他の頭子音の単語の開口または合口のどちらかに結びつける試みを放棄し、唇音の単語の反切下字にもっぱら唇音の単語のみを用いることで、この問題を大胆に解決していることを発見した。この解決策によって、開口でも合口でもない、単なる唇音という第三のカテゴリーが生じているのである。黄淬伯が研究した唇音の単語の第1グループでは、180組の反切のうち159組は反切下字が唇音であり、非唇音はわずか21組に過ぎない(Huang 1931: 82–84)。出現頻度を考慮すれば、唇音の割合はさらに高くなるだろう。では、『切韻』や『広韻』にもこれと似た現象があるのかというと、間違いなく存在している。陳澧が『切韻考外篇』で整理した唇音の頭子音を持つ単語に対する511組の反切のうち、反切下字に唇音を持つものは205組にも上る。一般に反切下字に唇音の単語が特に多いというわけではないことを考えれば、これは明らかに偶然の選択よりも多い割合である。『切韻』写本の断片も、『広韻』とは同じではなく完全でもないが、この事実を裏付けている。要するに、『切韻』において既に唇音の単語の反切下字に唇音を用いる傾向が存在しており、後にそれが極端になったと考えられるのである。このように、唇音の単語は開合に関して明確な区別を持たない傾向があるため、例えば 殺 *ṣạt* : 所八切 *ṣi̯wo²-p(w)ạt* のように開口の反切下字として用いられることもあれば、例えば 滑 *ɣwạt* : 戸八切 *ɣuo²-pwạt* のように合口の反切下字として用いられることもある。さらに、この 八 自体は唇音の単語 拔 *bʰ(w)ạt* によって綴られ、その 拔 は再び 八 によって綴られるため、八 と 拔 はどちらも開合に関して曖昧な存在である。 Karlgrenはこの現象に対して音声的な説明を与えている。彼は、中古漢語の唇音は全て唇をわずかに突き出して発音されていたと仮定している。そのため、*pa* を発音する際に、軽い合口化(*pʷa*)が生じることになり、開口の単語である 八 *pʷat* が、真の合口の *pwat* のように聞こえるために、合口の *ɣwat* の反切下字に用いることができると説明している(Karlgren 1915: 65–66)。ここで重要な問題は、我々が考える弁別的特徴という観点から見て、真の合口の唇音(例えば *pwat*)と、いわゆる疑似合口の唇音(例えば *pʷat*)との間に、対立が実際に存在したのかどうかという点である。唇音に対する反切を全て調べてみると、開口唇音の単語と合口唇音の単語の最小対と思しき例は驚くほど少ない。以下に示す唇音の頭子音に対する反切下字の分布(Li 1935: 71)は、典型的な例である。 | | 平声開口 | 平声合口 | 上声開口 | 上声合口 | 去声開口 | 去声合口 | 入声開口 | 入声合口 | | :--------- | :-------- | :--------- | :-------- | :------- | :-------- | :--------- | :------- | :------- | | 幫母 *p-* | | 幫 *-wâng* | 榜 *-âng* | | | 螃 *-wâng* | 博 *-âk* | | | 滂母 *pʰ-* | 滂 *-âng* | | 髈 *-âng* | | | | 𩔈 *-âk* | | | 並母 *bʰ-* | | 傍 *-wâng* | | | 傍 *-âng* | | 泊 *-âk* | | | 明母 *m-* | 茫 *-âng* | | 莽 *-âng* | | 漭 *-âng* | | 莫 *-âk* | | この例は、非唇音の反切下字が通常より多く使用されている点で良い例である。幫 : 博旁切 のように合口を間接的に推測する必要がある場合を除くと、他の反切下字は 朗 *lâng* や 光 *kuâng* のように明確に開口または合口のどちらかに分類できるものであり、それらを通じて最小対を示すものは一つも無い。さらに注目すべき点として、傍 は平声では 步光切 *bʰuâng* と綴られているが、去声では 蒲浪切 *bʰâng* と綴られており、さらに平声への参照として「又蒲郎切」(すなわち *bʰuâng* ではなく *bʰâng*)と記されているのである。このことから、唐韻において、唇音に関する開合の区別がどれほど無意味であるかが分かる。 続いて、他の韻について検討する。ここでは、(1)どの頭子音に対しても開合の区別が見られない韻、(2)唇音に対して明らかに開合の区別が見られる韻、(3)唇音以外では区別が見られるが、唇音では区別が見られない韻、の3つのカテゴリーに分けて考える。なお、当然ながら、之韻 *-i* や談韻 *-âm* のように唇音と共起しない韻について検討する必要はない。 (1)效摂の豪韻 *-âu*, 肴韻 *-au*, 宵韻 *-i̯äu*, 蕭韻 *-ieu*、流摂の侯韻 *-əu*, 尤韻 *-i̯əu*、さらに深摂の侵韻 *-i̯əm* は全て開口である。遇摂の模韻 *-uo*, 虞韻 *-i̯u*、および通摂の東1韻 *-ung*, 東3韻 *-i̯ung*, 冬韻 *-uong*, 鍾韻 *-i̯wong* は全て合口である。これらの韻の前に現れる唇音は単に *pâu*, *puo* などであり、特に議論の必要はない。 (2)同じ唇音が同じ声調で現れ、開口の対立と思われるものが見られるものとして、4つのペアが存在するようである。 | | 韻 | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :------- | :----- | :------- | :----- | :--------------- | | 1 | 咍(海)韻 | 倍 | *bʰậi²* | 薄亥切 | *bʰâk-ɣậi²* | | | 灰(賄)韻 | 琲 | *bʰuậi²* | 蒲罪切 | *bʰuo¹-dzʰuậi²* | | 2 | 脂韻 | 匕 | *pji²* | 卑履切 | *pjie̯¹-lji²* | | | 脂韻 | 鄙 | *pjwi²* | 方美切 | *pi̯wang¹-mji²* | | 3 | 支韻 | 彌 | *mjie̯¹* | 武移切 | *mi̯u²-ie̯¹* | | | 支韻 | 糜 | *mjwie̯¹* | 靡爲切 | *mjwie̯²-jwie̯¹* | | 4 | 仙(線)韻 | 免 | *mi̯än²* | 亡辨切 | *mi̯wang¹-bʰi̯än²* | | | 仙(線)韻 | 緬 | *mi̯wän²* | 彌兗切 | *mjie̯¹-i̯wän²* | 倍 *bʰậi* ⇔ 琲 *bʰuậi* のペアについては、『切韻』写本の断片にも同じ反切が見られる。この例は唯一のケースであること、さらに現在知られているどの方言でも 倍 *bʰậi* の韻が 背 *puậi*, 配 *pʰuậi*, 妹 *muậi* と異なる発展を遂げていないことから、Karlgren(1915: 749 note)は 倍 も *bʰuậi* であると解釈している。