# Pulleyblank 1993への返答
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:pencil2: 編注
以下の論文の和訳である。
- Baxter, William H. (1994). Reply to Pulleyblank. *Journal of Chinese Linguistics* 22(1): 139–160.
誤植と思しきものは、特にコメントを付加せずに修正した。
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## 0. はじめに
本書『*A handbook of Old Chinese phonology*』(Baxter 1992)に対するPulleyblankの長大な書評(1993)に対して、このような返事をする機会を与えてくれた編集者に感謝している。私の仕事をよくご存知の方なら、私がPulleyblankに恩義を感じていることをよくご存知だろう。実際、彼が書評で批判しているいくつかの点は、今では放棄してしまった彼自身の考えでさえある。もちろん、このような場合、私は彼の現在の立場には同意しないが、彼が自身の仕事を再検討し、以前の提案を放棄しようとする姿勢は賞賛に値する。
しかし、我々は多くの点で意見を異にしていることは明らかである。まず、我々のアプローチの主な相違点と思われる点をまとめ、その具体的な点については、後ほど詳しく説明する。
1. 我々は、再構における類型論の役割について異なる見解を持っている。後述する理由から、私の再構は、世界の言語について私が知り得る限りできるだけ普通に見えるように努めた。例えば、私は次の項目に上古漢語 \*swjin を再構している。
- 荀 *xún* , EMC *swin* (MC *swin*)[^1] < \*swjin 「草の一種」
Pulleyblankはこの単語をOC \*xᶣə̀ŋʲ と再構した。類型論について言えば、彼はこうした形(とそれが含意する変化)の並行例が世界のどこかに見つかりさえすれば、それがどんなに稀なものであっても満足するようである。つまり、彼にとって類型論は、可能な分析の集合を制約する役割が弱いのである。このアプローチの違いが、私とPulleyblankの意見の相違の核心である。
2. 私は本書の第3章で、音韻論やその他の要因がどのように相互作用して押韻の習慣を生み出すかについて、かなり具体的な提案をした。Pulleyblankはこれらの提案を理解していないようで、私が「音韻同一性仮説」と呼ぶもの、つまり音韻同一性が韻を踏むための必要十分条件であるという考えに基づいて上古漢語の押韻を調査したと考えているようだが、この仮説は私が明確に否定している(Baxter 1992: 91–97)。同時に、Pulleyblankは、音韻と押韻の関係を支配する原理がどのようなものであったと考えているのか説明していない。ある場合には、(現代官話のように)音声的には異なっていても音韻的には同じであるために韻を踏むという。またある場合には、(EMCのように)音韻的には異なっていても音声的には同じであるために韻を踏むという。その結果、彼の再構が押韻についてどのような予測をするのか事前に知ることは難しい。そのため、押韻の証拠が可能な分析の範囲を限定する力は弱まっている。
3. 本書の中心的な主張の一つは、清代の優秀な中国人研究者による上古漢語の押韻の分析は、彼らが発見したものと同じくらい経験的に妥当な韻部の区別を数多く見落としているため、上古漢語の再構は清代の研究者の分類ではなく、押韻の証拠そのものに基づくべきだということである。この証拠の大幅な再評価についてPulleyblankがほとんど述べていないのは驚きである。ある箇所では、「私の立場は、伝統的な韻部の分析は基本的に正しいというものである」(1993: 369–370)と述べているが、なぜそう考えるのかについては述べていないし、それに対する私の批判にも触れていない。彼は、押韻の証拠に関して私が正しいとしても、上古漢語の母音が2つしかないという考えは依然正しいかもしれないと暗に言っているようである(これについては後述)。もし上古漢語の再構が押韻の証拠の大幅な再分析の影響を受けないのであれば、それは再構が反証可能な予測をより少なくすることを意味するので、強みではなく弱みだと私は考える。
これらの点のいくつかは、後述するより詳細な議論の中で再び出てくるであろう。以下、(1)方法論的問題、(2)中古漢語に関する問題、(3)上古漢語に関する証拠の解釈、に分けて述べる。
## 1. 方法論的問題
Pulleyblankは、上古漢語の再構に関する彼自身の現在の考えについて完全な説明を発表していないが、彼が考える4つの「上古漢語の満足のいく再構のための必要条件」について言及し、それをPulleyblank(1992)で詳しく論じている。
1. 利用可能な最良の言語理論の使用
2. 上古漢語の再構に不可欠な基礎としての、中古漢語の正しい再構
3. 再構の指針としての類型論の役割
4. 特定の証拠に特権的な地位を与えない、利用可能なすべての証拠の使用(Pulleyblank 1993: 2)
各ポイントについて簡単に議論しよう。
### 1.1. 音韻理論の役割
Pulleyblankは、私の音韻理論に対する主な不満は、私自身が述べている原則に従っていないことだと述べている。この発言は主に私の中古漢語表記法に向けられたものであるうが、この問題については§2で詳しく述べる。それはさておき、本書(Baxter 1992: 17–18)で述べたことを繰り返すが、音韻理論における現在の論争が、私の結果に実質的な影響を与えるとは思えない。また、現在知れ渡っている特定の理論が、理論的根拠だけで上古漢語再構の重要な点を決定できるほどの成功を収めているとも思えない。私が思うに、我々が抱えている問題のほとんどは、理論的な洗練の欠如というよりも、むしろ証拠の欠如に起因している。このような理由から、本書ではかなり保守的で議論の余地のない理論的前提を用いた。また、私が提案する体系は、わずかな調整を加えるだけで、おそらくほとんどすべての合理的な音韻理論に適合するように再定式化できると信じている[^2]。
しかし、Pulleyblankと私の意見が決定的に異なる理論的な点がひとつある。それは、表層の音声形式と、その基底にある音韻表現との関係である。私の考えでは、音韻表現は、普遍文法が定める範囲内で、言語学習者が聞き取ったデータから構築される。言語学習者は言語の音韻論にアクセスすることができないため、その初期段階も後期段階もこのプロセスには関係がない。言語学習者は、音声的に似ていて相補的に分布している音を、一つの音韻要素の変種として扱うことがあり(例えば、官話の音節の *zī*, *cī*, *sī* と *zhī*, *chī*, *shī* における \[ẓ] と \[ṛ])、また、形態的交替が示されると、さらに抽象的な表現を構築することがある。
