# 快晴、時々、魚雲+創作お役立ち本紹介
## はじめに
この記事は、[みす老人会 Advent Calendar 2025](https://adventar.org/calendars/11390)の21日目の記事です。
みなさんこんにちは。53代のRimです。毎年このくらいの日付でアドカレを書いている気がします。今年は初めて24時投稿に遅刻しました。
2022年は宇宙企画の振り返り: [起こしたぜビッグバン!!!!!!!!+おまけ](https://hackmd.io/@RimRimdayo/Hk1CeDkuj)
2023年は宇宙企画二次創作小説:[City Candle](https://hackmd.io/@RimRimdayo/rkDbQKc8a)
2024年はぬい作成:[自PCぬいを、作るぞ~~~!!!!](https://hackmd.io/@RimRimdayo/S14I8GX41x)
と、毎年アドカレ向けに色々やってきましたが……
<font size="+2">今年は本当に</font>
<font size="+3">ネタが</font>
<font size="+4">ない!!!!!!!!!!!!!!!!</font>
ということで、最近書いていた小説を公開しようと思います。せっかく書いたので読んでもらえたら嬉しいので。
また、おまけで私が小説やTRPGのテキストセッションで文章を書くときに参考にしている書籍の紹介もしようと思います。
小説は4万字(文庫サイズ88ページ)ある+息をするようにボーイズラブ(露骨な描写はありません)なので、本紹介だけ見たいよ~という方は目次より飛んでください。
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## 快晴、時々、魚雲
快晴、時々、魚雲
これは、私と彼の夏の物語。
これは、わたしとあの子の「なつ」の物語。
晩夏光が町を照らす。
もうすぐ秋が来る。
空には、魚雲が浮かんでいた。
### 八月二十二日 風鈴
「星を見に行こうよ。あの場所でさ、久しぶりに」
縁側に腰かけた彼は徐にそう言って笑った。ブルーハワイ色に染まった舌が唇からちらりちらりと覗く。
彼の声はシャボン玉のように弾んでいて、瞳はソーダ水のようにキラキラと輝いている。その目に見惚れながら、私は彼に問うた。
「なんでまた、きゅうに」
「え? なんとなく!」
彼はけらけらと笑った。煩わしいほどの蝉の鳴き声が湿った風と共に吹き抜け、彼の白いシャツの袖を揺らす。その風はほんのりと冷たかったから、近所のおばあさんが打ち水をしているのかもしれない。私の横、見慣れた縁側。年季の入った木材はところどころ色が薄くなっている。ここに座る彼は、実のところあまり馴染みがない。彼とはこうして家で遊ぶことは少なかったから。
彼の柔い前髪を涼しい風が乱していく。彼は夏の体現者のようだった。じりじりと身を焦がす太陽も、学校に咲く向日葵も、溶けかけたブルーハワイのかき氷も、夏の制服も、窓が開け放たれた教室も、りんご飴も、夜の星座も、風鈴の音色も、冬よりどこか彩度の高い全ての景色が、彼に酷く似合う。
「いつもそうやって思い付きで行動するんだから」
私はため息をつく。あの日だってそうだった。
「とか言って、結局ついてきてくれるんでしょ」
私は答えられなかった。背中を汗が伝う。彼はじっと私の答えを待っている。木々のざわめきも、蝉の鳴き声も、どこかで遊ぶ子供の笑い声も聞こえるというのに、私にはこの空間が冬の夜のように冷たく感じられた。
「……意地悪なこと聞いたね」
ちりん、と風鈴が風にあおられ高い音を立てる。私は口を開こうとしたが、夏のむわりとした熱気と湿気が喉にまとわりつくようにしてそれを遮る。ぽたり、と頬を伝う汗が木の床に落ちた。彼は優しいから、そんな私を詰るでも軽蔑するでもなく、ただ寂しそうに笑うだけだった。
「うん、わたしもやっぱり君と一緒に行かなくていいや」
彼はゆっくりと、言葉を口の中で転がして確かめるように呟く。ブルーハワイの味がしそうなその言葉は夏の音色にかき消されそうだったが、しかし私の耳にはっきりと届いた。
「じゃあね」
風鈴がもう一度夏を奏でる。私は思わず彼の方へ手を伸ばすが、それはただ空を撫でた。私は瞳を閉じ、ごめん、と呟く。届きもしないとわかっている言葉ほど口に出せるなど、私は本当に意気地のない人間だ。
もう一度瞳を開けば、眼前には見慣れた縁側と、溶けたブルーハワイがあるだけ。私はそれを持ち上げ、容器についた水滴をぬぐう。
「君が好きだったから買ってきてみたけど、やっぱりお供え物にかき氷はダメだったな。持っていく前にドロドロだ」
夏の残滓はもう何も答えなかった。
どこかの家から線香の香りがした。
### 八月二十二日 打ち水
「まさかあんなことになるなんてねぇ……」
頬に手をやり、昔を懐かしむようにそう言うのは近所のおばあさん。農作業用の時に使うつばの広い小花柄の帽子を被った彼女はやっぱり打ち水をしていた。アスファルトが色濃くまだらに塗りつぶされ、独特の匂いが周囲を支配する。
あの日もこんな匂いがした。あの日も変わらずいつもの夏だった。異常気象と騒がれつつも、人々の記憶に大して残らず過ぎてゆく夏。入道雲の異様な白さだけが、彼の白い肌と相まってひどく印象に残っていた。
「やっぱり寂しいでしょう? 急なことだったものね」
おばあさんは曲がった背中をゆっくりと伸ばしながらこちらを見上げた。なぜ死んだ人の話をよりにもよってその幼馴染にするのか。この人は真夏の太陽のように不躾だ。
あの後、母に用事を言い渡され外に出たが最後、あっけなく捕まってしまった。田舎のご老人は世間話が大好きでしょうがない。おばあさんの皺だらけの瞼の奥には私と青い青空だけが映っている。逃げられないような感覚がして、少し居心地が悪い。
「はい、とてもさみしいですよ」
私は本心からそう答えた。どんな顔をしていたかはわからない。ただ、額に張り付いた髪が煩わしかった。なんで母は私にお使いを頼んだんだ、なんて場違いないら立ちが湧いてくる。炎天下でおばあさんのお話に付き合わされるのは互いに熱中症になりかねない。道すがら飲み物でも買って行こう。
「あぁ、そうだ。母にお使いを頼まれていたんです。遅くなると怒られてしまうので、行ってきますね」
私はうまくタイミングを見計らって、彼女から逃れるために視線を逸らす。あらそうなの、と彼女は存外すんなりと引いてくれた。
そそくさとおばあさんの家の前を後にした私は、木漏れ日で彩られた道路を早足で抜けて商店街の方へ向かう。
彼の話を他人からされるのはあまり好まない。特に私の気持ちを問うてくるものは。
ここは狭い田舎の町だ。噂は光よりも早く回る。彼がいつ、どういう状況で死んだのかなんて、皆知っているはずだ。それなのにわざわざ私に問うてくるのは何かの嫌がらせなのだろうか。それとも私への罰へのつもりか。
私の気持ちなんかわかっているだろう。だって――
「おや、久しぶりだね。どうしたんだい。そんな顔をして」
陽気な声ではっと我に返る。
気づけば私は馴染みの青果店の前に立っていた。途端、耳に商店街の喧騒が戻ってくる。あの田舎のランドマークとも言われがちな赤い有名ショッピングモールすらないこの町で住民の生活を支えるのは、この小さな店舗が軒を連ねる商店街だ。この近くにはかつて通っていた小学校もあるから、昔からのなじみのある場所だ。いくつかシャッターを下ろしてしまっている店もあるが、それらは店主が年を取って店じまいしたものがほとんどだ。
難しい顔をしていたのだろう。店名の入った前掛けを身に着けた店主のおじさんが、背の低い陳列棚越しに心配そうな視線をこちらへ向けている。慌てて何でもないです、暑くて。などと言い訳をすれば、顔なじみのおじさんはそうかい、気をつけなよと特に気にした様子もなく、今日の特売品について語り出す。はなしをほりさげられなかったことに内心ほっとしつつ、私は母に頼まれていた夏野菜を数個購入する。きっと今日の夕飯は夏野菜カレーかな。
会計の間、そういえば彼はズッキーニが苦手と言っていたっけなどと思い出す。あまり好き嫌いをしない人だったから、良く覚えている。
「はいよ。あとこれ、おまけね。暑いから気をつけて過ごすんだよ」