さらに、倍 は 背 *bʰuậi* 「そむく」としばしば ==文字の上で== 交替するが[^24]、「二倍」と「そむく」の違いが合口と開口の区別に依存するとは考えにくい。一方で、李方桂は 倍 を真の開口の単語として扱っている(Li 1935: 72, note 1)。しかしながら、李方桂は別の唐代の『切韻』写本が、泰韻 *-âi* における『広韻』の 旆 *bʰâi³* ==蒲蓋切== に対して *bʰuâi³* ==蒱外反== を、『広韻』の 挴 *muậi²* ==(武罪切)== に対して *mậi²* ==莫亥反== を記していることを指摘している。このことから、この区別は当時かなり曖昧な状態にあり、『切韻』の時代には 倍 の二次的な合口が他の合口(または「唇音口」)と区別がつかなくなりつつあったと考えられる。 また、匕 (卑履切) ⇔ 鄙 (方美切) のペア、彌 (武移切) ⇔ 糜 (靡爲切) のペア、そしてこれに類する多くの例については、Karlgrenによって開口 *pji*, *mjie̯* ⇔合口 *pjwi*, *mjwie̯* と解釈されている。これらの対立は、現代の多くの方言で見られる *i* と *ei* の対立と緩やかな相関がある。そのため、Karlgrenは現代の *i* 系統の読みは中古漢語の開口から、*ei* 系統の読みは中古漢語の合口から発展したものと考えた。しかし、この相関は非常に緩やかであり、その例外を列挙するために彼の辞書には多くのスペースが割かれている(Karlgren 1915: 723, 724, 727, 737等)。例えば、寐 (彌二切) が開口とされるのは 二 *ńźi³* が開口だからだが、ほとんどの方言でこれは 寐 *mèi* のように合口の単語(例えば 位 *wèi*)と同様に発音される。この区別はおそらく別の要因に基づくものと思われる。Karlgrenは、支韻 *-ie̯* に対して開口と合口の2種類の韻のみを識別している。しかし、反切を詳しく調べると、見母 *k-* に対して3種類、溪母 *kʰ-* に対して3種類、群母 *gʰ-* に対して3種類、曉母 *χ-* に対して4種類、影母 *ꞏ-* に対して3種類、精母 *ts-* に対して3種類の形式が存在することがわかる。例えば、 | | 被切字 | | 反切 | | | :--- | :----- | :------- | :------------------------ | :------------- | | 1 | 犧 | *χjie̯¹* | 許羈切 ==:bulb: 三等B類== | *χi̯wo²-kjie̯¹* | | | 詑 | *χjie̯¹* | 香支切 ==:bulb: 三等A類== | *χi̯ang¹-tśie̯¹* | | 2 | 𪎮 | *χjwie̯¹* | 許爲切 ==:bulb: 三等B類== | *χi̯wo²-jwie̯¹* | | | 隓 | *χjwie̯¹* | 許規切 ==:bulb: 三等A類== | *χi̯wo²-kjwie̯¹* | Karlgrenは両者 ==:bulb: 三等A類(重紐四等)と三等B類(重紐三等)== を区別していないが、陳澧は『切韻考』および『切韻考外編』でこれらの区別を認め、宋代の韻図の表記法に従って、それらを三等・四等と呼んでいる。これらの区別はヨードとは無関係であり(例えばKarlgrenの見解でも 許 と 香 はどちらも同様に *χj-* とされる)、三等と四等の区別は別のところにあると考えられるが、これについては将来の研究に委ねることとする。 ここで注目すべき重要な点は、唇音が3種類や4種類の対立を形成するということはなく、せいぜい2種類しかないということである。『韻鏡』はこれらの唇音をすべて開口に分類しつつ、三等と四等に分けている。陳澧は反切に基づいてそれらを開口と合口に分類しているが、さらにその全てのペアを三等と四等に分類している。場合によっては同一のペア内の2字が両方とも開口、あるいは両方とも合口となることがあり、例えば 皮 (符羈切) を開口三等、陴 (符支切) を開口四等としている。脂韻では反切がやや対称的となっており、一方のグループ ==:bulb: 三等A類== では反切下字に8つの開口の単語と1つの唇音の単語が用いられており、もう一方のグループ ==:bulb: 三等B類== では反切下字に12の唇音の単語のみが用いられている。しかし、現代方言との対応関係は極めて不規則である。同様に、仙韻における 免 と 緬 のような対立は、『韻鏡』ではいずれも開口に属し、前者は第23表の四等、後者は第21表の四等とされている。要するに、同じ韻の中で開口唇音⇔合口唇音の最小対と思しき例を発見したとしても、それは実際には開口⇔合口の区別ではなく、何か他のものであることが判明するのである。さらに、*i* 系統と *ei* 系統の韻という現代方言の発音との対応はとても緩やかなものであるため、方言研究の観点から見ると、止摂唇音に関して開口⇔合口の区別を立てる試みにあまり意味があるとは考えにくい。安全策としては、全てを開口あるいは「唇音」として扱い、韻の中で見られる頭子音の二重性の性質については将来の研究に委ねるのが良いだろう。Karlgrenが 犧 (許羈切) と 詑 (香支切) を共に *χ(j)ie̯¹* と表記しているのと同様、我々も 臂 (卑義切) と 賁 (彼義切) を共に *p(j)ie̯³* と表記することにする。 (3)多くの韻では、非唇音の頭子音においては開合の区別が見られるが、唇音に対してはその区別がまったく見られない。例えば歌韻 *-â* と戈韻 *-uâ* では、唇音はすべて戈韻 *-uâ* に属している。では、波 (博禾切) のような単語を、布 *puo³* の場合と同様に常に合口(*puâ¹*)と考えるべきかというと、そうではない。なぜなら、『切韻』の断片では歌韻という1つの韻に両方が収められているだけでなく、実際には『広韻』における 波 : 博禾切 *pâk-ɣuâ¹* に対して『切韻』の断片では 波 *pâ¹* : 博河切 *pâk-ɣâ¹* と綴られており、『広韻』の 叵 : 普火切 *pʰuo²-χuâ²* に対して『切韻』の断片では 叵 *pʰâ²* : 普可 *pʰuo²-kʰâ²* と綴られているからである。同様に、寒韻 *-ân* と桓韻 *-uân* (唇音はすべて後者に属する)でも、『切韻』の断片ではこの2つの韻を統合し、唇音は開口の文字だけで綴られているわけではなく(そもそもこちらの立場としてはそれを期待していない)、開口・合口を問わず無差別に用いられている。例えば、盤 *bʰân¹* : 薄官切 *bʰâk-kuân¹* は『広韻』と同じだが、『広韻』の 瞞 : 母官切 *məu¹-kuân¹* に対しては 瞞 *mân¹* : 武安切 *mi̯u²-ꞏân¹* と綴られている。痕韻 *-ən* と魂韻 *-uən* のペアについては、『切韻』の断片でも別個の韻として認められており、唇音は唇音字または合口字で綴られている。よって、後者の韻では合口(例えば *puan* 等)と見なすことが妥当である。同じ理由で、殷韻 *-i̯ən* と文韻 *-i̯uən* のペアも断片では別の韻として扱われており、唇音は後者の韻に属するので合口に当たる。