しかしPulleyblankは、それを正当化するような形態的変化がない場合であっても、表出形とはまったく異なる基底形を設定している。例えば、Pulleyblank(1984)の書評で取り上げたケースでは、彼は 言 *yán* 「話す、話」のような単語の初期中古漢語の形を、低母音 /a/ を伴う /ŋɨan/ と分析している。しかしこの単語は、EMCの時代には、彼が中段母音 /ə/ を伴って再構した 痕 *hén* EMC /ɣan/ 「傷跡」や 魂 *hún* EMC /ɣwən/ 「霊魂」といった単語と韻を踏む。Pulleyblank(1993: 350)はこれを次のように説明している。
> 私の主張は、二重母音 *-ɨa-* と *-ua-* の第2モーラを形成する基底 \[+low] 母音は、先行する高母音によって音声的に高くなり、音響的に *-ən* と *-wən* の中段シュワー母音に近くなったのだろうというものである。
もしPulleyblankの /ɨa/ と /ua/ が \[ɨə] と \[uə] に「音響的に近い」(おそらく、この時期には韻を踏まない /an/ と /wan/ よりも音響的に近い)のであれば、なぜこの言語を習得する子供は、(そうしなければこの体系には存在しない) /ɨə/ と /uə/ 以外の音韻表現を考えついたのだろうか。子供は、これらの単語が上古漢語で母音 \*a を持っていたことを知ることはできない。言語学習者をこのような分析に導く普遍文法の原理について、Pulleyblankは明言していない。むしろPulleyblankの分析は、全ての言語を /a/ と /ə/ の2つの母音しか持たないものとして分析しようとした以前の試みの名残のように見える。私はそれを「利用可能な最善の言語理論」とは考えていない[^3]。
### 1.2. 中古漢語の正しい理解
私の中古漢語の扱いに対するPulleyblankの具体的な反論については、以下で詳しく述べる。ここでは単に、いくつかの一般的な点を指摘したい。
当然ながら、上古漢語を研究する際には、中古漢語について得られる最善の情報を利用すべきである。しかし、中古漢語の音韻論(ひいては上古漢語の音韻論)についての我々の知識が常に不完全であることも、議論の余地はないだろう。もし、中古漢語の知識が不完全であることが上古漢語の再構の失敗を意味するのであれば、我々の未来は実に暗いものである。
しかし、インド・ヨーロッパ語の例は我々に勇気を与えてくれるはずだ。ギリシャ語、サンスクリット語、その他の重要な初期のインド・ヨーロッパ諸語の音韻論の多くの側面については、今日でも確実にはわかっていない。しかし、インド・ヨーロッパ祖語の音韻論に関する信頼できる情報の多くは、その娘言語についてあまり知られていなかった(さらに言えば音韻理論自体も洗練されていたなかった)19世紀には既に発見されていたものである。
我々が再構の際に犯す可能性のある誤りの種類を考える上で、我々が未解決のまま保留している疑問と、誤った答えを出している疑問とを区別することは、おそらく有益であろう。「自分を傷つけるのは、知らないことではなく、知らないことを知っていると思い込むことだ」という古い格言がある。疑問を残したままにしておけば、根拠は少なくなるかもしれないが、少なくとも誤った思い込みによって道を踏み外すことはないだろう。だらかこそ私は、中古漢語の重紐対立の正確な音声的性質や、どのケースで上古漢語の \*-ing を再構するかといった問題を、ある程度未解決のままにしてきたのである。
音声学的な疑問点を未解決のままにしておくことは、Pulleyblankが批判した、音韻的対立だけを調べて音声的実現を無視する、純粋に「代数的」なアプローチを採用するということではない。代わりに、しばしば現実を単純に認識する。歴史言語学では、音韻的対立に関する情報はすぐに手に入るかもしれないが、音声に関する情報ははるかに少ない。このような場合、特定の音声解釈を採用するのは時期尚早かもしれない。(Pulleyblankが李方桂の中古漢語表記に対する批判で述べたように)音声解釈を未確定のままにしておくことを「厭わない」のではなく、むしろ、知らないことを知っているかのように振る舞うことを避けるのである。
加えて言えば、「中古漢語を正しく理解する」ということは原理的に何を意味するのか明らかではない。Pulleyblank(1962: 65, 1984: 134)自身は、『切韻』の音韻体系が必ずしも単一の方言の音韻論を正確に代表しているわけではなく、おそらく2つ以上の異なる方言が混在していると述べている。私も同感である。議論の便宜上、この方言をAとBと呼ぶことにする。方言Aと方言Bは、音声的にも(=ある音韻要素の音価に関して)、音韻的にも(=音韻的対立に関して)異なっていた可能性がある。したがって、完全に指定された単一の再構では両方の方言を一致させることはできない。そのような再構が「正しい」かどうかは、どのように判断すればいいのだろうか。これが、特定の自然言語の音韻体系を表すと主張する再構ではなく、『切韻』の体系の慣例的な転写(『切韻』そのものと同じように、少なくとも2つの音韻体系が混ざり合ったものであり、必然的に曖昧な部分が残る転写)を使用した理由の一つである。
### 1.3. 類型論の役割
歴史言語学における類型論の使い方に関する私とPulleyblankとの相違点は、既に要約したとおりである。Pulleyblankは、既知の人類の言語のどこかに並行する特徴が見つかれば、再構された特徴は類型論的に満足できるものであると考えているようである。そのため彼は、上古漢語は通常再構されるよりも母音が少なく(2つ)子音がはるかに多い(いくつかはわからない)という見解を、同様のパターンを持つ北西コーカサス諸語を引き合いに出して支持している。
私の考えでは、類型論はこれよりも強い役割を持つべきである。再構の候補に選択肢があれば、類型論的な観点から最も普通と思われるものを再構すべきである。これは、私が上古漢語には変わった特徴がなかったという内部情報を持っているからではない。むしろ、類型論的に普通の分析が存在すればそれを見つけ、証拠がそれを必要とする場合にのみ、類型論的に異常な特徴を再構するように設計された発見的原理なのである。
例えば、伝統的な陽部の単語は、耕部の単語とは(通常)韻を踏まないという事実がある。私は、陽部に \*-ang を再構し、耕部に \*-eng を再構することで、このこと(およびこれらの単語の後の反射)を説明している(私の \*-ng はIPA \[ŋ] を表す)。一方Pulleyblankは、陽部に \*-aŋ を、耕部に \*-aŋʲ を再構している。この2つの解決策の主な違いは、私が前舌特徴を主母音に置いているのに対し、Pulleyblankはそれを末子音に置いている点である。