いつもご愛顧ありがとね、とおじさんは日に焼けた顔に人の好い笑みを浮かべた。手渡された袋は二つ。野菜と別で渡されたずっしりとした袋を覗けば、小ぶりの西瓜だった。西瓜は大好きだったよなぁ。私はそう思いだす。
「いいんですか?ありがとうございます。皆でいただきますね」
礼を言えば、おじさんはまたよろしくと目尻に深い皺の刻まれた笑顔で笑った。軽く手を振ってくれるおじさんに同じく振りかえし、私は西瓜を抱え直す。
折角だから、帰ったらこれもお供えをしに行こう。
### 八月二十二日 スポーツドリンク
「あっつ」
思わず口から言葉が漏れてしまう。誰宛てでもないその言葉は蝉の鳴き声とともに湿った空気に溶けていく。ミンミン、ジワジワ。蝉の声のせいで体感温度が上がっている気がする。ぽたり、熱されたアスファルトに汗が落ちた。
私の情けない独り言に反応してか、ブロック塀の上を歩く黒猫がこちらを一瞥する。金色の瞳としばし目が合うが、しかし猫はすぐに興味を失ったように視線を逸らした。つまらないやつでわるかったな。彼は私と違って陽気で、いつも人を笑顔にさせる人だった。彼が夏の人間なら、私は冬の人間なのだ。きっと私が死ぬなら冬であろう。誰にも知られず、冷たい雪の中でひっそりと埋もれて死んでいくのかもしれない。
陽はちょうど天辺を過ぎたあたりだ。私は先ほど購入した夏野菜を台所に立つ母に渡し、ついでに西瓜を切ってもらってタッパーに詰め、追加の用事を言いつけられないうちにそそくさと彼の墓参りへと出発していた。
「……甘いな」
彼の墓への道すがら、炎天下の中でいつもと変わらずお勤めを果たしている自販機で買ったスポーツドリンクを一口。キンキンに冷えたボトルから水滴が伝い、私の手を濡らす。暑さにやられてつい選んでしまったが、この手の飲み物は些か甘すぎる。薄めた方が体にはいいんだって、と彼が言っていたのを思い出した。
彼がそばにいれば、私が飲みきれなかったこれはきっと彼の胃に収まっていただろう。
彼は見た目のわりに底知らずの胃袋を持っていた。私は隠していたけれど好き嫌いが多くて、小学校のころ、こっそり彼と給食のやり取りをしていたのが懐かしい。あぁ、ズッキーニだけは私の担当だった。
「さすがに飲みかけはいらないよな」
まだ半分以上残っているペットボトルを傾ける。滴る雫にきらりと太陽の光が反射した。眩しくて思わず目を細める。家に帰ったら薄めて飲もう。
住宅街を歩み続ければ、やがて山の麓へとたどり着く。ここ最近でいやに慣れてしまった坂道を登り、彼の墓へと向かう。少し登ったところにある寺まで近づくにつれて増える木々のおかげか、周りの気温が一段階ひんやりとした気がした。寺や神社は静謐な雰囲気もあってか涼しいものだ。そういえば彼とよく遊んでいた、こことは別の山にある神社もそうだった。いや、あれは私たちが神社と読んでいただけで、実際は民間信仰の古びた祠と石畳と階段、それから鳥居があるだけだったが。この辺りはどこに行っても山だらけだが、あの場所はその中でも一段と静かで、蝉時雨と、木々のざわめきと、日ごろの明朗快活な声とは違う彼の囁くような声だけが――自惚れでなければ私にだけ聞くことが許されていた彼の声色が――鮮明に聞こえていた。
「……ふう」
そう長くはない坂を登りきる。ここ一帯は彼の一族が代々埋葬されている土地だ。いつの物かわからない苔むした墓石から、新しいものまで様々だ。
私は、その中でも一番新しい墓石へと向かった。
### 八月二十二日 猫
彼の墓前にはたくさんの花が供えられていた。私は花の種類に詳しくないのでよくわからないが、よく仏花として売られている種類の物から、中には向日葵なんて変わり種もある。向日葵は彼のことをよく知る人間が供えたのだろう。どれもまだ花弁に水滴を乗せて生き生きとしているが、さすがにこの暑さだ。明日の朝には軒並みしなびてしまう運命だろう。私はその様子が、「墓」という死に近い場所が、「花」の生そのものを吸い取っているようであまり好きではなかった。花の中でも向日葵は枯れた後が酷く物悲しい。夏の終わりに立ち尽くす虚ろなそれは特に苦手だ。
そう思ってしまうのは、彼の生がちょうどあの夏に吸い取られてしまったからなのかもしれない。
花の傍に西瓜を供える。これもしばらくすれば水分が蒸発してしなびるか、飢えた蟻の餌となるだろう。
そろそろ夏が終わるというのに、その残滓は未だそこここに腰を据えている。彼の存在も、私にとっては夏の残滓の一つだ。
「夏のせいにするのはよくないと思うよ」
ふと、そんな声が聞こえた気がした。私は弾かれたように顔をあげ、辺りを見渡す。しかし人気のない墓の周りには私以外何もいなかった。ただ、いつの間にか私の背後に佇んでいた一匹の黒猫を除いて。
黒猫は金色の瞳でこちらをじっと見つめていた。その視線に妙な既視感のようなものを感じる。あぁ、そうだ、ここに来るときに見た黒猫だ。いや、それ以前にも――。
先ほどの興味なさげな様子とは打って変わって、黒猫は私から一向に視線を逸らそうとしなかった。私には何故かその瞳がとても不気味に思えて、私は踵を返し、荷物を抱えるようにして坂道を下った。生い茂る木々による独特のひんやりとした静けさがより一層不気味で、私の鼓動をはやらせる。
「夏に生を吸い取られただなんて、よく言うじゃないか」
「生を奪ったのは、夏なんかじゃない――」
「本当は逆だったのに」
声のする方から逃げるように私は走り続けた。転がる小石に足を取られる私の背を追いかけるように声がする。そんなはずはないのに、どことなく彼に似ている気がした。彼とは似ても似つかない物言いなのに。
がむしゃらに足を動かしていれば一気に視界が開ける。いつの間にか墓の周辺を抜け、人通りの多い道へと戻ってきたようだ。眩しい太陽に目を細めれば、額から伝う汗が目に染みる。蝉の鳴き声が思い出したように耳に届き、私はやっと足を止めた。
肺が痛み、呼吸のたびに喉から変な音が鳴る。長い距離を走ったわけではないのに、私の呼吸は酷く乱れていた。
### 八月二十五日 向日葵
今日も今日とて時間を持て余していた私は行く当てもなく道を歩いていた。目新しいことなど何もない見知った小さな町は酷く退屈だ。よくよくみれば、新しいパン屋ができていたり、その一方で昔よく足を運んだ店がのれんを下ろしていたりするのだが。
目的もなく体の赴くままに歩いていれば、ふとかつて通っていた小学校の前を通りかかる。遠くで子供たちの声が聞こえる。校門が開いているから、今日はプールでも解放しているのだろうか。
この小学校の裏手には大きな向日葵畑がある。ここもよく彼と来た場所だ。
目的地もなく時間も持て余していた私は敷地の外周をぐるりと回って花壇へと向かう。彼を思い出して辛いだけだと頭の端ではわかっているけれど、どうにも惹かれてしまって仕方がなかった。
大量の向日葵は健気に太陽へ向かって顔を上げていた。満開の向日葵は日輪のようで美しくあったが、枯れたそれはどこか恐怖心を抱く成りで、満開の仲間の影に隠れるようにひっそりとたたずんでいた。目を逸らす。やはり、枯れた向日葵は苦手だ。
「ねぇ、見て!」
まただ。明るい声が生ぬるい風に乗って耳を撫でる。また、あの夏の残滓が私の前に現れる。見たくない。そう思うのに、否応なしに視線が声の方を追いかけてしまう。彼は花壇の中に遠慮なく踏み込み、自分の背丈ほどもある向日葵の隙間から顔を出していた。太陽にも引けを取らないほど眩い笑顔は、もう存在しないのに。まるで彼が今もそこに実在するかのように、私の網膜にくっきりと焦点が結ばれる。
「ここなら、隠れて見えないよね、ねぇ、うってつけじゃない。誰にも見られない。ばれないよ、ここなら」
彼は普段の様子からは想像もできないほどうっそりとした笑みを浮かべた。日差しが翳る。彩度の高い景色は急に灰色がかり、彼の表情すら吞み込んでしまう。
彼は、こんな顔をする人だったか。
「……隠れないよ、こんなところ。学校だから。すぐ見つかってしまうよ」
私は俯き、彼から目を逸らす。掌には暑さ故ではない汗がじっとりと滲んでいた。
彼は私の首を真綿で締めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。いや、これは私の脳が映し出す幻影なのだから、私は自分で自分の首を絞めているのか。