真韻 *-i̯ĕn* と諄韻 *-i̯uĕn* は前述の通り断片では真韻に統合されているが、ここには開合の区別ではなく、陳禮のいう三等⇔四等という反切下字によって区別される2種類の唇音がある。泯 : 武盡切 *mi̯u²-dzʰi̯ĕn²* と 愍 (= 閔) : 眉殞切 (=眉隕切) *mji¹-ji̯wĕn²* のペアについて、Karlgren(1933: 13)は前者の 泯 *mi̯ĕn* に対して後者を *mi̯wɛn* と解釈している。しかしこれは開合の問題ではなく、これと同じ構造のペアが 民 (彌鄰切) ⇔ 珉 (武巾切) など他にも6つあり、これらの反切下字は開口または唇音である。Karlgrenは 巾 *ki̯ĕn¹* を上古漢語 \*ki̯ɛn に由来するとしているため、こうしたペアの反切下字にしばしば 巾 が使われていることは、これらの唇音のペアが全て以下の問題であることを示唆しているのかもしれない。 | | | | | :--------- | :---------- | :--------- | | 賓 *pi̯ĕn¹* | 頻 *bʰi̯ĕn¹* | 泯 *mi̯ĕn¹* | | 彬 *pi̯ɛn¹* | 貧 *bʰi̯ɛn¹* | 愍 *mi̯ɛn²* | ここでは、閔 *mi̯ɛn* のように既知の例があることを手がかりに、未解明の 臂 : 賁 のようなペアにも同様の意味があるのではないかと推測している。この推測が妥当かどうかは別として、要点は、真韻と諄韻のあいだでは、唇音をすべて開口として扱うのが最も簡便だということである。 この項目で扱われる残りの韻はすべて、*pâng* : *puâng* に類するものである。煩雑を避けるため、後に唇歯音へと変化したものを合口と見なし[^25]、それ以外はすべて開口または「唇音」として扱うことにする。したがって、崩 *pəng¹*, 丙 *pi̯ɐng²* (永 *ji̯wɐng²* で綴られているにもかかわらず), 逼 *pi̯ək* (逼 が 域 *ji̯wək* の反切下字であるにもかかわらず)は開口(あるいは「唇音」)とみなし、廢 *pi̯wɐi³*, 方 *pi̯wang¹* (良 *li̯ang¹* で綴られているにもかかわらず)は合口(唇歯音)とみなすわけである。 ## 4. 唇歯音化 Karlgrenは、両唇音が唇歯音化する条件として、その単語が三等合口でなければならないとしている。そして多くの例外について詳細に弁明している(Karlgren 1915: 554–557)。両唇音が唇歯音化する10の韻のうち、1つは開口の尤韻 *-i̯əu* で、Karlgrenによれば、*u* が主母音であるために合口と同様の役割を果たす。また、虞韻 *-i̯u*, 文韻 *-i̯uən*, 東3韻 *-i̯ung*, 鍾韻 *-i̯wong*の4つは、全ての頭子音に対して合口である。残る5つの韻(廢韻 *-i̯wɐi*, 微韻 *-i̯we̯i*, 凡韻 *-i̯wɐm*, 元韻 *-i̯wɐn*, 陽韻 *-i̯wang*)では、非唇音については開合の対立があるが、唇音についてはまったく見られない。前節では、唇音を開口とみなすか合口とみなすか判断がつかなかったので、結果的に、もともとあるいは本来的に合口と推定されるものが後に唇歯音へ変化したということを判断の基準とせざるを得なかった。もし、例えば *pi̯ang* > *pi̯ang* に対して *pi̯wang* > *fwang* となったり、*pi̯ʷat* > *pi̯ʷat* に対して *pi̯uat* > *fuat* のような変化が見られれば、合口の有無は音変化の条件として重要な意味を持つといえるだろう。しかし、中古漢語の段階で何が一次的合口で何が二次的合口なのか、はっきり示してくれる証拠がない以上、唇歯音化した合口を一次的と呼ぶことは問題を提示しているだけであって、解決にはならない。上古漢語のような、より古い段階の状態を持ち出しても、それは調査のヒントにはなるかもしれないが、明確な答えにはならない。なぜなら、後の段階で *p-* > *f-* のような具体的な変化をもたらす区別は、それ以前の中古漢語において何らかの音韻的な対立として現れていなければならないはずだからである。より古い段階の仮説は抜きにして、中古漢語そのものの中で実際に確認できる「これがあれば後世の歯唇音に対応し、これがなければ両唇音に対応する」といった要素はいったい何なのか、というのが問題なのである。 Karlgren(1915: 647)は止摂について母音の質を手がかりとして示唆を与えているが、その具体的な働きまでは詳述していない。そこで筆者はこの母音の質という考えを応用しようと試み、ほぼ全ての事例に当てはめることができたが、最後は行きどまりになってしまった。ただ、この発想は非常に魅力的なので、もしかすると他の研究者が道を開いてくれるかもしれないという期待から、可能なところまでは述べておきたい。両唇音が唇歯音化するのは三等合口、すなわち円唇化され口蓋化された状態にあるときだというのは、一応筋が通っているように思えるが、それだけでは音声学的に十分な説明とは言いがたい。しかも、唇が丸みを帯びるのはいつなのか、仮にされるとして「一時的」なのかどうかも依然として定まっていない。一方、もし唇音の単語が高い *i* を含み、かつ中舌母音(混合母音)あるいは後舌母音(一般には下顎の後退を伴う母音)が後続するなら、下唇が上の歯に触れやすくなり、その結果唇歯音が生じるのではないか、という仮説を立てることもできる。では、この仮説は事実とどの程度合致するのだろうか。両唇音が唇歯音に変化する10の韻のうち、下記の9つの韻には中舌または後舌母音が含まれている。 - 夫 : 虞韻 *-i̯u* - 廢 : 廢韻 *-i̯wɐi* - 否 : 尤韻 *-i̯əu* - 凡 : 凡韻 *-i̯wɐm* - 反 : 元韻 *-i̯wɐn* - 分 : 文韻 *-i̯wən* - 方 : 陽韻 *-i̯wang* [^26] - 風 : 東3韻 *-i̯ung* - 封 : 鍾韻 *-i̯wong* 微韻 *-je̯i* に関しては、第一要素を *e̯* と見なす主な理由が、呉音や温州方言で末尾が *e* になっていること、および閩語において開口の 幾 のような単語にも *ui* が使われることが多い、という点にある(Karlgren 1915: 646)。しかし、これらの根拠を考えれば、*-i̯ə̯i* としても十分対応できるのではないだろうか。上古漢語との対応を考えれば、むしろそのほうがより自然にも思える。例えば、Karlgrenは次のように書いている。 | | 弗 | 疿 | | :------- | :------ | :------- | | 上古漢語 | \*pi̯wət | \*pi̯we̯d | | 中古漢語 | *pi̯uət* | *pjwe̯i³* | 我々の枠組みでは、以下のように簡潔になる。 | | 弗 | 疿 | | :------- | :------ | :------- | | 上古漢語 | \*pi̯wət | \*pi̯wəd | | 中古漢語 | *pi̯wət* | *pi̯wəi³* | これは単純に、唇歯音化した単語は全て中舌母音あるいは後舌母音を持つことを意味する。