私は、現代アルファベット転写以外に、この2つの分析のどちらにすべきか決定するための経験的証拠があるとは思えない。\*-aŋʲ に関わる音変化、押韻パターン、規則的な対応はすべて、\*-eng に適用されるように書き換えることができ、逆もまた同様である。その上、Pulleyblankの \*-aŋʲ は、彼の他の議論から判断すると、表出する音声形とはまったく異なるかもしれない基底形を表しているので、現代アルファベット転写でさえ、この問題を決定することはできないかもしれない。また、私の \*-eng よりもPulleyblankの \*-aŋʲ を好むような理論的原理も、Pulleyblankが上古漢語は2つの母音だけで再構した方が見栄えが良いと確信していること以外には知らない。
このような場合、私は類型論的な理由から、\*-aŋʲ という分析よりも \*-eng という分析を好む。\*-aŋʲ がデータと矛盾しているとか、不可能だとかいうことではなく(他の言語にも並行例は見つかるはずだ)、単に \*-eng の方が一般的であり特別ではなく、また、もし見つけることができたのならば、普通に見える解決策を選ぶべきだと私は考えているということである。
### 1.4. 「全て」の証拠の使用
言語史を再構する際には、利用可能な全ての証拠を利用すべきだと強調するPulleyblankの主張は、伝統的な資料である韻書、韻図、『詩経』の押韻、諧声関係だけでなく、外国語の転写や借用語、その他の種類の証拠の利用を正当化するものだと思わる。この点に関しては、Pulleyblankにまったく異論はないと考えている。しかしそのような証拠は、上古漢語の時代に関して利用できるものはほとんどないため、上古漢語の再構には極めて間接的な方法でしか利用できない。
また、チベット・ビルマ語の証拠を時折参照することには反対しないが(Baxter 1992: 25–26)、上古漢語とシナ・チベット祖語を混同しないように注意しなければならない。この問題については、§3.3で後述する。
最後に、入手可能な証拠を全て利用するという彼の公約からすれば、Pulleyblankが『詩経』の押韻の証拠にほとんど注意を払わず、伝統的な韻部の分析を額面通り受け入れることで満足しているのは残念なことである。
## 2. 中古漢語に関する問題
Pulleyblankは書評の大部分を中古漢語に関する問題に割いている。本書は、中古漢語の包括的な再構を試みたものではない。確かに、上古漢語の適切な再構のためには、中古漢語の全ての対立を説明できなければならない(たとえ単一の共時的体系がそれらの対立のすべてを持っていたわけではなかったとしても)。だからこそ私は、人為的な手段を使ってでも、こうした対立をすべて表現する中古漢語の表記を選んだのである。
音声の詳細を正しく理解することの重要性について、中古漢語における誤った音声解釈が上古漢語の再構を誤らせる可能性があることは否定しない。Karlgrenは、中古漢語の有声閉鎖音を *bʻ-*, *dʻ-*, *gʻ-* などの有気音として再構した結果、実際には存在しない音韻パターンの空白があると認識し、それを上古漢語の \*b-, \*d-, \*g- などの有声無気音で埋めることになった。しかし、中古漢語の音声に関する多くの議論は、上古漢語にとってほとんど意味がなく、そのため本書では取り上げなかった。例えば、『切韻』の模韻の母音が \[u], \[o], \[ɔ] のどれであったとしても、上古漢語を再構する場合にほとんど違いはない。この母音が上古漢語の \*a を反射していることは明らかである。また、中古漢語の方言によってこの音価が異なっていた可能性も十分にあるが、それらは全て上古漢語の \*a に由来する。
### 2.1. 中古漢語の表記
私が免責事項を示したにもかかわらず、Pulleyblankは私の中古漢語表記をあたかも中古漢語の音韻分析であるかのように扱っている。彼は、私が自分自身の理論的原理を「明白に」無視しており、この体系は「昔ながらの意味で厳密な音素主義を装っているわけでもなく」、私が「使用する文字が「弁別的特徴の塊」を表していると言う根拠はさらに乏しくなっている」と述べている。これは全く間違っていると言わざるを得ない。この体系は音素を意図しておらず、文字は単なる文字であり、弁別的特徴の塊を表すことを意図していない。これは、伝統的な中国の資料(韻書と韻図)における対立を、簡便かつ有意義な方法で表現したものである。これは中国語による伝統的用語が(摂、声母(頭子音)、韻、等、声調の名称を並べることで)伝える情報と同じであるが、専門家でなくても混乱しにくい、より把握しやすい形になっている。このことは、本書の第2章に明確に記されていると思う。
> ここで提案する中古漢語転写は、中国語の共時的な状態の再構を意図したものではないことを再度強調しておく。この表記の多くは、伝統的な中国音韻学で認められる対立を、多かれ少なかれ恣意的に表現したものにすぎない。実際、『切韻』がおそらく単一の方言に存在していたものよりも多くの対立を表現していたという事実を考えると、……真の言語学的な再構は、そうした対立の全てを含むものであってはならないのかもしれない。提案する表記法は、ネイティブによる伝統的言語学が各単語に与える音韻情報を、コンパクトかつ合理的に現実的な形で表現するものである。(Baxter 1992: 30–31)
これは本当に真実である。この体系は、私が実際に信じている分析を、それを擁護することなく読者に押し付けようというものではない。私自身はあまり信じていないからである。つまり、私の表記を音韻分析であるかのように扱うことに基づいている、私の中古漢語の扱いに対するPulleyblankの反論のほとんどは、単に無意味なのである。
私が守ろうとした原則は、専門家の間でコンセンサスが得られている場合には、それに従うようにするというものだった。コンセンサスが得られていない場合は、覚えやすい任意の慣例を使用した。さらに言えば、混乱を招く発音区分記号を持たない、タイプライターで入力可能な体系でなければならない。