「だから、私は――」
だから私は、わざわざあの場所を選んだのだ。
あの時、彼と同じようにここを選んでいれば、こんなことには、ならなかったのだろうか。
彼はただ笑っている。
思い出した。彼は確かにこういう笑みをする人だった。一度だけ、あの時、彼はこういう笑みを浮かべたのだ。
彼の笑顔に昼間の陽光よりも誰そ彼時の斜陽の方がよく似合うと思ったのは、後にも先にもあの時だけだ。成長しきった向日葵は太陽を追わない。自分を導いてくれていた太陽にそっぽを向く向日葵に囲まれ、彼は仄暗い笑みを浮かべていたのだ。それはとてもこの世からいなくなるなんて思えないほど鮮烈で、それなのに伸ばした手がすり抜けてしまいそうなくらい浮世離れした儚さだった。
あの時の彼は、私が今まで見てきた何よりもきれいだった。
今、改めて思う。彼も太陽を失っていたのかもしれない。
だから私なんかに、あんなことを。
私なんかに、心の一番柔いところを、渡してくれたのだ。私は恐ろしくて、受け取れもしなかったが。
 夏の残滓が笑う。
「そうだよね。だからきみは、あの約束の場所を選んでくれたんだよね」
「――っ、黙れ!」
思考を遮るように彼の声がする。私は初めて彼に声を荒らげた。
彼はうっそりとした笑みを崩すことなく、ごめんね、と呟いた。
冷汗が止まらない。やめてくれ、これは私が作り出した幻影だ。ならば止められるはずだろう。
颶風が吹き抜ける。向日葵が嫌がるように花を揺らした。立ち上った砂埃に目を閉じた一瞬、彼の姿は向日葵に塗りつぶされ、やがて最初から何もなかったかのように消え失せた。
残ったのは、向日葵の中で立ち尽くす青ざめた私だけだった。
### 八月二十五日 面影
たらり、とこめかみを汗が伝う。
乱れた呼吸がようやっと落ち着き、耳障りな蝉の声に意識を向けられるようになったころ。しばらくけたたましい静寂と私の呼吸音だけが支配していた空間で、明るい少女の声がそれを遮った。
「あれ!<ruby>冬生<rt>ゆき</rt></ruby>くん?久しぶりだね」
びくりと肩が跳ねた。心臓がまた早鐘を打つ。
振り向けば、怪訝そうな顔でこちらを見つめる小柄な少女がいた。彼によく似た細い亜麻色の長い猫っ毛が湿った風に揺れる。小さな頭には些か大きすぎるつばの大きな帽子がずれ、彼女は鬱陶しそうにそれを手で直した。そういえば彼も同じものを被っていたのを見たことがある。
「……<ruby>日葵<rt>ひまり<rt></ruby>ちゃん。なんでここに」
声はみっともなく掠れていた。彼女はそれを特に気に留めるでもなく言葉を続ける。
「それはこっちの台詞!ふほーしんにゅーだよ! ……冬生くんもお兄ちゃんに会いに来たの?」
蝉の声が途切れる。彼と同じかたちの瞳は、彼と同じように私を見つめていた。額に汗が浮かんでは流れていく。何かを言おうものにも、言うべき言葉が脳裏を掠めては泡沫のように消えていく。
結局、私は何も言えなかった。答えない私にしびれを切らしたのか、再び彼女が口を開く。
「あたしはね、学校の先生に許可貰ってこの花壇の手入れに来てるの。お兄ちゃん、この向日葵、好きだったでしょ。ここに来れば、何だかお兄ちゃんに会える気がして。」
彼女は手に持ったスコップとホースを見せつけるようにあげてみせた。人懐こい笑顔も彼によく似ている。最後に彼女に会ったのは彼の葬式だ。その時はかわいらしい顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたから、こうやって笑っているのを見るのは久方ぶりだった。
「……、そうだった、ね。私は偶然通りかかっただけ。懐かしくて少し寄ってしまったんだ。邪魔しないようにもう帰るよ」
彼女はただ、そっか、とだけ小さく口に出した。人懐っこいようでいて何を考えているのかわからない顔も兄にそっくりだ。別に責められているわけではないのに、何かを見透かされているようで居心地が悪い。
ゆらゆらと陽炎が立ちのぼり、彼女の足元が揺らめく。やわらかい風が彼女のワンピースの裾を遊ばせた。彼女は乱れた髪を耳にかけ、ゆっくりと瞬きをする。
「……お兄ちゃんがここにはいないこと、わかってるんだけどね」
「……」
「きっと、お兄ちゃんが幽霊になってたら、冬生くんとよく遊んでたあそこにいると思うんだけど」
彼女は目を伏せる。
「……どうしても、いけないの。手が震えて、足に力が入らなくなって」
聞きたくない。そう思った私の心に答えるように強い風が吹く。彼女がワンピースの裾を抑え、私から視線を外したその一瞬、無性に逃げ出したくなるような沈黙がおりる。湿った空気のような嫌な湿度がある沈黙だった。
風がやんでも、先ほどの夏の残滓のように、彼女は私の前から掻き消えたりはしなかった。温度がある生きた人間だ。目の前にいるのは。
彼女に何を言えばいいのだろうか。彼女に、私が、何を。
私は耐えきれず彼女の横を足早に通り抜ける。真横まで来てしまえば、私に比べずいぶんと小柄な彼女の表情は帽子の大きなつばのせいで見えなくなった。
「……でもね。お兄ちゃんは」
「……っ、」
ずいぶんと落ち着いた声で彼女は言う。私は息を詰めた。
「お兄ちゃんは、貴方のこと恨んでないよ」
一歩、踏み出そうとした足が止まる。振り返れども彼女の表情は見えないままだった。
「大丈夫、誰にも言ってないから」
どくん、耳の横で血液が流れる音が聞こえる程、心臓が激しく危険信号を鳴らす。
彼女が告げた言葉はそれだけだった。そのまま彼女は花壇にずかずかと足を踏み入れていく。彼よりも背丈の小さい彼女はあっという間に向日葵の中に飲み込まれてしまった。
私は早鐘を打つ心臓のまま、金縛りにあってしまったような体を無理やり動かす。
我武者羅に、ただ一刻も早く彼女から離れるためだけに。足を縺れさせないように走るのが精いっぱいだった。
まだ、夏は終わらない。
### 八月三十一日 常夏
窓から見える空は相変わらずの快晴だ。ガラスの向こうでは蝉たちが短い命を懸命に謳歌している。私は自室の煎餅布団に体を横たえ、特段何をするでもなく天井を見ていた。前はもっと忙しい毎日を送っていた気がするのに、この夏は随分と間延びしているように思う。それだけ彼と過ごす時間が長かったということなのだろうか。
流石にあのようなことがあっては出かけるのも怖い。私は一つ寝返りを打つ。あの夏の残滓は私の部屋にまでは出てこないようだったから、ここ数日は母の小言も無視して殆ど自室に引きこもって過ごしていた。
「……はぁ……」
このままでは背中に根っこでも生えそうだ。私は仕方なく体を起こし、小さいころからずっと使っている学習机へと向かう。急に体勢を変えたせいで脈打つように痛む頭を押さえつつ、手持無沙汰にもう何度も解いてしまった赤い数学の問題集を開く。暫くそうしてノートにペンを走らせていたが、先日の日葵ちゃんの言葉がどうも頭から離れない。
「『お兄ちゃんが幽霊になっていたら、きっと冬生くんとよく遊んでいたあの場所にいる』か……」
なら先日から時折襲ってくるあの夏の残滓は何なのだろうか。もしかしたら私がもうおかしくなってしまっていて幻覚を見ているだけなのかもしれないけれど。あの残滓の彼は、在りし日の彼と比べて酷く性格が悪い様に見えるが、それでも、彼にしか見えなかった。
私はあの場所にもう一度行かなければいけない。本能的にそれを理解してはいたものの、どうしてもできなかった。一緒にするなと詰られてしまいそうだが、日葵ちゃんと全く同じだ。あの場所に行こうとすると手が震える。足に力が入らなくなる。視界が明滅して、呼吸もままならなくなる。地面から無数の白い手が伸びて、影へと引きずり込まれてしまいそうな冷たい恐怖が背中を伝っていく。彼の声が何回も壊れたレコードのように頭の中で反響する。どこからともなくこちらを監視するような無数の視線を感じる。――そうして、情けなくもすごすごと引き返す。その繰り返しだ。
問題集を閉じる。半ば操られるように、私は安全地帯を後にして町へと足を向ける。
遠くの入道雲がまるで絵画みたいで、どこか現実味がない。こんなにも気分は晴れないというのに、空模様だけはずっと爽やかだ。