もしこの基準が妥当であるならば逆に、高い *i* の後に中舌あるいは後舌母音が続く唇音は、全てが唇歯音化するはずである。しかし、先に示した表3を参照してみると、Karlgrenが *-i̯əu* と再構し、γ類と呼んでいる幽韻の居場所が見当たらない。「母音的」な *i* (我々の広い *i*)を持つ四等においては、例えばその唇音の単語 彪, 淲 などが尤韻 *-i̯əu* の 否, 浮 と合流して唇歯音化しないことも、理論上何の支障もないだろう。しかし、幽韻は *-i̯əu* ではありえない。李方桂が指摘したように(Li 1932: 398, note 2)、この韻に属する単語は典型的な三等の頭子音、すなわち 居, 語, 香, 力 や、特に重要なことに 巨, 渠 などの群母 *gʰi-* を伴っており、これらはγ類(四等)の韻では決して現れない。さらに、『切韻』の断片によって確認される 犙 (山幽反) *ṣ-* というそり舌音の頭子音も、γ類から外れる根拠となるが、α類であれば十分ありうる。==:bulb: 実際には「山幽反」は「山函反」の誤記に由来する偽の反切であり、この議論とは無関係である。== では、尤韻と幽韻は何が違うのだろうか。最も単純な答えは、幽韻を *-i̯ĕu* とし、尤韻を *-i̯əu* とすることである。これは、どちらもα類に属する2つの韻を区別するだけでなく、蕭韻 *-ieu* と *-i̯ĕu* の音声的類似によって現代の 彪 *piao* や 繆 *miao* (姓)の発音を説明できる。これは前舌母音 *ĕ* を持つため、唇音が先行する場合、否 *pi̯əu³* のように唇歯音化を免れる[^27]。ちなみに、この解釈によって、*pi̯əu* における *u* が頭子音に遠隔的に作用するというKarlgrenの「action at a distance」説を持ち出さずに済むという利点もある。(ウムラウトのように)そうした作用が不可能とはいえないが、隣接する音の影響で説明できるなら、そのほうが自然である。 高い *i* の後に中舌母音が続くにもかかわらず両唇音が唇歯音化しない残りの3つの韻では、母音の質という仮説はあまりうまく行かない。侵韻 *-i̯əm* と蒸韻 *-i̯əng* について、母音 *ə* は上古音の考察と比較的よく合致しているが、中古漢語の体型における位置づけや現代方言との対応を考えると、*-i̯ĕm* や *-i̯ĕng* と読んでも大きな問題はない。実際、Masperoは後になって Karlgrenの音価を受け入れるまでは、当初そのように読んでいた。しかしながら、この仮説上の読みは今回の目的のために立てられたにすぎず、他の積極的な証拠によって支持されているわけではないという弱点がある。 しかし最大の難関は、庚3韻 *-i̯ɐng*, *-i̯wɐng* である。*-ie-* の前の両唇音は、末尾が *-i*, *-m*, *-n* の場合(廢韻, 凡韻, 元韻)は唇歯音化したにもかかわらず、*-ng* の場合は起こらなかった。では、中古漢語の庚韻が前舌母音を持っていた可能性はあるだろうか。Karlgren(1932: 157)は上古漢語の押韻を根拠に、庚韻と耕韻をそれぞれ *-ɐng* と *-ɛng* と再構しており、ここで *e* は英語 *man* の母音に近い音であるという。耕韻には介音 *-i-* を持つ韻が存在しないが、庚韻には *-ɐng* と *-wɐng* に加えて *-i̯ɐng* と *-i̯wɐng* の韻が含まれる。初唐の時代、唇歯音化が始まる以前に、介音の高い *i* が母音に影響を与えて *ɛ* や *ä* に変化させ(耕韻や清韻と合流)、その結果唇歯音化を免れた可能性がある。しかし、もしそうした変化が起こったとすれば、なぜ廢韻 *-i̯ɐi*, 凡韻 *-i̯ɐm*, 元韻 *-i̯ɐn* ではそれが起こらなかったのだろうか。結局、*-i̯(w)ɐng* > *-i(w)ɛng* という仮説は、高い *i* に続く中舌・後舌母音が唇歯音化の条件であるという理論に合わせるためだけに、その場しのぎで提唱されたものにすぎない。 最初はうまい理論を立てたつもりだったが、最後は肩すかしをくらう結果になった。このように徒労とも思える道のりをわざわざ進んだのは、Karlgrenのヨード化かつ合口という条件だけでは満足できなかったからにほかならない。唇音には、他の頭子音のような意味での独立した合口がない以上、「一次的な合口」がある場合、そしてその場合にのみ唇歯音化が起こると考えるしかない。では、唇音において合口が「一次的」でなのはどういうときか。それは歯唇音化が起こるときだ、ということになる。つまり、中古漢語の音韻体系の観点からすると、いつ唇歯音化が起こり、いつ起こらないのかを示すには、廢韻, 凡韻, 元韻, 陽韻, 虞韻, 微韻, 尤韻, 文韻, 東3韻, 鍾韻という寄せ集めの韻をただ列挙する以外、何の基準も残されていないということになる。 ## 5. 母音の質と量 第1節と第2節では、*i* 音素を1つ、*u* 音素を1つだけ扱い、必要に応じて *i* と *i̯*、*u* と *w* と書き分ける方法を採用した。一方、他の母音については、表3と表4で示したように、外転と内転のパターンを比較することがきわめて重要である。どちらのグループにも、長短や広狭といった各種の母音が存在するが、全体的には外転の方が広母音と長母音を持ち、内転の方が狭母音と短母音を持つ傾向がある。母音 *e* は、外転では タイプγの韻において主母音として長母音で現れ、内転では常に短母音として現れる。羅常培によれば、両グループで交差する唯一の母音がこの *e* である(Luo 1932: 223)。 ここでは別の扱い方も可能である。仙韻 *-i̯än* と先韻 *-ien* のように、*i* の広狭を後続母音に依存させるのではなく、*i̯* と *i* の差異を音韻的なものとみなし、*-ien* に含まれる *e* と *-iän* に含まれる *ä* を同じ音素 *ä* としてまとめるのである。そうすると、内転における *ĕ* は本来短い母音とみなせるため、わざわざ *ĕ* と書かずに真韻 *-i̯ĕn* のように書けばよい。これは、殷韻 *-i̯ən* の *ə* が本来短母音であるのと同様である。では、さらに一歩進めて、この *ä* を音素 *a* の一部とみなすことはできるだろうか。実際にLamasse and Jasminは諸方言間のローマ字表記において、次のように表記している。 | | 干 | 間 | 甄 | 肩 | | :----------------- | :---- | :----- | :----- | :----- | | Karlgren | *kân* | *kan* | *ki̯än* | *kien* | | Lamasse and Jasmin | *kan* | *kean* | *kyan* | *kian* | しかし、*kan* ⇔ *kean* の区別は非常に独創的だが純粋に表記上の工夫にとどまるものであり、例えば寒韻 *-ân* と刪韻 *-an* のように音素 *a* に対する2種類の区別はやはり保持せねばならない。