例えば、私は 密 *mì* 「密な」を MC *mit*、蜜 *mì* 「蜂蜜」をMC *mjit* と書いている。私の知る限り、どちらの単語も \[m-] で始まり \[-t] で終わることは議論の余地がないので、そのように表記する。主母音が \[i] であったことも、今ではおそらくほとんどの専門家が認めるところであろうから、これもかなり現実的である。しかし厳密に言えば、この「*-it*」は、どちらの単語も『切韻』の質韻に見られるということだけを意味している。*-j-* の使用は以下の慣例に基づいている。(1) *-i-* または *-j-* (または *-y-*;慣例として後続する *-j-* は冗長なため省略される)のいずれかを伴って表記される音節は、広い意味での「三等」韻、つまりPulleyblankがタイプBと呼ぶ音節である。(2)重紐の対立がある韻では、*-j-* と *-i-* を両方含む音節は四等であり、*-i-* または *-j-* のどちらか片方のみを含む音節は三等である。これは重紐対立の音韻分析を意図したものではなく、単に対立を認識するための便宜的手段である。しかし、少なくともPulleyblank自身の分析を彷彿とさせる、記憶上の利点もある(この2つの特殊なケースにおいては、私の表記は偶然にもPulleyblankの再構と同じである)。
これは楔形文字の研究で使われている「翻字」の体系に類似しているかもしれない。この体系では、楔形文字の各符号は固有の慣例的転写によって表記される。音節 /šu/ を綴る異なる記号は、それぞれ *šu*, *šú*, *šù* などと表記される。同じテキストを転写する場合、学者によって詳細な音韻解釈が異なっていても、基本的には同じように転写される。また、*u*, *ú*, *ù* を音韻分析の要素とすることは無意味である。
本章の残りの部分では、上古漢語の再構に実際に関連する、中古漢語の再構における2つの密接に関連した問題を扱うことにする。すなわち、Pulleyblankが「タイプA音節」と「タイプB音節」と呼ぶものの区別と、重紐の対立についてである。
### 2.2. タイプA, B音節の区別と重紐の区別
中古漢語の音節は、ほぼ同じ大きさの2つのグループに分けることができ、PulleyblankはこれをタイプA、タイプBと呼んでいる。この2つのタイプの特徴は、2つの異なる頭子音セットを持つことと、韻図における扱いが異なることである。タイプB音節は、少なくとも部分的に韻図三等に現れる韻に見られるが、タイプA音節は一等・二等・四等のみに現れる。このため、タイプB音節は「三等」音節とも呼ばれる。
KarlgrenはタイプB音節を、上古漢語においてわたり音 \*-i̯- を持つ音節として再構し、その後この考えが一般的となっている。しかし、この説明には多くの異論があり、Pulleyblankはこの分析を批判し、上古漢語と(初期・後期)中古漢語の両方について代替分析を提案している。
私のOC \*-j- はKarlgrenの \*-i̯- にほぼ正確に対応しており、*-j-* は私の中古漢語表記におけるタイプB音節の記号の一つでもある。そのため、Pulleyblankが、この問題に関して私が伝統主義者の側に立っていると見るのも無理はないだろう。実際には、私はこのどの時代についても、タイプB音節に音素 \[j] を再構することに固執しているわけではない。私が上古漢語の再構にこの音素を保持しているのは、少なくとも一応の根拠があり、また私の知る限り、代替分析のうちのいずれかが他よりも優れているという確かな証拠が無いからである。一応の根拠となるのは、タイプBに影響を与えたがタイプAには影響を与えなかったとされる音変化、すなわち歯音(場合によっては軟口蓋音)の頭子音の口蓋化と、一部環境における母音の前進である。以下はその例である(「EMC」の形はPulleyblank自身の再構であることに注意)。
:spiral_note_pad: **表1: 歯音と軟口蓋音の口蓋化**
| | タイプA: 通常の頭子音 | | タイプB: 硬口蓋の頭子音 |
| :--- | :----------------------------- | :--- | :-------------------------------- |
| 乃 | \*nɨʔ > EMC *nəjˊ* (MC *nojX*) | 而 | \*njɨ > EMC *ɲɨ* (MC *nyi*) |
| | そして | | そして |
| 單 | \*tan > EMC *tan* (MC *tan*) | 蟬 | \*djan > EMC *dʑian* (MC *dzyen*) |
| | 単一の | | 蝉 |
| 倪 | \*nge > EMC *ŋɛj* (MC *ngej*) | 兒 | \*ngje > EMC *ɲiə̆* (MC *nye*) |
| | 幼くて弱い | | 子供 |
タイプAとタイプBを区別するもう一つの変化は、タイプAの高母音が低くなったことである。一方、タイプBの単語の高母音は高いままであった。
:spiral_note_pad: **表2: 高母音の低化**
| | タイプA: 中母音 | | タイプB: 高母音 |
| :--- | :------------------------------ | :--- | :------------------------------- |
| 堅 | \*kin > EMC *kɛn* (MC *ken*) | 臣 | \*gjin > EMC *dʑin* (MC *dzyin*) |
| | 固い | | 奴隷 |
| 殄 | \*dɨnʔ > EMC *dɛnˊ* (MC *denX*) | 珍 | \*trjin > EMC *trin* (MC *trin*) |
| | 絶やす | | 貴重な |
| 跌 | \*lit > EMC *dɛt* (MC *det*) | 失 | \*hljit > EMC *ɕit* (MC *syit*) |
| | つまずく | | 失う |
これらの変化は、おおよそ漢代まで遡ることができる。少なくともその時代については、タイプBの単語における、頭子音を口蓋化し、本来なら下がるはずの母音を高く保つという特徴を \*-j- として再構することは、非常に自然な解決策であり、軽々しく放棄すべきではない。
しかし、この \*-j- は異常に頻度が高く、チベット・ビルマ語の同源語には現れないようで、形声文字や外国語の転写では無視されることが多いというのも事実である。このことは、\*-j- の一部または全てが、他の何か、おそらく何らかの韻律的特徴(Pulleyblank 1962で当初示唆されたもの)から二次的に発展した可能性を示唆している。Starostin(1989: 325–329)とZhengzhang(1987)は、タイプA音節はチベット・ビルマ諸語の長母音音節に対応すると主張し、上古漢語のタイプA音節に長母音を再構している。「韻律的」分析の中では、これが最も有望だと思われる。また、初期の詩がこの特徴を利用していた可能性も確認しておくべきだろう。
音節前半アクセントと音節後半アクセントとの対立であるというPulleyblankの提案を頭ごなしに否定することはできないが、類型論的には奇妙に思える。少なくとも私は、このような挙動を示す単音節言語も、そのような分析を示唆する証拠も知らない。