古びた小学校を通り過ぎ、更に木々が覆い茂る山の方へ向かう。途中、古い駄菓子屋跡を通り過ぎた。よく彼と寄り道をしていたそこはすでに店を畳んでしまったが、おばあさんはまだご存命だと彼が言っていたっけ。
辛うじて元のメロディーが判別できるくらいに割れた音楽がどこかのスピーカーから流れている。夕刻を告げ、子供たちの帰宅時間の目安にもされるメロディーだ。もうそんな時間か。
相変わらず暑い日だ。額の汗を拭いながら山をぐるりと囲むように作られた坂を登る。苔むしたコンクリート擁壁の隙間から伸びる石階段までくれば、件の場所はもうすぐそこだ。
すぐそこなのに。
「……っ」
石階段を囲む木々を前に足取りが止まった。たたらを踏む。無理だ。やや傾き始めた陽光が差し込む町のなか、その場所だけぽっかりと闇が口を開けて待っているように錯覚する。尋常でない汗が額を、背中を伝っていく。頭が割れるように痛い。固く瞑った瞼の裏で赤が弾けては消える。思い出したくない光景が実像を結ぶのを、吐き気を抑えるように必死にやり過ごす。
ついに、私は耐えられず踵を返し、陽光の元へ駆け出した。
商店街付近の国道まで下ってきたころには大分日も傾いていた。近くには大きめのスーパーマーケットがあるため、この時間になれば人通りも多くなる。私は生きた人の気配にやっと一息つく。おぼつかない足取りで歩道を進み、私は自宅へ続く住宅街の細い道へと足を進める。どこかでけたたましい烏の濁声がした。
 俯いて歩いていれば、急に辺りがしんと静まり返った。いやな感覚だ。またあの夏の残滓か。しかし、身構えた私の予想は裏切られた。
息を吞んだ。
――猫がいる。黒い猫だ。金色に輝く瞳の。
ぞっと背筋に冷たいものが走る。肉食獣に狙われた小動物のように体が震えあがる。あれはダメだ。関わってはいけないナニカだと本能が理解する。
猫は軽蔑するような目で私を見ていた。諦めた、見損なった、とでも言いたげな瞳だった。
「――あの子と」
頭の中で声がする。彼に酷くよく似た声なのに、決定的に何かが違う。そんな予感がした
「ちゃんと話しなさい」
その声は、やはりどこか彼に似ていた。
く、と、喉から恐怖で音にならない呼気が漏れる。あまりにも現実離れした状況に思考が発散する。収束しいない言葉が脳裏を駆け巡っていく。話すって何を。どうやって。彼は死んだんだ。あの夏の残滓が本当に彼の幽霊だったとして、何を。事故として処理されて、見ない方がいい、なんて、何もわかっちゃいないのに分かったようなことを言う大人たちに止められて、棺の顔の部分は閉められたままで、彼の葬式は終わったんだ、そうだ、あれは八月の――
――八月の?
そうだ、おかしい――彼の葬式は高校三年生の、八月三十一日のはずだ。事件性有無の調査やら、手続きやらでかなり後ろ倒しになったのだ。ずっとドライアイスで冷やされていてあまりにも不憫だなんて、どの口が、なんてことを思ったからよく覚えている。
――いや、違う、今日は、八月の三十日のはずだ。それで、私はまだ、高校生で――
猫はまだじっとこちらを見ている。
目の奥に鋭利な刃物でも刺さったかのような痛みが襲う。視界が絵の具を出鱈目に混ぜたように歪み、ぐにゃりと溶けていく。
何が、何かが、間違ったパーツをはめたジグソーパズルみたいに、世界が歪んでいく。
ぐらり、薄れゆく意識の中、ただ一つ思い至る。
そういえば、ずっと、夏が。
### 八月二十日 はじまり
あれは何年前だっただろう。まだわたしもあの子も今よりずっと幼くて、足元に潜む仄暗い未来にも全く眼を向けずにいられたころの話だ。
わたしたちが住む小さな町から更に山の方へ登って行った所に小さな神社があった。呼びやすいから神社と呼んでいたのだけど、実際には大きめの祠と両脇に石灯籠、そしてそれに続く石階段と鳥居があるだけのこぢんまりとしたものだ。あまり手入れもされておらず、石灯籠にはひびが入っていたし、鳥居も朽ちかけていたが、それがはみだし者のわたしにとってはちょうどよかったんだ。
あの子とわたしは足繫くその神社に通っては、冷たい石階段に腰を掛けて話をした。二人だけの秘密基地だった。世界で二人だけになったような錯覚さえ覚えた。
結局、それは錯覚でしかなくて、世界で二人だけ、だなんて思っていたのはわたしだけだったのだけれど。
わたしにはあの子しかいなかったけれど、あの子にとってわたしは唯一ではなかった。
賑やかな方ではなかったけど、背も高くてかっこよくて、勉強も運動だってできたあの子にはたくさんの友達がいた。あの子は優しいからはぐれものの自分にも同じように接してくれていただけだったのだ。
けれどわたしはたいそうあの子に執着してしまった。あの切れ長で、涼し気で、でも瞳の方がじんわりと温かいあの瞳が、わたしだけに向いていればいいな、なんて、ずいぶん傲慢な思いさえ抱いてしまった。わたしはあの子の隣に立ちたくて、何とか周りになじむ努力をした。あの子の好みになれるように周りの友達を観察して、真似して、だんだん元の自分がどうだったのかもわからなくなった。暇さえ見つければあの子に話しかけて、暇さえあれば遊びに誘った。そんなことを数年続けていれば、優しいあの子は都合の許す限りわたしにも時間を割いてくれるようになった。
そうだ、もうすぐ小学校が終わるという年の夏休みだった。その頃になるとわたしはあの子の隣として自他ともに認める存在になっていた。それでもわたしの不安は尽きなかった。あの子にはあの子を慕うたくさんの友達がいる。ひそかに恋心を寄せるませた女子生徒だって。しかし数年の付き合いでもうあの子の興味を引きそうなネタは底をついていた。あの子は優しいから、わたしが無味乾燥な存在になったとてぞんざいな扱いはしないだろうけど、少しでもあの子の興味がわたしから失せてしまうことが許せなかった。
それは初恋というには醜く、独占欲というには幼過ぎる感情だった。最初から世界に後ろ指を指されることがわかりきっている執着だった。
八月二十日、夏休みも終盤のある日。その日は学校のプールが解放されていたから、わたしもあの子も夏休みだというのにわざわざ学校に足を運んでいた。こんな田舎では学校のプールでも一大イベントなのだ。
小学校のプールは午前中には終わってしまう。濡れた髪を適当にタオルで拭いて更衣室を出れば、先に出ていたあの子が校庭の大時計の柱に背を預けて立っているのが見えた。周りには数人の児童。周りに合わせて小さく笑うその横顔にしばし目を奪われて、はっと我に返ったわたしはいつものようにあの子に駆け寄った。
「ひなたー!」
思いの外大きい声が出た。あの子とのおしゃべりに花を咲かせていた他の児童が驚いたようにこちらに視線をよこす。構わずあの子に駆けよれば、あの子――陽向は驚いたように肩を跳ねさせた後、穏やかに瞳を細めて笑った。わたしが一番好きな陽向の表情だ。
「……んふ、こえ、でか」
年の割に低く落ち着いた声で陽向は笑う。周りの児童はわたしが来るなり、あ、来た。じゃあ俺ら行くわとどこかへ行ってしまった。
「先帰っちゃったのかと思ったから嬉しくて! 待っててくれたの?」
勢いのまま口に出してすぐ、あ、思い上がりだったかもなんて心に冷たい水が伝うような感覚がしたが、陽向はうん、と頷いてくれた。
「あいつらが一緒に待っててくれたから暇じゃなかったけど。……今日は午後時間あるから、神社に行かない?」
「え! いいの?」
また大きい声が出る。陽向はわたしと過ごすために待っていてくれたのだ。他のやつらと喋っていたのは少しだけ気にくわないが、陽向の射干玉のような綺麗な髪はすでにさらさらと風に揺れていて、ずいぶん長い間待っていてくれたのだとわかるのがたまらなくうれしくて、わたしはきっとずいぶん気持ちの悪い顔をしていたと思う。先ほど冷えかけた血が再び熱をもって体を駆け巡り、わたしはその勢いのまま陽向の手を取って走り出した。わたしより一回り大きい手だ。
「タエばぁんとこ寄ってアイス買ってこうよ! パピコがいいな~!」
「わかった、わかったから歩いていこうよ……」
わたしが急に動いたせいで転びかけた陽向はうわ、と慌てながら体勢を立て直す。仕方なく速度を緩めれば、陽向は困ったように笑ってそっとわたしの手を離した。それが酷く寂しかったが、もう一度手を取る口実もなくて、わたしはプールバッグの紐なんてつまらないものを手持ち無沙汰につかみながら、陽向の隣を歩いた。