さらに、仙韻 *-i̯än* を先韻 *-i̯an* と同一視する案は、清韻 *-i̯äng* と陽韻 *-i̯ang* の対立には適用できない。Lamasse and Jasminは清韻を現代風に *-ing* とすることで問題を回避している。当然ながら、我々はあくまで中古漢語を扱っているので、このようなことはできない。したがって、我々は *â*, *a*, *ä* を使いつつ、もし音素 *i* を1つしか認めないのであれば、それに加えて外転の四等に属する4つ目の母音 *e* も併せて用いる必要がある。 *ɐ* と *ə* は相補分布を構成しており、外転では *ɐ* が、対応する内転では *ə* が現れる。また、末尾が *-ng* の場合に唇歯音化と結びつかないという点でも一致している。実際、Maspero(1920: 65)は外転に属するこれらの母音をすべて長い *ə* としている。そして、*ě* を *e* (あるいは *ä*)に対応する短母音とするように、*ə* を *e* に対応する短母音と見なすことで、次のようになる。 | | | | | :-------------- | :----- | :------ | | 二十 文韻 | | *-i̯wən* | | 二十一 殷(欣)韻 | *-i̯ə̯n* | | | 二十二 元韻 | *-i̯ən* | *-i̯wən* | | 二十三 魂韻 | | *-uə̯n* | | 二十四 痕韻 | *-ə̯n* | | これによって、元韻の位置付けがより妥当なものになり、劉淵や陰時夫による標準的な押韻体系(元韻が魂韻と痕韻を併合させる)をめぐる伝統的な問題点(いわゆる「該死十三元」)がいくぶん緩和される。ただし、現代諸方言の観点から見ると、これらの韻における外転と内転の相違は非常に大きく、元韻に属する単語が魂韻や痕韻に属する単語と同じ扱いを受けることはめったにない。ここでは、*ɐ* が内転の *ə* に対応する外転の音として考えられることに言及したうえで、長さ[^28]も含意した表記として今後も *ɐ* と *ə* を使うことにする。 対立的特徴を探す際、人々は特異な事例をやや疑わしく見る傾向がある。母音 *ɛ* \[æ] は耕韻と臻韻および真韻の一部にしか現れない。第3節で唇音の開合を論じた際、民 ⇔ 泯 のように *mi̯ĕn* と *mi̯ɛn* として解釈できるペアがわずかにあることを述べたが、Karlgrenは 巾 は『切韻』の段階で既に *-i̯ĕn* を持っていたと考えている。彼が中古漢語で *-i̯ɛn* または *-i̯wɛn* を仮定している例には、こうしたペアの問題は生じない。臻韻 *-i̯ɛn* と櫛韻 *-i̯ɛt* は声調と頭子音が限られており、かつそれは真韻と相補的である。Karlgrenが *-i̯wɛn* とする 筠 *ji̯wɛn* などの真韻の単語は、『切韻』の断片で真韻と合併されている諄韻との間にもペアを構成しない。*ɛ* が関与するペアは、諄韻の 均 (居均切) と、真韻の 麏 (居筠切) だけである(ただし後者は『切韻』の断片には見られない)。均 が我々の表記では *ki̯wĕn* となるので、麏 は *ki̯wɛn* ということになる。このペアを除けば、真韻・臻韻・諄韻に属する全ての頭子音に対して母音 *ĕ* を一つ設定すれば矛盾は無い。しかも *ɛ* は羅常培による外転と内転の区別の図式を横断しているので、臻韻 *-i̯ɛn* における *ɛ* と耕韻 *-ɛng* における *ɛ* との間には、質か量に何らかの違いがあるはずである。そうでなければ、新たな母音 *ɛ* を立てて全ての二重形を次のように説明しなければならない。 | 支韻 | 宵韻 | 仙韻 | 真韻 | | :---------- | :--------- | :------------ | :------------ | | 奇 *gʰjie̯¹* | 飈 *pi̯äu¹* | 緬 *mi̯(w)än²* | 泯 *mi̯(w)ĕn¹* | | 祇 \*gʰiɛ̆¹ | 鑣 \*pi̯ɛu¹ | 緬 \*mi̯(w)ɛn² | 愍 \*mi̯(w)ɛ̆n² | これでも 軌 *ki̯wi²* ⇔ 癸 *ki̯wi²* のようなペアは説明できないため、母音 *ɛ* に独立した地位を与えるのはどうにも割り切れない。しかも、そうした再構を裏づける証拠は 愍 のような事例を除いてほとんど見当たらない以上、この問題はKarlgrenが提示した段階で保留せざるを得ない。 もう一つの孤立した母音として、江韻 *-ång* における *å* がある。これは現代方言では、唇音と喉音の後では *-ang*、そり舌音の後では *-wang* であったかのように振る舞い、実にうまく音韻体系の空白を埋めている[^29]。Maspero(1920: 80)は江韻に対してそのような再構を行ったが、その時期を9世紀のものとし、中古漢語については依然として *-ång* の音価を維持した。もし *å* を音素 *a* の一部とみなすなら、末尾に立つ場合、あるいは *-i*, *-u*, *-m* (*-p*), *-n* (*-t*) が後続する場合、または *-ng* (*-k*) が後続しかつ前に *-i̯-* や *-i̯w-* がある場合には *a* の値をとり、*-ng* (*-k*) が後続してかつその前に *-i̯-* や *-i̯w-* が存在しない場合には *å* の値をとることになる。しかし、これは音声学的にほとんど理解しがたい条件といえる。したがって、*-ang* の年代を中古漢語の時期にまで繰り上げるか、あるいはより保守的に、唯一の *å* の再構をそのまま残しておくほうが望ましいだろう。 咍韻 *-ậi*, 皆韻 *-ại*, 咸韻 *-ạm*, 山韻 *-ạn* などに付してある長さの表記は、之韻 *-i:* の特別な長さの表記と同様、そのままにしておく。夬韻の *-ai* および *-wai* は、上古漢語 \*-d に由来する点で佳韻とは異なるが、中古漢語において佳韻と夬韻がどのように違っていたのかはわかっていない。そこで、夬韻については *-ai'*, *-wai'* のようにアポストロフィを付すことにする。 ## 6. まとめ 本研究の目的は理論的というより実践的なものである。必要な場合に、中古漢語と任意の現代方言との対応を簡潔に示すにはどうすればよいかという動機から出発しており、その準備段階として、現行の再構法において記述や体系化の上で可能な単純化を検討するのが望ましい。結果として得られた結論は次の通りである。 1. 音素 *i* は1種類のみが存在し、音価が2種類ある。狭い *i* は *â*, *a*, *ä*, *ɐ*, *ĕ*, *ɛ*, *ə* の前、または主母音として現れ、広い *i* は *e* の前、あるいは二重母音の末尾として現れる。記憶を助けるために、狭い *i* は脂韻 *-i*, 之韻 *-i:*, 支韻 *-iĕ* を除き *i̯* と書く。