まとめると、少なくとも漢代には、いくつかの音変化における自然な条件付け要因として \*-j- を再構するのに十分な根拠がある。私は、これが以前の韻律的特徴の反射である可能性はかなり高いと考えるが(私の上古漢語 \*-j- は時代錯誤かもしれない)、Pulleyblankが提唱するような特殊な音声解釈を支持する証拠は見当たらない。
私は本書の主題にとって極めて重要であるとは考えなかったため、中古漢語におけるA/Bの区別と重紐の区別の正確な音声的性質については、決定的な解答を示そうとはしなかった。この決定を支持するために、私は重紐の区別に関する2つの異なる代表的分析を概説し、どちらの分析であってもほとんど問題なく私の再構から導き出せることを示した(1992: 282–287)。第一の分析では主母音に区別を置き、第二の分析では母音前 \[i̯] と \[ɨ̯] (または \[ï̯])の区別と解釈する。本書では(私の目的には関係ないことを示すため)好みを明言しなかったが、私は有坂秀世と河野六郎の分析に基づく(そしてPulleyblank 1962で採用された分析に類似する)第二の分析を好む。Pulleyblankの現在の分析はこれとは異なっているが、PulleyblankがKarlgrenの再構に対して向けている多くの批判は受け入れることができない。実際には、この問題に関する私の見解とPulleyblankの見解の違いはそれほど大きくない。そのことを示すために、私がA/Bの区別と重紐の区別の歴史をどのように見ているかを概説し、私が理解しているPulleyblankの見解と比較する。
1. 前述したように、A/Bの区別は韻律的対立、おそらく母音長(Aは長母音、Bは短母音)の対立として生まれた可能性が高いと私は考えている。Pulleyblankはこれを音節内のアクセント位置の対立と見ている。
2. 次の段階は、タイプB音節における母音前わたり音 \*-j- の発達であり、これが前述したさまざまな変化を条件づけた。Pulleyblankの解釈では、第1段階の後に主母音の前に \[ɨ] が挿入された。つまりこの時点で、私が \*-j- を再構したところにPulleyblankは \[ɨ] を持っている。前述したように、口蓋化と母音変化は \*-j- の方がより自然に説明できると思われるが、それ以外は2つの分析に大きな違いはない。
3. 次の段階では、\*-j- は後続の母音と先行する子音によって条件づけられた一連の同化を受ける。例えば軟口蓋音と後舌母音との間では、言 \*ngjan > \[ŋɨ̯an] > \[ŋɨ̯ʌn] のように、有坂式のわたり音 \[ɨ̯] となる。しかし \*-rj- の組み合わせは、常に \[ɨ̯] を与える。その結果、前舌 \[i̯] と後舌 \[ɨ̯] は前舌母音の前でのみ対立的となり、『切韻』における重紐の区別の基礎となる。すなわち、重紐三等は \[ɨ̯] を、重紐四等は \[i̯] を持つ。
Pulleyblankの場合、\[ɨ] は複雑な変化を経て、ある環境では \[i] や \[u] に変化し、別の環境では \[ɨ] が維持される。場合によっては \[i] の前に \[j] が挿入される。しかし基本的に言えば、Pulleyblankの解釈では、特定の環境において前進(または円唇化)する \[ɨ] から始まるのに対して、私の解釈では、ある環境では後退する前舌 \*-j- から始まる。例えば、Pulleyblankが \[u] を持つところに、私は通常 \[wɨ̯] か \[ɨ̯] を持つ。
4. 次の段階では、いわゆる「純」四等韻における \[e] が \[je] に変化し、元々の \[je] と融合する。すなわち、元々の「純」四等音節 \*pen は \[pjen] となり、重紐四等音節の \[pjen] と合流した(Pulleyblankの場合、この変化は \[pɛn]> \[pjian] である。)。この時点で、\[pjen] (四等)や \[pɨ̯en] (重紐三等)のような音節は存在したが、\[pen] のような音節は存在しなくなった。
5. \[pen] のような音節がなく、\[ɨ̯] の分布が限定的であることから、おそらく \[pɨ̯en] は /pen/ として再分析され、事実上、\[ɨ̯] は前舌母音の前で失われた。おそらくこれが(あるいはその前の段階かもしれない)韻図で表現されている段階であり、Pulleyblankが言うように、硬口蓋わたり音で特徴付けられているのは三等(私の /pen/、彼の /pian/)ではなく四等(私の /pjen/、彼の /pjian/)である。
私の上古漢語の再構が、Pulleyblankのものと非常によく似た重紐の区別の分析にかなり適合していることは、読者にもおわかりいただけると思う。さらに、タイプB音節に(少なくともある段階で) \*-j- を組み込んだ分析は、韻図の解釈におけるKarlgrenの誤りに対するPulleyblankの批判を受ける必要はない。
## 3. 上古漢語に関する問題
Pulleyblankが私の上古漢語再構に対して提起した主な反論は、様々な種類の証拠をどのように解釈すべきかということに関連している。これらの問題について、以下の各節で論じることにする。
### 3.1. 押韻の証拠
前述したように、Pulleyblankは押韻に関する私の議論の大半を誤解している。最も重要なことは、私は音韻同一性に基づく押韻が最も自然なケースであると主張しているが、上古漢語の押韻に関する私の議論は、私が「音韻同一性仮説」と呼ぶものに依存していないということである。私は、2つの形が韻を踏む場合、その韻の部分が音韻的に同一でなければならないとは考えていない。私が想定しているのは、韻を踏まない形は音韻的に異なっているということである(Baxter 1992: 95–96参照)。私は、この音韻の違いを主母音かそれに続く子音のどちらかに位置づけるのが最も自然だと考えるが、この選択を左右するのは押韻の証拠そのものではなく類型論的考慮である。
具体的な例を挙げると、私の分析によれば、従来の文部は、私が \*-ɨn と \*-un として再構した2つのグループにきれいに分割することができ、\*-ɨn と \*-un との間の不規則的な押韻は極めて稀である(多くの伝統的韻部間の叶韻よりも稀)。これらの韻を \*-ən と \*-wən と書いて、後者の \*-w- が押韻に影響したと言うこともできるかもしれない。しかし、そもそも両者を \*ə で再構する唯一の理由は、両者が同じ韻部に属すると信じられていたからである[^4]。私は、押韻が下位音素の区別を認識することはめったにないと述べた(1992: 93)。しかし、私はそのようなケースを「可能な限り」すべて「否定しようとしている」わけではないし(1993: 353)、私の理論における「非常に重要な点」でもない。例えば、私の6母音体系は、\[front] と \[round] の特徴を左右の分節に押し出すことで、Pulleyblank式の2母音体系に置き換えることができる(さらに複雑な解決策として、前舌性・円唇性の分節が場合によって左側にあったり右側にあったりするような体系も可能である)。