### 八月二十日 願い事
「はいよ、一五〇円ね。暑いから気をつけるんだよ」
「はぁい。ありがとタエばぁ!」
いつもの神社への道すがら、もうずいぶん年寄りのおばあさんが一人で切り盛りしている小さな駄菓子屋に寄り、予定通りパピコをゲットする。近くの子供たちもアイスを求めてきていたのか、軒先に置かれている年季の入ったの大きな冷凍庫の中身はもうずいぶんと少なくなっていた。タエばぁに手を振り、わたしは早速パピコの封を開ける。
「もう食べるの?」
「だって、溶けると分けにくいんだもん」
特徴的なプラスチック容器を真ん中でぱきりと割り、片方を陽向に渡す。確かに、なんて陽向は笑って蓋を開けた。
「蓋も開けにくくなるんだよね」
「わかる! ふにゃふにゃするよね。パピコは固いうちに食べるのがいちばーん」
まだ固い中身を歯で押し出しながらわたしたちは坂道を上る。タエばぁの駄菓子屋は商店街のはずれの方にあるから、そこを過ぎてしばらく歩けば人通りも少なくなる。目的地の神社はさらに山の方だ。学校からは歩いて三〇分くらい。学校前のバス停から二時間に一本くらい出ているバスに乗れば山のふもとまで行けるから一五分くらいは短縮できるのだけど、辛いのはその後の階段なのだからそこまで乗る意味はない。それに、陽向とのんびり喋りながら歩くのがわたしは大好きだった。陽向は歩くときいつもまっすぐ前を見ているので、陽向より頭一つ分くらい背が低かったわたしは、斜め下からこっそり横顔を盗み見ることができたから。
いつものように他愛もない話をして歩いていれば町はずれへと至る。この辺りになれば大きく成長した木々が暴力的な日差しを遮り、辺りは途端に涼し気な空気を纏うようになっていく。ここから山をぐるぐると登っていく坂道へ入りさらに歩けば、神社へ続く階段がある。山肌にそのまま石階段を取ってつけたようなそれは長くて急で、しかもところどころ変な段差があって気を抜くと転げ落ちそうになる。まぁ、わたしたちはもう慣れっこなのだけれど。
「あれ」
鳥居の前まで続く階段を登り切れば見慣れた光景が目に入る。しかし、今日は少しだけ違った。祠の横に黒猫がいる。猫は眠っているようで、まるで黒い毛玉みたいだった。わたしは声を潜めて陽向に耳打ちをする。
「先客だ。お邪魔しちゃうかな」
「驚かさなければ大丈夫じゃない」
つられたのか、陽向も少しだけ声を潜めて言った。
わたしたちはそのまま石階段に腰を下ろした。ひんやりとした石が火照った体温を奪ってくれて心地が良い。思わずそのまま石畳に転がれば、服が汚れるよなんて笑われてしまった。わたしよりもずっと早く変声期を迎えた陽向の少しハスキーな低い声が心地いい。
普段から陽向は大きな声で話すことはないけれど、こうして二人っきりの時はより囁くような、静かな声になるのだ。
座ったままこちらを見下ろす陽向の後ろには木々の隙間か澄んだ青空が見える。木漏れ日がその頬にゆらゆらと光を落としていて、あぁ、きれいだなんて思った。学校があるときは大体夕方に来るから、昼間からここでのんびりできるのも夏休みの間だけだ。
「……もーすぐ夏休みも終わっちゃうねぇ」
わたしたちの地域は夏休みが短い。八月に入ってから始まって、下旬にはもう学校が始まる。学校でも陽向とは一緒に居られるが、二人っきりの時間は夏休みの方が多かったから、終わるのが名残惜しい。
「夏乃(なつの)、宿題終わったの?」
「うわ、それ家で日葵にも言われた。終わってるわけなーい」
「おい」
けらけらと笑っていれば、呆れたように笑った陽向の手がこちらへ伸びてくる。反射的に目をつむれば額にぺち、と軽い衝撃が走った。
「でこぴんすんなし! もっとバカになったらどうするんだよ~」
大げさに痛がって見せれば陽向は堪えきれないという様に噴き出した。怒ったふりをしていたわたしも、陽向が笑ってくれたことが嬉しくてつい一緒に噴き出す。
「あーあ、夏休みが終わらなければいいのになぁ。ずっと陽向と遊んでいられるし」
「宿題もしなくていいし?」
「あはは、それもある」
わたしはぐぐ、と足を持ち上げ、それを下ろす反動で勢いよく起き上がった。白いシャツについた砂埃を払い、奥の祠の方へ移動する。
「神様―、夏休みが終わらないようにしてください!」
ぱん!と祠の前で手を合わせる。後ろから陽向の呆れた声がした。祠の奥は暗くて、何が入っているのか、あるいはなにもないのかわからない。
子供じみた馬鹿な願い事、礼儀のかけらもない参拝。神様、と呼び掛けこそすれ、本当に神様に届けるつもりも毛頭ない戯言。
それでも、あとから考えればきっと、この時からすべておかしくなっていたのだ。
そういえば、猫の鳴く声がしたような。
### 八月一日 進路希望
田舎の貧乏高校にはエアコンなんて高級なものはない。あるのは天井に数機設置された埃だらけの扇風機だけ。扇風機たちは今日も頑張って生ぬるい風をわたしたちに運んでくれているが、正直この温暖化が進んだ夏では焼け石に水と言わざるを得ない。
今日は夏休み中に何日か設けられている補講の日だ。午前中だけとはいえ迷惑極まりないなんて不届きなことを思う。わたしは下敷きでぱたぱたと顔を仰ぎながら手元の紙を見下ろした。これまた古ぼけた机に置かれたそれは進路希望調査票だ。高校二年の夏、未来のみの字も見えていない子供に無理やり色のない将来を見せようとしてくるつまらない紙。つい先ほど、放課前のホームルームで配られたものだ。わたしはこのまま実家の家業を継ぐから、特に困ることもなく就職と書いた。あぁ、汗で紙が腕に張り付くのだけは困ったかもしれない。
周りを見渡してみれば、わたしと同じように暇そうな生徒と、まだ机にかじりついている生徒とが半々くらいのようだ。何人かは早く帰りたそうにそわそわとしている。
わたしはちらりと斜め前に視線を動かした。陽向は随分と時間をかけて書いているようだ。こんな湿気た気候でも何故か艶やかな射干玉の髪がはらりと落ち、陽向はそれをうざったそうにかき上げる。白いワイシャツで包まれた背中を見ながら、陽向もずいぶん背が伸びたよなぁ、なんて思う。小さいころからわたしよりずっと背が高くて、いつか抜いてやるぞなんて思っていたけれど結局叶いそうにない。わたしのワイシャツはすこしぶかぶかのままだ。
手元でペンを遊ばせながら思考に耽る。
そういえば、わたしは陽向とこれから先、高校を出てからもずっと一緒に居られる気でいた。今まで通りとはいかなくても、陽向もずっとこっちに残っていて、なんだかんだ一緒に出掛けたりしてくれると思い込んでいた。――もっと先の未来は、あえて見ないふりをしていたのだけど。
陽向は何をあんなに時間をかけて記入しているのだろう。
下敷きで顔を仰いでいた手が無意識に止まる。さぁ、っと血の気の引いた体は扇風機の風ですら寒いと感じる程だった。自分のあまりの能天気さと稚拙さに呆れる。
陽向がこの土地からいなくなることなんて、考えていなかった。
程なくして担任から気だるげな回収の声がかかる。わたしと同じようにさっさと記入を終えた生徒たちはぱらぱらと席を立ち、教壇へと向かって行く。がたがた、ぎぃ、と椅子と床が擦れる煩わしい音が教室にあふれても、陽向は顔を上げなかった。わたしも他の生徒と同じように席を立ち、進路希望調査票をよくわからない落書きやら謎のシミやらで年季の入った教卓に裏返して置く。ちらり、戻り際、まだ机にかじりついていてこちらに気づいてもいないような陽向の用紙を盗み見る。
陽向の進路希望調査票には、遠い都会の、有名な大学の名前が書いてあった。
 わたしは気付けばあの場所にいた。緑の香りを纏う澄んだ風がわたしの火照った頬を撫でる。
年を重ねるにつれ行動に自由度が増え、一日に数えるほどしか来ない電車を使って隣町などにも遊びに行くようになっていたけど、わたしは未だにこの場所によく足を運んでいた。陽向が一緒に来てくれることは、前よりずっと減ったけれど。秋には落ち葉を掃いたり、冬には祠が壊れないように雪をどけたりもしていた。何となく、陽向と二人きりでいさせてくれたこの場所を守っていたかったんだと思う。
肺がつぶれてしまいそうなほど乱れていた呼吸をようやっと整え、わたしは顔を上げる。