(微韻 *-i̯əi* の最後の *i* については狭いだとか主母音だとかを考える必要はない。) 2. 頭子音によって程度の差はあれ、全ての頭子音において、反切上字は狭い *i* の有無に関して反切下字と(したがって被切字とも)一致する傾向がある。唇音・歯音の流音・喉音におけるいわゆる純粋な頭子音とヨード化頭子音の区別は、決して弁別的要素にはならない。 3. 伝統的に喩母と呼ばれる2種類の頭子音のうち一方、すなわち云母は、狭い *i* が後続する場合、音素 *ɣ-* に属する。Karlgrenに従い、表記としては *ji̯-* を使いつづけるが、これは *ɣi̯-* を意味する。 4. 頭子音 *n* は1種類だけであり、例えば 拏 *na* (*nja* ではない)や 娘 *ni̯ang* となる。これは、実際の音価が *nâ*, *ṇa*, *ńi̯ang* などの何であっても、あるいはどの位置でも、音韻的には同じ *n* となるという意味である。 5. 音素 *u* は1種類のみが存在する。覚えやすくするため、*i̯* が先行せず、後ろに *â*, *o*, *ə* が続く場合、および *i̯u* や *i̯ung* のようにそれが *i* 以外の唯一の母音である場合、および末尾に立つ場合は *u* と書く。それ以外は *w* と書く。 6. 唇音が開口か合口かは、それが属する韻が(非唇音を含め)専ら開口か専ら合口かによって決まる。開口と合口の両方の形が併存する韻では、唇音を開口とも合口ともせず、単に「唇音」と見なす。便宜上、後に唇歯音化したものを合口、そうならなかったものを開口と書き分ける。 7. Karlgrenが示した唇歯音化の条件は、循環論法に陥らないよう再考する必要がある。仮説としては「高い *i̯* と、その後に来る中舌あるいは後舌母音」という環境で唇音が唇歯音化するという考え方がありうるが、この説には未解決の問題がいくつかある。 8. 母音 *ɐ* と *ə* は、外転と内転における同一音素の異なる実現形とみることも可能である。 9. 微韻 *-je̯i* はおそらく *-i̯əi*、幽韻 *-i̯əu* はおそらく *-i̯ĕu* であったと思われる。唇歯音化が起こる直前の段階で、侵韻 *-i̯əm* と 蒸韻 *-i̯əng* は *-i̯ĕm* および *-i̯ĕng* だった可能性もある。 10. Karlgrenが想定した *ɛ* の中古漢語の音韻体系内における位置づけは、さらなる検討を要する。 以下に改訂後の頭子音と韻の一覧を示す。多くの点で解釈に相違があり、頭子音と韻の組み合わせもいくつかのケースで変更されているが、得られる形はおおむね、意図どおりKarlgrenの体系と大きく変わらないと考えられる。 :spiral_note_pad: **表1A: 中古漢語の頭子音** | | | | | | | | | | | :------- | :------- | :------ | :------- | :------- | :----- | :------------- | :------ | :----- | | 唇音 | | 幫 *p* | 滂 *pʰ* | 並 *bʰ* | | | 明 *m* | | | 歯音 | 破裂音 | 端 *t* | 透 *tʰ* | 定 *dʰ* | | | | | | | 流音 | | | | | | 泥 *n* | 來 *l* | | | 歯擦音 | 精 *ts* | 清 *tsʰ* | 從 *dzʰ* | 心 *s* | 邪 *z* | | | | 硬口蓋音 | 破裂音 | 知 *t̑* | 徹 *t̑ʰ* | 澄 *d̑ʰ* | | | | | | | そり舌音 | 莊 *tṣ* | 初 *tṣh* | 崇 *dẓ* | 生 *ṣ* | | | | | | 歯擦音 | 章 *tś* | 昌 *tśʰ* | 船 *dźʰ* | 書 *ś* | 常 *ź* | 日 *nź* | | | 牙喉音 | | 見 *k* | 溪 *kʰ* | 群 *gʰ* | 曉 *χ* | 匣云 *ɣ* [^30] | 疑 *ng* | 以 *i̯* | :spiral_note_pad: **表2A: 頭子音と韻の共起分布** | | 一等[^4] | 二等 | 三等 | 三等 | 四等 | | :------- | :------- | :-------- | :--------- | :--------- | :--------- | | 幫 *p-* | 保 *pâu* | 包 *pau* | 蔽 *pi̯äi* | 非 *pi̯wəi* | 閉 *piei* | | 端 *t-* | 多 *tâ* | 打 *tɐng* | 地 *dʰi* | | 低 *tiei* | | 泥 *n-* | 那 *nâ* | 拏 *na* | 尼 *ni̯ang* | | 泥 *niei* | | 精 *ts-* | 左 *tsâ* | | 揫 *tsi̯əu* | | 濟 *tsiei* | | 知 *t̑-* | | 盯 *t̑ɐng* | 治 *d̑ʰi* | | | | 莊 *tṣ-* | | 渣 *tṣa* | 鄒 *tṣi̯əu* | | | | 章 *tś-* | | | 周 *tśi̯əu* | | | | 見 *k-* | 哥 *kâ* | 加 *ka* | 甄 *ki̯än* | 建 *ki̯ɐn* | 肩 *kien* | :spiral_note_pad: **表3A: 中古漢語の韻(外転)** | | 一等 | 二等 | 三等α | 三等β | 四等γ | 一等 | 二等 | 三等α | 三等β | 四等γ | | :----- | :------- | :------- | :-------- | :------- | :-------- | :-------- | :-------- | :--------- | :--------- | :--------- | | 果, 假 | 歌 *â* | 麻 *a* | 麻 *i̯a* | 歌 *i̯â* | | 戈 *uâ* | 麻 *wa* | | 戈 *i̯wâ* | | | 蟹 | 咍 *ậi* | 皆 *ại* | 祭 *i̯äi* | 廢 *i̯ɐi* | 齊 *iei* | 灰 *uậi* | 皆 *wại* | 祭 *i̯wäi* | 廢 *i̯wɐi* | 齊 *iwei* | | | 泰 *âi* | 夬 *ai* | | | | 泰 *uâi* | 夬 *wai* | | | | | | | 佳 *ai'* | | | | | 佳 *wai'* | | | | | 效 | 豪 *âu* | 肴 *au* | 宵 *i̯äu* | | 蕭 *ieu* | | | | | | | 咸 | 覃 *ậm* | 咸 *ạm* | 鹽 *i̯äm* | 嚴 *i̯ɐm* | 添 *iem* | | | | 凡 *i̯wɐm* | | | | 談 *âm* | 銜 *am* | | | | | | | | | | 山 | 寒 *ân* | 山 *ạn* | 仙 *i̯än* | 元 *i̯ɐn* | 先 *ien* | 桓 *uân* | 山 *wạn* | 仙 *i̯wän* | 元 *i̯wɐn* | 先 *iwen* | | | | 刪 *an* | | | | | 刪 *wan* | | | | | 宕, 江 | 唐 *âng* | 江 *ång* | 陽 *i̯ang* | | | 唐 *uâng* | | 陽 *i̯wang* | | | | 梗 | | | 清 *i̯äng* | | 青 *ieng* | | | 清 *i̯wäng* | | 青 *iweng* | | | | 庚 *ɐng* | 庚 *i̯ɐng* | | | | 庚 *wɐng* | | 庚 *i̯wɐng* | | | | | 耕 *ɛng* | | | | | 耕 *wɛng* | | | | :spiral_note_pad: **表4A: 中古漢語の韻(内転)** | | 一等 | 三等α | 三等β | 一等 | 三等α | 三等β | | :--- | :------- | :-------- | :------- | :-------- | :--------- | :-------- | | 遇 | | | | 模 *uo* | 魚 *i̯wo* | | | | | | | | 虞 *i̯u* | | | 止 | | 脂 *i* | 微 *i̯əi* | | 脂 *i̯wi* | 微 *i̯wəi* | | | | 之 *i:* | | | | | | | | 支 *iĕ* | | | 支 *i̯wiĕ* | | | 流 | 侯 *əu* | 尤 *i̯əu* | | | | | | | | 幽 *i̯ĕu* | | | | | | 深 | | 侵 *i̯əm* | | | | | | 臻 | 痕 *ən* | 真 *i̯ĕn* | 殷 *i̯ən* | 魂 *uən* | 諄 *i̯wĕn* | 文 *i̯wən* | | | | 臻 *i̯ɛn* | | | 諄 *i̯wɛn* | | | 通 | 登 *əng* | 蒸 *i̯əng* | | 登 *uəng* | 職 *i̯wək* | | | | | | | 東 *ung* | 東 *i̯ung* | | | | | | | 冬 *uong* | 鍾 *i̯wong* | | ## 参考文献 - Huang, Cuibo 黄淬伯. (1931). *Huìlín Yíqiè jīng yīnyì fǎnqiè kǎo* 慧琳一切經音義反切攷. Taipei: Institute of Linguistics, Academia Sinica. - Karlgren, Bernhard. (1915–1926). Études sur la phonologie chinoise. *Archives d’études orientales* 15(1–4). Leiden: Brill. - ⸺. (1922). The Reconstruction of Ancient Chinese. *T’oung Pao* 21(1), 1–42. [doi: 10.1163/156853222x00015](https://doi.org/10.1163/156853222x00015) - ⸺. (1923). *Analytic Dictionary of Chinese and Sino-Japanese*. Paris: Paul Geuthner. - ⸺. (1932). Shï king Researches. *Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities* 4: 117–185. - ⸺. (1933). Word families in Chinese. *Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities* 5: 9–120. - Ku, Ye-ching 葛毅卿. (1932). On the Consonantal Value of 喩-Class Words. *T’oung Pao* 29(1–3): 100–103. [doi: 10.1163/156853232x00041](https://doi.org/10.1163/156853232x00041) - Lamasse, Henri; Jasmin, Ernest. (1934). *La Romanisation interdialectique*. Beijing: Commissio Synodalis in Sinis. - Li, Fang-kuei 李方桂. (1932). Ancient Chinese *-ung*, *-uk*, *-uong*, *-uok*, etc. in Archaic Chinese. *Bulletin of the Institute of History and Philology Academia Sinica* 中央研究院歷史語言研究所集刊 3(3): 375–414. - ⸺. (1935). Archaïc Chinese \*-i̯wəng, \*-i̯wək and \*-i̯wəg. *Bulletin of the Institute of History and Philology Academia Sinica* 中央研究院歷史語言研究所集刊 5(1): 65–74. - Luo, Changpei 羅常培. (1931). Zhī chè chéng niáng yīnzhí kǎo 知徹澄娘音値考. *Bulletin of the Institute of History and Philology Academia Sinica* 中央研究院歷史語言研究所集刊 3(1): 121–158. - ⸺. (1932). An Explanation of the Chinese Phonological terms 釋内外轉. *Bulletin of the Institute of History and Philology Academia Sinica* 中央研究院歷史語言研究所集刊 4(2): 209–226. - Maspero, Henri. (1920). Le dialecte de Tch’ang-ngan sous les T’ang. *Bulletin de l’École Française d’Extrême-Orient* 20(2): 1–119. [doi: 10.3406/befeo.1920.5549](https://doi.org/10.3406/befeo.1920.5549) [^1]: この体系は最初にKarlgren(1915–1926)で構築され、その後Karlgren(1922)で若干の修正が加えられた。 [^2]: 鼻歯擦音 *ńź-* あるいはより単純な *nź-* を含む。 [^3]: ここでは、軟口蓋音や声門音を含む広い意味でこの用語を用いる。 [^4]: Karlgrenは宋代の韻図の4つの等を指すのに、ローマ数字Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ, Ⅳを使用している。