$$
\begin{bmatrix}
\text{i} & \text{ɨ} & \text{u} \\
\text{e} & & \text{o} \\
& \text{a} &
\end{bmatrix}
⇒
\begin{bmatrix}
\text{jə} & \text{ə} & \text{wə} \\
& & \\
\text{ja} & \text{a} & \text{wa}
\end{bmatrix}
or
\begin{bmatrix}
\text{əj} & \text{ə} & \text{əw} \\
& & \\
\text{aj} & \text{a} & \text{aw}
\end{bmatrix}
$$
私がこのような体系を採用しない理由は、下位音素による押韻の区別を禁止する一般原理に基づくことで、6母音体系が押韻の証拠と一致する唯一の解決策であることを証明できるからではない。私が6母音体系を再構するのは、それがデータをよく説明し、どのバージョンの2母音体系の代替案よりも自然で、類型論的に普通だと思えるからである。
口蓋化または唇化特徴を、主母音そのものではなくその左右の分節に帰属させる分析については、もう一つ指摘すべき点がある。この分析は、アドホックに分節を追加するか、子音の数を増やすことでしか達成できないのである。もし、頭子音に唇音を持つ単語が常に円唇母音と韻を踏んでいるのであれば、押韻は頭子音の影響を受けていると考えることができるだろう。しかし、実際にはそうではない。母音の円唇性と頭子音の円唇性は独立している。次のペアを考えてみよう。
- 發 *fā* < EMC *puat* (MC *pjot*) < \*pjat 「発する」
- 髮 *fà* < EMC *puat* (MC *pjot*) < \*pjot 「髪」
両者は中古漢語では同音であるが、『詩経』では別々に韻を踏む。發 *fā* は \*-at として何度も韻を踏んでいる(『齊風・東方之日』99.2、『檜風・匪風』149.1、『豳風・七月』154.1、『小雅・蓼莪』202.5、『小雅・四月』204.3、『大雅・烝民』260.3、『商頌・長發』304.2)。髮 *fà* は『小雅・都人士』225.2で一度だけ韻を踏んでいるが、これは明らかに \*-ot の韻列である。
- 撮 *cuō* < EMC *tsʰwat* (MC *tshwat*) < \*tshot
- 髮 *fà* < EMC *puat* (MC *pjot*) < \*pjot
- 説 *yuè* < EMC *jwiat* (MC *ywet*) < \*ljot
さらに、髮 *fà* が属する諧声系列(Karlgren 1957 #276)は一貫して \*-ot(s) を示すようである。この系列で韻を踏んでいるもう一つの単語は 拔 *bèi* である。
- 拔 *bèi* < EMC *bajʰ* (MC *bajH*) < \*bots 「間引かれた」
この単語は『詩経』において二度、いずれも \*-ots として韻を踏んでいる(『大雅・緜』237.8、『大雅・皇矣』241.3)。この文字にはもう一つの、おそらく語源に関連した、より一般的な読み方がある(どちらの形も、語源的に 髮 *fà* 「髪」と関連している可能性がある)。
- 拔 *bá* < EMC *bəɨt* (MC *bɛt*) < \*brot 「根本から引き抜く」
この形は『老子』第54章で \*-ot として韻を踏んでいる(Baxter 1992: 413)。
- 拔 *bá* < EMC *bəɨt* (MC *bɛt*) < \*brot
- 脱 *tuō* < EMC *tʰwat* (MC *thwat*) < \*hlot
- 輟 \[*chuò*] < EMC *trwiat* (MC *trjwet*) < \*trjot
これらの押韻の区別は、唇音の頭子音に起因するものではない。Pulleyblankの体系では、この押韻の証拠を説明するためには 發 \*pàt ⇔ 髮 \*pwàt の対立を再構しなければならないようだ。同様に、唇化軟口蓋音の円唇性は、後続母音の円唇性とは相関しない。
Pulleyblankはまた、漢代の押韻を用いて私の母音体系に反論している(1993: 372–373)が、これは音韻同一性仮説を受け入れた場合にのみ「難点」となるもので、Pulleyblank自身は音韻同一性仮説を認めていないし、私も認めていないことに注意されたい。私は、漢代に \*e と \*a、あるいは \*i と \*ɨ が何らかの理由で韻を踏んでいたと考えても全く構わないし、もしPulleyblankもそうなら、漢代の押韻は、彼が私の再構を受け入れる上で何の障害にもならないはずである[^5]。
### 3.2. 形声文字の証拠
Pulleyblankは、私の体系が1つの諧声系列に2つ以上の母音を再構しなければならなくなる多くのケースを「難点」として挙げている。彼が挙げた個々の例のほとんどは本書で論じているため答えるつもりはないが、ここでは伝統的な韻部の分析に基づく再構でも同じことが言えるということを指摘しておく。GSR(Karlgren 1957)を調べると、183 㒼, 222 免, 227 員, 231 專, 235 雋, 251 言, 260 夗, 276 犮, 304 曰, 354 妥, 355 衰, 433 巽, 443 斤, 450 寅, 453 㐱 の系列でPulleyblankの \*ə と \*a が諧声関係を持つことがわかる(もちろん、母音が少なければ少ないほど、このようなケースは少なくなる;1母音による分析であれば、完全に取り除くことができる)。関連する音変化に関する一連の仮説があれば、場合によっては不規則的な例がどのようにして生じたかを発見することも可能である。しかし、形声文字に関して(明らかに誤った)「音韻同一性仮説」を採用しようとしない限り、このような不規則的な例の存在は、他の誰にとってもそうであるように、私の再構にとっても問題ではない。
### 3.3. シナ・チベット語の証拠
Pulleyblankと私は、チベット・ビルマ語の証拠が上古漢語の再構に役立つという原理については一致していると思う。しかし私は、上古漢語とシナ・チベット祖語は概念的に区別されるべきであると強調したい。チベット・ビルマ諸語がある種の対立を持っていたり、ある形にある音を持っているという事実は、上古漢語にも同じことが当てはまるという証拠にはならない。2つの例を挙げよう。