祠の前には猫がいた。黒猫だ。この猫は昔からここに居るからずいぶん老猫のような気がするが、しかし毛並みは随分とつやつやとしていてきれいだ。もしかしたらどこかの飼い猫なのかもしれない。
いつもように石畳に腰を下ろしたわたしに猫がすり寄ってくる。この子のおやつを持ってくることもあったから、今ではすっかり懐いてくれていた。
「ごめん、今日はおやつないんだ」
猫は小さく鳴いて、特に気に留めた様子もなくわたしの膝の上に乗ってくる。艶やかな毛を優しく撫でながら、わたしの瞳からはみっともなく涙がこぼれていた。
「陽向さー、都会に言っちゃうんだって」
気持ちよさそうに細められていた猫の金色の瞳がゆっくりとこちらを見上げる。人の言葉などわかっているはずもないのに、こちらの話を親身になって聞いてくれているような感じがして、わたしはつい、ぽつぽつと言葉を続ける。
「きっとさー、向こうにいったらこっちの事なんか思い出さなくもなっちゃうよね」
相槌のように木々の葉がざわめく。
「全部が刺激的でさ、楽しいこともたくさんあって。綺麗な人もたくさんいてさ」
優しくて何でもできてカッコいい陽向は、きっと都会でも大人気だろう。きっとこちらの何倍もはやく時間が流れているようなせわしない環境で、いろいろなことを学んで、成長して、わたしよりずっと先に行ってしまう。わたしはずっとうだつが上がらないまま、よく言えば長閑なこの地で曖昧模糊とした人生を歩んでいくのだ。
「……やだなぁ」
声が震える。猫はのどを鳴らした。
「この夏が、ずっと、終わらなければいいのに」
わたしは再度、あまりにも愚かな願い事を宣う。
数年前も願った戯言。しかしあの日よりもずいぶんと切実な願い。
猫はわたしの顔をじっと見つめていた。わたしのみっともなく震えるいくつかの呼吸の後、猫はひとつ、にゃあ、とだけ、鳴いた。
### 八月十五日 誘蛾灯
灼くるような、あの子みたいな太陽がすっかり姿を隠してから、わたしはようやっと外に出た。
<ruby>一日<rt>ついたち<rt></ruby>の補講から陽向とは会っていない。
もう流石に事前約束もなしに家のインターフォンを押しに行けるような年齢ではないし、補講もしばらく予定されていない。
わたしにできることと言えば、日葵や両親に怪訝な顔をされながらも自室に引き籠り、うだうだと答えのない問いを考え続けることだけだ。
祖父の代に建てたという大層立派で大層年季の入った我が家は二世帯で暮らしてもなお広く、わたしと日葵にはそれぞれに個室が与えられていた。西向きの窓があるわたしの部屋は昼過ぎから夕方になると眩しいくらいに日光が差し込む。冬ならまだしも、夏のそれは暴力的だ。カーテンを閉めるためだけにのそのそとベッドから這い出したのがもう数時間前のことだ。
とっぷり日が暮れ、短夜の香りが漂ってきたところで、わたしはひそかに裏口から庭へと出た。昼に比べて空気が冷え、その分増した湿気が肌に一つ膜を張るような不快感に少しだけ眉を顰める。砂利が適当につっかけたサンダルの底と擦れて音を立てた。
行く当てもなく歩いた。歩いていれば、少しばかり気がまぎれる気がした。世間はお盆だ。どこからか線香の香りがする。
ぽつぽつと街灯が照らす無駄に広い歩道をただ進んでいく。大体の人が車移動をするこの田舎町では歩行者ともあまりすれ違わない。
考えるのは陽向の事。わたしに何も言わず、進路希望調査票にわたしでも知っているような都会の大学の名前を書いていた陽向の事。あんなに一緒にいたのに、わたしのいないの未来を当たり前のように思い描いて見せる陽向の事。
遠くでばち、と何かが弾けるような不快な音がした。足を止め、緩慢な動作で視線だけそちらへ向ければ、寂れたコインランドリーの軒先で、誘蛾灯に引き寄せられた蛾が地面でのたうっていた。周りにはすでにこと切れた同族が数匹。
哀れだと思った。まるで自分を見ているようだった。光に導かれて、手が届きそうになって、触れれば墜ちる。もう一度手を伸ばすことは能わない。わたしもきっと、あの子の光に導かれて、自分は特別だなんて勘違いした蛾の一匹に過ぎないんだろう。
わかっている。人にはそれぞれ人生がある。わかっている。子供じみた執着であの子を縛ってはいけない。わかっている。陽向みたいな人はこんな田舎で燻っている場合ではない。わかっている。その方があの子のためだ。
わかっている。
これが、抱いてはいけない感情であることくらい。
「あー……」
きっと、わたしは、この感情を陽向以外に抱くことはないだろう。
クラスメイトの少女たちが黄色い声を上げるような可愛らしい恋なんかじゃない。エロスだかルダスだかアガペーだか、昔の賢い人たちが分類したそれらでもない。あぁ、そういえばなんか一つそれっぽいのがあったような気もしたけど、もう忘れてしまった。
ぽつ、と冷たいものがうつむいたままの頭にあたった。あぁ、雨かなどと他人事のように思う。傘なんて持ってきていないけれど、そのことを気にかけられるような気分ではなかった。
大粒のそれは次第にわたしの肩、背中、そして地面までも濡らし、色を塗り替えていく。コインランドリーの中にでも避難すればよいのに、わたしはただ雨に打たれるままになっていた。雨が涙を隠してくれるからなんて健気な少女みたいな理由なんかではなく、ただ、ある種の自傷として、わたしは誘蛾灯の青白い光から目を逸らさずに、ただそこに立ち尽くしていた。
コインランドリーの中では乾燥機が回っているのが見える。日は落ちたが、まだ深夜というには早い時間だ。こんなところで傘もささず佇んでいては、陽向より低いとはいえそれなりに上背も伸びた今では不審者として通報されかねない。頭の冷静な部分はそうわかっているのに、足は雨で溶けてアスファルトと一つになってしまったかのようだった。
「……の、夏乃!」
急に肩を掴まれ、反射的に振り返る。目に映ったのは、怪訝そうな住民でもお巡りさんでもなく――大きな黒い傘をさして、心配そうに眉を下げてこちらを見下ろしている陽向の姿だった。
「ひっ……陽向? どうして……?」
素っ頓狂にひっくり返った声を恥ずかしがる余裕もなかった。陽向が触れている肩が、雨で冷えた体の中で異様に熱を持つ。そんなことつゆ知らず、優しい陽向は傘に入れるようにわたしの肩を引き寄せる。
「ちょうど塾の帰り。夏乃の母さんから連絡があって。息子が久しぶりに家から出たと思ったら帰ってこない。そっちに行ってないか? 傘も持って行かなかったから心配だ、って」
陽向は変わらず心配そうな色をした瞳でわたしを見下ろす。塾なんて、わたしの元から離れていく準備をしていてなお、わたしに優しいんだ。
酷いな。ずるい人だ。
「そ……っか。ごめんね、迷惑かけた」
わたしはなんとか言葉を絞り出す。変な表情をしていないといいけど。
そういえば、スマホも持たないで出てきてしまったから、家を出てからどのくらい経ったかわからない。思えばこのコインランドリーは家から大分離れている。きっと連絡もつかなかったから母は焦ったのだろう。でも高校生がちょっといなくなったくらいで周りに連絡しないでよ、なんて不孝なことを思う。
「いや、いいよ。とにかく、いったん中に入ろう」
陽向はわたしの背を押しながらコインランドリーの方へ歩き出す。わたしは頷いてその手に従った。久しぶりにこんなに近くで陽向を見た。ガラス張りのコインランドリーから漏れる暖色光がなめらかな輪郭を彩っていた。
二人では狭い傘の下で腕と肩が触れ合う。先ほどまで冷えていたのに、触れた肩が熱い。あぁ、自覚してしまう。
自分がこんな醜い人間だなんて、知りたくなかった。
### 八月十五日 可惜夜
彼の骨ばった手が傘を畳み、ガラス戸を押す。きぃ、と軋んだ音がした。ここはわたしが物心ついたときからあるコインランドリーだ。設備はときどき新しくなっているみたいだけれど。中には誰もいないのに、エアコンが効いていて濡れ鼠のわたしには寒いくらいだ。
わたしたちはところどころ皮の破れた安っぽいソファに腰かける。陽向は持っていたスクールバックからシンプルな紺色のハンカチを取り出すと、わたしに差し出した。
「いいよ」
「風邪ひくから。使って」
半ば押し付けられるようにハンカチを受け取る。陽向の香りがした。言われた通り、ありがたく濡れた髪や肩を拭う。変にぎこちなくなっていないだろうか。