α, β, γの文字は、共起する頭子音の種類に基づいて彼が定義した3種類の韻のカテゴリーを指す(Karlgren 1915: 625–626)。α類とβ類の韻は、実際には頭子音によって二・三・四等の単語を持つ。我々の目的では、韻図の等よりも韻の種類について話す機会が多いため、韻の種類として一・二・三・四等の呼称を主に用いる。これらは、宋代の韻図の等とほぼ一致しているが、Karlgrenのα類とβ類に該当する三等は、韻図二・三・四等を含むことに注意されたい。 [^5]: ここでは、*ə* の下の短母音記号を省略している。この母音は、中古漢語において「本質的に短い」とされている。 [^6]: この外転と内転の分類は、韻図におおむね従っている。大まかに言えば、外転はより開いた主母音を持ち、内転はより閉じた主母音を持つ。Luo(1932: 223)参照。 [^7]: IPAの用法との不要な衝突を避けるため、Karlgrenが用いた反転した手書きの「ɑ」に代えて、印刷上反転した「a」を使用するという純粋に図形的な変更を行っている。 [^8]: 特に指定がない限り、末子音 *-m*, *-n*, *-ng* には、それぞれ対応する末子音 *-p*, *-t*, *-k* も含まれるものとする。 [^9]: Karlgrenが *-iəu* と再構したタイプγ類の幽韻については、p. 35を参照。 [^10]: この著作は現存しないが、慧琳の『一切経音義』(800年頃)でその反切が用いられている。後者の著作はHuang(1931)で研究されている。 [^11]: 数字はHuang(1931)の研究におけるページ番号を指す。 [^12]: この著作では、吉 が *ki̯-* ではなく *ki-* として扱われていたと考えられる(Huang 1931: 9)。 [^13]: 『唐写本切韻残巻』を参照。 [^14]: Luo(1931)参照。この論文では、これらの頭子音の音価として、二等韻の前では *ṭ-*, *ṭʰ-*, *ḍʰ-*, *ṇ-* を、三等韻の前では *t̑-*, *t̑ʰ-*, *d̑ʰ-*, *ń-* を再構しているが、この2系列を4種類の音素に統合している。 [^15]: 中古漢語の実用的なローマ字表記システムでは、2つの系列を統合して、その違いを韻に帰属させることができる。例えばLamasse and Jasmin(1934)では、宋代の韻図の4つの等をそれぞれ介音 -∅-, *-e-*, *-y-*, *-i-* で表し、駝, 茶, 治, 地 を *da*, *dea*, *dy*, *di* と書いている。この方法は大抵のケースで有効だが、他の対立ペアには特別な工夫が必要な場合もある。 [^16]: 多くの方言における *na > na* と *ni > ńi* との分岐は、現代の母音によって条件付けられている。 [^17]: 撰 *dẓʰi̯wän²* : 士免切 *dẓʰi²-mi̯än²* のように、韻図の中に適切な位置を見つけるのが不可能な例外もある。しかし、このような「不可能」な単語には大抵、撰 *dẓʰwan²* : 雛鯇切 *dẓʰi̯wu¹-ɣwan²* のように、「可能」な別の読み方が存在する。 [^18]: Karlgren(1923: 6, note 5)は、*wagen* \[waːɣen] に対する *wegen* のドイツ方言 \[weːjen] より適切にを引用することができたはずである。 [^19]: これらの韻を「三等」韻と呼ぶことは循環論法ではない。なぜなら、我々はこれらの数字を、表2における頭子音の出現パターンによって定義されるα類およびβ類の意味で使用しているのであって、介音や母音の音声的性質に関する仮定に基づいて使用しているわけではないからである。 [^20]: Karlgren(1923: 80)は *ꞏe̯i* と書いているが、Karlgren(1933: 28)では *ꞏje̯i* とされている。ちなみに、これは影母が1種類だけなのか2種類あるのかという問いに対する答えを示している。現在の我々の枠組みでは、影母は他の牙喉音とまったく同じように、介音の性質に完全に依存する。例えば、淵 *ꞏiwen¹* には声門閉鎖音の後に広い *i* があり、鳶 *i̯wän¹* には狭い *i* がある。影母 *ꞏ-* を表す反切上字はほとんど区別されているにもかかわらず、最もよく使われる単語 於 が両方に現れるという事実は、於 が *ꞏi̯wo¹* と *ꞏuo¹* という2つの読みを持つことによって説明する必要はなく、明母 *m-*, 疑母 *ng-*, 來母 *l-* における区別の緩さと比較できるものである。狭い *i* の前の *ꞏ-* と他の母音の前の *ꞏ-* との間の音響的な違いがあまりに少ないため、反切上字をこれ以上厳密に分けることができないのである。影母 *ꞏ-* の単語における説明のつかない対立、例えば 餧 (於偽切) ⇔ 恚 (於避切) や 要 (於霄切) ⇔ 妖 (於喬切) など、韻図で三等と四等に区別されているものに関する音声学説明は、𪎮 (許爲切) ⇔ 隓 (許規切) のような他の頭子音における対立の問題とともに、別のところに求めなければならない([p. 220](#3-唇音の開口と合口))。 [^21]: Karlgrenは後にこの点を十分に認識し、韻の区分を趣味の問題と見なした(Karlgren 1922: 20)。 [^22]: Karlgren(1915: 813–814)は誤って *-uâng* に相当する表記を用いている。 [^23]: このような矛盾のさらなる例については、Karlgren(1915: 64)を参照。 [^24]: 例えば、『孟子・滕文公上』の「師死而遂倍之」。 [^25]: これらの合口をKarlgren(1933: 12)は「一次的」と見なしている。 [^26]: ここでは、母音 *a* を中舌母音と見なしており、それに対して *â* は非常に後方の母音であるとする。『広韻』には 乜 *mi̯a²* があるが、これは *mva* には変化していない。『切韻』の断片には 乜 が見られないため、これは *p* > *f* の変化がすでに定着した後に加えられた単語と見なすことができる。 [^27]: この *mi̯əu* や *mi̯ung* (*mi̯uk)* が唇歯音化しないのは、おそらくこれらの韻において、少なくとも流音の後の *i* が比較的弛緩しているためであり、それは『集韻』における介音なしの又音や、現代方言における読みによって裏付けられる。 [^28]: *ɐ* の長さが *ə* と比べて長いというのは、一般的な意味において、外転に属する母音は対応する内転の母音よりも全体として長いという傾向に対するものである。ここで重要なのは、*ə* と *ɐ* の分布パターンであり、実際の長さや音質の微妙な違いではない。これは、*bid* における「短い *i*」の例と比較できる。これは、理論上 \[iː] または \[ij] とされる *Peter* の第一母音よりも、実際には長い場合がある。 [^29]: もちろん呉音は例外であり、それこそが *-ång* という再構の主要な根拠となった。 [^30]: *i̯* の前では *j* と書く。