第一に、私が上古漢語に末子音 \*-j を再構するところに、Pulleyblankは \*-l を再構している。彼は、私の \*-j が チベット・ビルマ語の \*-l の形に対応する可能性のある例を指摘することで、この議論を支持している(1993: n. 10)。しかし、仮に私の \*-j がチベット・ビルマ語の \*-l に規則的に対応するとしても、それは上古漢語の \*-j を否定する議論にはならない。それは、ゲルマン祖語の \*f- はインド・ヨーロッパ語族の他の支流の \*p- に対応するから、それを再構するのは間違っていると言っているようなものである。実際、状況は非常によく似ている。ゲルマン諸語が一般的にゲルマン祖語の \*f に対して \[f] を持ち、決して \[p] を持たないのと同様に、私の \*-j にゼロ以外の反射を示す中国語のすべてのバージョン(および私がよく知るすべての転写証拠)は \[i] または \[j] を持ち、決して \[l] を持たないのである。
加えて言えば、上古漢語の \*-j とチベット・ビルマ語の \*-y が、規則的なシナ・チベット語間の対応であることを示す十分な証拠があると思う。本書で多くの例を挙げたが(1992: 297)、Pulleyblankは説得力がないと考えているようなので、ここでさらにいくつかの例を挙げよう。
- 差 *cuō* < EMC *tsʰa* (MC *tsha*) < \*tshaj 「こする」 \
磋 id. 「こする、ヤスリをかける、磨く」 \
ルシャイ語 *chhǎi* 「愛撫する;~に対して愛情深く行動する」
- 坡 *pō* < EMC *pʰa* (MC *pha*) < \*phaj 「斜面;土手」 \
頗 id. 「傾いた、斜めの」 \
ルシャイ語 *pǎi* 「まっすぐでない、一直線でない、斜めである、曲がっている、斜めである、秩序がない、正しくない」
- 議 *yì* < EMC[^6] *ŋiə̆ʰ* (MC *ngjeH*) < \*ng\(r)jajs 「議論する、検討する、計画する」 \
ルシャイ語 *ngāi* (*ngaih*) 「考える、考慮する、計算する、意見する、信じる、推測する」
- 尾 *wěi* < EMC *mujˀ* (MC *mjɨjX*) < \*mjɨjʔ 「尾;交尾する」 \
PTB \*r-may 「尾」(Benedict 1972 #282)
- 回 *huí* < EMC *ɣwaj* (MC *hwoj*) < \*wɨj 「回る、転回する、戻る」 \
PTB \*waːy 「渦巻く、振り回す、波打つ」(Benedict 1972 #90)
- 飢 *jī* < EMC *ki* (MC *kij*) < \*krjɨj 「飢え;飢える」 \
チベット語 བཀྲེས་ *bkres* 「腹が減る、飢える」(チベット語 *-e* はPTB \*-ey の反射たり得る)
私の \*-j は歌部・微部と元部・文部との間の諧声関係と押韻をうまく説明できないというPulleyblankの議論(1993: 362)については、より真剣に受け止めている。私が特に重要だと思うのは、そうした接触がこのカテゴリーに属する諧声系列に一様に分布しているのではなく、特定の系列に集中しているように見えることである。私は、Starostin(1989: 338–341)が提案したように、私の \*-j を置き換えるのではなく、それに加えて、上古漢語の末子音 \*-r または \*-l を再構する必要があるのではないかと考えている。
第二の例は、私の上古漢語の前舌母音 \*e と \*i はしばしばチベット語の *-y-* を伴う形に対応するため、上古漢語の主母音に前舌母音を割り当てない方がよいというPulleyblankの議論である。これはシナ・チベット祖語に前舌わたり音を再構する論拠にはなるかもしれないが、上古漢語にそのようなわたり音が存在したことを示す論拠にはならない。Pulleyblankの上古漢語 \*ja が中古漢語 \[ɛ] に変化するのであれば、シナ・チベット祖語 \*ja が上古漢語 \*e に変化することもできるだろう。
## 4. 結論
Pulleyblankの批判に対する私の返答は以下のように要約できる。
私の中古漢語の扱いに対するPulleyblankの批判のほとんどは、もし私の中古漢語の表記が再構だとしたら、それは良いものではないという議論に基づいている。私はそれに同意する。しかし、私はそれが再構を意図したものではないことを明確にしているため、これらの批判のほとんどは単に無意味である。
Pulleyblankは、タイプB音節における高い前舌わたり音 \*-j- の再構は、19世紀のヨーロッパ人による韻図の誤った解釈に遡る、長い一連の誤りの結果であると見ている。この仮説は、その起源が何であれ、漢代にA型音節とB型音節を区別した一連の主要な音変化を自然な形で説明するものである。さらに、私が上で概説した分析が示すように、重紐の区別と韻図に関するKarlgren以後の合理的な見解とも完全に一致する。
\*-j- の主要な証拠は漢代のものであるため、上古漢語にこれを再構するのは時代錯誤かもしれない。しかし、タイプB音節が、ある時点では介音 \*-j- によって特徴付けられていたということは、完全に擁護可能な仮説であり、Pulleyblank自身の(タイプB音節はある時点では母音前 \[ɨ] によって特徴付けられていたという)分析からもそれほど離れてはいない。
残る意見の相違のほとんどは、音韻論と押韻との関係を含む、類型論と音韻理論に関係している。これらの問題についての私の見解は前述の通りである。しかし、このような問題(ある特徴を少し左に置くか、少し右に置くかという程度の問題にすぎないこともある)と、経験的事実に関わる問題との間には重要な違いがある。『詩経』の押韻パターンは、私が新しい結果を見つけたと主張する経験的事実の分野の一つである。Pulleyblankはこれについてほとんど取り上げていない。私の見解では、6母音体系はこれらの結果を説明する最も自然な方法であるが、どのような理論的基盤があろうと、上古漢語の適切な再構においてこの結果を無視することはできない。
## 参考文献
- Baxter, William H. (1987). Review of Pulleyblank 1984 “Middle Chinese: A Study in Historical Phonology”. *Harvard Journal of Asiatic Studies* 47(2): 635–656. [doi: 10.2307/2719193](https://doi.org/10.2307/2719193) ⇒[日本語訳](/@YMLi/SylJDvaR6)