暫く無言の時間が続く。ハンカチが大分水分を吸い取ってくれたところで、話を切り出すタイミングを窺っていたのであろう陽向が口を開く。
「……何かいやなことでもあったの? 大丈夫?」
「……ううん、特に何も。大丈夫だよぉ」
笑って見せるが、陽向の表情は曇るばかりだ。当然だ。これでは何かありましたと言っているようなものだ。大丈夫、と聞いて大丈夫と答える人は大丈夫じゃない、というのは定石だし。わたしは元来隠し事があまり得意ではないのだ。
やわらかく低い声が続ける。
「話なら、聞くけど」
「陽向に話すことじゃない」
自分でも驚くほどぶっきらぼうな声が出た。陽向の肩が揺れる。わたしの勘違いでなければ、陽向の表情は傷ついているように見えた。いたたまれなくて、思わず視線を下に向ける。
「……そっか、不躾なことを言ったね」
乾燥機の回る音がいやに煩い。陽向に弁明しようと思うのに、いつもならぺらぺらとよく回る口は気の利いた事一つ言えやしない。
「……塾は、何習ってるの」
挙句の果て、出たのは明らかに話題逸らしのへたくそな言葉だった。陽向はそれを分かっていて、けれど気づかないように振舞ってくれる。
「塾? うーん……学校よりすこし難しい数学とか、物理とか、英語とかかな。受験対策に。模試受けたり」
「へー。難しそ~。……陽向、受験するんだね」
あたかも今日初めて知りました、みたいに装って言う。いつもどうやって陽向と話していたかわからない。冷たい手のひらにじっとりと汗をかく。
陽向はすこしだけ微笑んだまま、うん、と頷いた。
「正直、今のままじゃ難しいところ狙ってるから。頑張らないと」
頑張らなくていい。喉まで出かかって、何とか堪える。けれど頑張ってね、応援してる。と言えるほど、もちろん割り切れてもいなかった。
「……ハンカチ、ありがと。濡れちゃったから洗って返すね」
紺色のそれをぎゅっと握りしめる。陽向はいいのに、と遠慮したが、これは別に陽向に気を使っているわけではない。陽向に声をかける口実を持っておきたいだけだ。もう十年近くも一緒にいるのに、わたしは幼い時から何も変わっていない。
雨音はもう聞こえなくなっていた。通り雨だったのだろうか。雨が止んだら、きっと陽向は行ってしまう。今一緒にいても何となく気まずいだけなのに、それでも、わたしは陽向を独占していられるこの時間を終わらせたくなかった。
「……雨、止んだね」
ずっと聞いていたくなるような穏やかな声で、陽向は終わりを告げる。
「出ようか。誰か来ても気まずいし」
スクールバックを肩にかけて、陽向は出口へと向かった。わたしも頷き、あわてて後を追う。
空はすっかり晴れていた。田舎の空はバケツですくった宇宙をこぼしたみたいに綺麗で、都会の人たちがきっと存在にすら気付かないような小さい星々が煌めいている。陽向はこの空と別れるのも寂しくないのだろうか。どこでも空は繋がっている、なんて言葉もあるけれど、わたしはそうは思わない。この眩いほどの星空の下で、ずっと陽向といられたらいいのに。
「……星を」
「ん?」
「星を見に行こうよ」
思わず口から脈絡もない台詞が飛び出す。自分でも笑ってしまいそうだった。いくらこの可惜夜を終わらせたくないからと言って、あまりにもロマンチストが過ぎる。
「なんでまた、急に」
陽向は足を止めて振り返ってくれる。あぁ、本当に優しい人だ。
「とか言って、付いてきてくれるでしょ」
それは願望であり、懇願であった。きっと陽向はわたしのことを無下にしない。きっとわたしの多少のわがままは聞いてくれる。そんな、子供じみた。
わたしはできる限りいつもと同じように陽向へ笑いかける。陽向が小さく息をのむ音がした。
陽向はしばらく、少し目を見開いてわたしの顔を見つめていた。呆けたような、怯えたような、不思議な表情だった。
「い……いいけど、どこに」
当然何も考えていなかったわたしは顎に手を当て、首をかしげる。真っ先に思いつくのはあの神社だが、今は木々が覆い茂っていて空はあまり見えないし、先ほどの雨で足元も悪そうだ。
「んー……神社……は地面がぬかるんでそうだし……あ! 高校の屋上とか」
「おい、不法侵入」
「えー」
いい案だと思ったのに一蹴されてしまった。わたしは肩を落とす。思い付きで星を見に行こうなんて言ってみても、この辺りの天体観測スポットは軒並み高い山の上だ。夜は酷く冷えるし、徒歩でなんて到底行けるはずもない。
「うーん……じゃあ、ちょっと遠回りして、空見ながら帰ろうよ」
結局、陽向と一緒に居たいだけのわたしにはそれで十分だった。
「……それなら。送ってくよ。何か心配だし……少し遠回りして」
陽向は、珍しく笑って言った。
わたしたちは隣に並んで歩く。もう傘は差していないから肩や腕が触れ合う距離じゃない。わたしたちは何か特別な理由がないとあんなに近くにはいられないのだ。わかっていてなお、寂しいと思ってしまう。
隣の陽向を盗み見る。無駄な肉のない輪郭と通った鼻筋、涼しげな目元。肩にかけたスクールバックを支える手のひらは白くて滑らかなのに骨ばっていて、わたしのそれより一回りは大きいだろう。ずっと隣で見てきて、ずっと触れられなかったそれは、きっと来年の今頃には手の届かない所へ行ってしまう。
他愛のない話をした。いつもよりどこか特別で、いつもと同じ夜の帳の中で。いままでは、この手に触れられなくても、となりでこの暖かい陽だまりを享受できればいいと思っていた。でも今は違う。わたしは一人で陽だまりのない冬を歩けない。きっとわたしは、陽向無しでは呼吸の仕方すら忘れてしまう。
わたしたちは、わたしの湿った服が十分乾くほどの間、ほとんど人のいない夜道を歩きつづけた。この夜が陽向にとっても忘れられないものになればいいなんて、傲慢なことを思った。
少しだけリズムの違う二人分の足音が夜風に溶けていく。
「……今更だけど、塾終わりにごめんね。こんな子供みたいなわがまま言って」
わたしの家が近くなってきたころ、ふと会話が途切れた後に、わたしは徐に話を切り出した。一日中部屋にこもっていたわたしとは違って、陽向は疲れていただろうに。
「いいよ、ちょうど勉強漬けにも気が滅入ってきたころだったし」
陽向はどこか遠くを見ている。さっき陽向が言っていた、正直今のままじゃ難しいところを狙っているから頑張らないと、という言葉をもう忘れてしまうほどわたしは馬鹿じゃない。陽向の性格だってよく知っている。真面目で、まっすぐで、努力家。きっとわたしの件がなければ今頃だって机にかじりついていたんだろう。申し訳なくなる気持ちと、こうやって陽向の時間を奪っていれば陽向が遠くへ行かないかもなんてあまりに利己的な考えが浮かんで嫌気がさす。
「陽向は、優しいね」
純粋な感謝と、自分への嫌悪と、少しの恨めしさと、名前を付けたくない感情。それらが混ざって絞り出された短い言葉は酷く掠れていた。
「誰にでもじゃないよ」
思わず息をのんだ。見上げた横顔は変わらず、何を考えているのかわからない。
また陽向は酷い事を言う。ずるい人だ、本当に。そうやって光のようにふるまって、勘違いした蛾を引き寄せる。まるで、わたしが特別だと言っているような、そんな勘違いをしてしまう。
そんな勘違いをしてしまったから、きっとわたしは人生最大の愚を犯してしまったんだろう。
### 八月十五日 告白
結論から言えば、わたしは失敗した。
ずいぶん陽向を連れまわしてしまった。夜はさらに更け、すでに明かりを消して夜の一部になった家も多い。
わたしは、自宅へ至る最後の曲がり角で足を止めた。陽向は数歩だけ先に進んだが、わたしの足音が止まったのに気づいてかこちらを振り返る。
「どうしたの?」
陽向は数歩の距離を詰める。街灯に照らされたアスファルトの上で、わたしたちの影は一つになった。陽向が少しだけ首を傾げ、頭一つ分背の低いわたしの顔を覗き込む。きっとひどい顔をしているだろう、笑っていようと思うのに、うまく表情が作れない。いい年になって今にもへの字になって泣き出してしまいそうな口元を必死に持ち上げる。
耐えられなかった。この行為が、これまでの陽だまりのような生活を壊してしまうことだとわかっていても止められなかった。どんな方法でも陽向の中にわたしという存在が鮮烈な記憶として焼きつけられればと思ってしまった。もちろん、陽向が頷いてくれたらそれ以上のことはないのだけれど。
「ごめん」