- ⸺. (1992). *A Handbook of Old Chinese Phonology*. Berlin: De Gruyter Mouton. [doi: 10.1515/9783110857085](https://doi.org/10.1515/9783110857085)
- Benedict, Paul K. (1972). *Sino-Tibetan: A Conspectus*. Cambridge: Cambridge University Press. [doi: 10.1017/CBO9780511753541](https://doi.org/10.1017/CBO9780511753541)
- Karlgren, Bernhard. (1957). Grammata Serica Recensa: Script and Phonetics in Chinese and Sino-Japanese. *Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities* 29: 1–332.
- Pulleyblank, Edwin G. (1962). The Consonantal System of Old Chinese. *Asia Major* 9(1): 58–144, 9(2): 206–265. ⇒[日本語訳](/@YMLi/rJIytCsGT)
- ⸺. (1984). *Middle Chinese: A Study in Historical Phonology*. Vancouver: University of British Columbia Press.
- ⸺. (1991). *Lexicon of Reconstructed Pronunciation in Early Middle Chinese, Late Middle Chinese, and Early Mandarin*. Vancouver: University of British Columbia Press.
- ⸺. (1992). How Do We Reconstruct Old Chinese?. *Journal of the American Oriental Society* 112(3): 365–382. [doi: 10.2307/603076](https://doi.org/10.2307/603076)
- ⸺. (1993). Review of Baxter 1992 “A Handbook of Old Chinese Phonology”. *Journal of Chinese Linguistics* 21(2): 337–380. ⇒[日本語訳](/@YMLi/BJMv5U-kC)
- Starostin, Sergej A. (1989). *Rekonstrukcija drevnekitajskoj fonologičeskoj sistemy* Реконструкция древнекитайской фонологической системы. Moscow: Izdatel’stvo ‘Nauka’ Издательство «Наука».
- Zhengzhang, Shangfang 鄭張尚芳. (1987). Shànggǔ yùnmǔ xìtǒng hé sìděng, jièyīn, shēngdiào de fāyuán wèntí 上古韻母系統和四等、介音、聲調的發源問題. *Wēnzhōu shīyuàn xuébào (Shèhuì kēxué bǎn)* 温州師院學報(社會科學版) 4: 67–90.
[^1]: 「EMC」に続く表記はPulleyblankによる初期中古漢語の再構であり、「MC」に続く表記は拙著で使用した中古漢語の表記である。後者は、音韻分析ではなく慣用的な転写であることを強調するため、イタリック体で表記する。
[^2]: Pulleyblankが1音節内に複数の \[+syl] 分節を再構することに私が異議を唱えたのは(Baxter 1987: 638)、Chomsky and Halle『*Sound pattern of English*』(1968)で提案された体系の理解に基づくものであり、私は今でも、この体系では1音節につきそのような分節は1つだけであると意図されていたと考えている。ただし、より最近の、より合理的な理論では、伝統的な意味での真の二重母音が認められているので、この異議は撤回したい。しかし私はそれでも、Pulleyblankがこの考えを、二重母音の前後のわたり音と組み合わせて使うことで、おそらく避けることができたであろう類型論的に異常な対立を生み出していると主張したい。例えば、碧 *bì* LMC /piajk/ 「緑玉」 ⇔ 壁 *bì* LMC /pjiajk/ 「壁」。
[^3]: 官話の *-an* \[an] と *-ian* \[jɛn] を並行例として引用することはできない。\[jɛn] が /ian/ または /jan/ と分析できるのは、官話の \[an] と \[ɛn] が相補的な分布にあるからである。それに対して、EMCの /an/ と /ən/ は対立的である。
[^4]: あるいは対立を末子音に帰属させ、唇化歯音を用いて \*-ən ⇔ \*-ənw と再構することもできる。このような類型論的に珍しい解決策の問題点は、まさにその候補の数が多すぎることである。
[^5]: Pulleyblankは、「それより前の漢代に、この \*e が \*a と韻を踏む理由はないように思われる」と述べているが、私はそうは思わない。私が「acute fronting」と呼ぶ音変化(1992: 574–575)は、(例えば)既存の詩で韻を踏んでいる単語における元々 \*a であったものを \*e に変化させた結果、それが前例となり、類推によって他の \*e と \*a のケースでも韻を踏むことを可能にしたのであろう。「ゆるい」諧声系列についても同様の議論ができる。現代官話の \[jɛn] と \[an] のような音声的に「ゆるい」押韻を可能にしているのは、基底の音韻形式ではなく、同様の過程なのではないかと私は考えている。
[^6]: Pulleyblank(1991: 368)はEMC *ŋiăʰ* を与えているが、彼の序論(p. 5)によれば、Pulleyblank(1984)の *ă* は、中母音または高母音の後では *ə̆* に置き換えられるべきである。