「ごめんね、陽向」
わなわなと震える口元がか細い音を紡ぐ。
「なに、どうしたの、本当に」
陽向は少し身を屈めてわたしの表情を覗き込んだ。わたしの揺れる瞳と、陽向の夜空みたいに綺麗なそれが互いを映した。視線が交わる。わたしの視線はたいそう湿っていて、ずいぶん熱を持っていたと思う。
「すき」
わたしは、ついに、その言葉を吐いてしまった。
あぁ、言ってしまった。熱を帯びた心と裏腹に、もう戻れないと悟った脳が冷えていく。粘ついた後悔が喉に絡みついて呼吸が苦しい。肺が水で満たされているかのようだ。
「………………えっ?」
ずいぶんと長い沈黙だったように思う。しばらくの後、陽向は思い出したかのように素っ頓狂な声を上げた。
その声色で、わたしは自分の失敗を悟った。
陽向は二、三歩たたらを踏んだ。アスファルトに落ちた影もすっかり二つに分かたれる。陽向の色の薄い唇が歪む。それは小さく開かれ、何かを言おうとしては閉じる。
人生で一番長くて、一番絶望的な刹那だった。
「……それは」
陽向の声は震えていた。
人として、友達として。陽向自身がそういうことにして、この告白を無かったことにしたいのか、馬鹿なことをしたわたしに逃げ道を作ってくれたのか、どちらかはわからない。きっとその両方だろう。
「よくない方の意味」
けれどわたしはその逃げ道を棄却した。
陽向が悪いんだ。わたしから、この町から、離れようとするから。それなのに、変わらず夏の太陽みたいな、あるいは誘蛾灯の明かりみたいな振る舞いをするから。
――なんて、全部、わたしの利己的な感情だ。かわいそうな陽向。ずぅっと昔に、わたしに優しくしただけで、こんな目に逢うなんて。
自嘲的に笑えば、陽向は呼吸を詰めた。
「なつ、の……」
「……送ってくれてありがと。またね」
ついに、わたしは耐えられなくなって目を逸らした。困惑、絶望、失望、嫌悪。きっとこれまでわたしに向けられることのなかったそれらの色が浮かんでいるその瞳を直視できなかった。
もう終わった。断られて、陽向との関係も修復できないくらい滅茶苦茶になって、わたしの人生は終わり。わかっているのに、またね、なんて傲慢で慣れ親しんだ言葉が唇のあわいからこぼれた。
「あ……」
わたしは陽向に背を向けた。こちらに伸ばされかけた陽向の手が視界の端に消える。
自宅までのわずかな距離を走った。扉を開け、母のこちらを咎めるような声を気にも留めず自室に駆け込む。
その後のことはあまり覚えていない。
覚えているのは、陽向の香りがする湿ったハンカチに顔を埋めて、瞳が溶けてしまうのではないかというくらい泣きはらしたことだけ。自分でも何がしたいのかわからない。陽向と違ってわたしは考えるのが苦手で、ばかで、正しい選択なんて選べない。
十年間積み上げてきたものが、全部泡沫の如く消えてしまう。
これは、わたしの人生で一番の愚行だった
### 八月三十一日 夢浮橋
この奇妙な夏について、いくつか分かったことがある。
一つ、この夏は八月の三十一日までたどり着くと、もう一度八月の二十二日に巻き戻る。彼と幽明境を異にしたあの日に。なぜ気が付いたかと言えば、文字通り繰り返したからだ。
前回の八月三十一日。あの日、世界が茜色に染まる夕暮れ時。結局あの神社まで足を運べず、情けなく背を丸めながら路地を歩いていた私の目の前に黒猫が現れた。あの時の総毛立つ感覚は今でも鮮明に思い出せる。
あの時、猫は恨めし気にこちらを見つめ、私にこう言った。
あの子と、ちゃんと話しなさい、と。
その夜、私は世界から逃れるように熱帯夜にも関わらず頭から布団をかぶって浅い眠りに落ちた。次に目覚めた時、カレンダーや新聞の日付は八月二十二日に戻っていた。
目を疑った。ついにおかしくなったのかと自分の頬を抓ったり頭を叩いたりしても何も変わらなかった。
二十二日には、私は変わらず母にお使いを頼まれ、近所のおばあさんの世間話に付き合わされつつも馴染みの青果店に足を運び、西瓜を貰った。二十五日に小学校の向日葵畑に足を運べば、また変わらず日葵ちゃんが花壇の手入れに来ていた。
この異常な夏を認識してから、脳にずっとかかっていた霧が晴れたようだった。そして、理解した。私はこの日常をもう何回も繰り返している。何度も、何度も。――あの夏の残滓も、変わらず私の前に現れていた。
ともかく、いわゆるループという古今東西様々な物語で手垢の付くほど擦り続けられたそれが、いま私たちに起きている現象を正しく説明する言葉だった。
夏乃と話をしなければならない。それは分かりきっていた。だが、彼はもういない。あの夏の残滓も込み入った話ができる程長時間現れるわけではない。猫の言う通り、『ちゃんと』夏乃と話すためにも、この終わらない夏についてもっと知らなければ。そんな半ば言い訳じみた理由で、私は十日間ほどこの夏についての情報を集めていた。
その過程で他にもいくつか分かったことがある。
一つ、どうやら彼の死から、この町の季節は進まなくなったらしい。体感では一年近くたっているような気も、まだ数週間のような気もしていて、気味が悪い。
一つ、私以外に、母や他の友人、さらには日葵ちゃんに至っても、この状況がおかしいことを理解していないらしい。そういえば、彼が死んでから学校や塾に行った記憶もない。
一つ、私はこの小さな町から一定以上離れることはできない。先日、この町の不可思議な現象がどこまで及んでいるのか気がかりで、ローカル線を乗り継いで新幹線が通る大きな駅まではるばる足を運んでみようとした。しかしその日は車両トラブルで電車が止まってしまい、その後運転が再開することもなかった。偶然かと思い翌日、翌々日も試してみたが、その度に異音だとか車両トラブルとか、鹿と衝突しただとか、とにかく大きな駅までたどり着くことは能わなかった。偶然と片付けるには都合がよすぎるため、私はこの現象が終わらない夏によって副次的に引き起こされているものだと結論付けた。
ただ、終ぞ彼やあの黒猫に関する確定した情報が増えることはなかった。
日はすでに天辺に近くなっている。私はこれまでに得た情報を認めていたノートを閉じ、天井を見上げる。十年来の友になる学習イスが、十年の間に随分重くなった体重に鈍い悲鳴を上げた。頭が痛い。瞼が痙攣する。目を閉じ、深く息を吸う。
もう一度、あの猫の言葉について思考する。
「『あの子と、ちゃんと話しなさい』、か」
吐息交じりに呟く。蚊取り線香臭い空気に言葉は溶けて行った。
結局、件の黒猫や彼の件については、断片的な経験から細い糸を繋いで推理とも言えない推理をするしかない。
まず、件の黒猫はきっと常世のモノではない何かだろう。人語を操っている時点で分かりきっていたことだが。
黒猫が何者かはさておき、この夏の事情に一枚噛んでいるのは確かだ。だが、それこそ猫の手も借りたいほどの現状であっても、あの黒猫を直接問いただすのがたった一つの冴えたやりかたでないくらい私にもわかっていた。
そして、この夏の根本的な原因は、あの黒猫の言葉から推察するに彼なのだろう。同時に日葵ちゃんの言葉を再び思い出す。彼女は、兄がいるのならきっと私とよく遊んでいたあの場所だ、と言っていた。
私はもう一度、ゆっくりと瞬きをする。
今日でまた、夏が巻き戻る。
この夏は彼を殺した私への罰なのだろうか。罰にしては随分と綺麗な形をしすぎてはいないだろうか。
どちらにせよ、いい加減、私はちゃんと向き合わないといけない。
正直、時折現れるあの残滓が夏乃本人ではないことなんてわかりきっていた。
町中で見るアレはきっと私の内にある後悔の残滓だ。自覚する罪が見せる幻覚なのか、この夏によって引き起こされている超常現象なのかは定かではないが。
十日間もうだうだと考えたが、結論はシンプルだ。できるものなら本物の夏乃に会いたい。話したい。私の大切な夏に。失ってしまった夏に、再度相見えたい。
ずっと見つめ続けて、焦がれて、灼かれて、なお、最期の最期で目を逸らした夏に。
私が殺した、夏に。逃げ続けた夏に。今度こそ、あの場所で、正面から。
### 八月二十二日 答え
わたしの人生最大の愚行から一週間が経過した。
この一週間のわたしはまるで呼吸する涙と鼻水製造機といったありさまだった。何にも手がつかない。課題に手がつかないのは昔からだけれど。なんて。
もう陽向が夏休みの課題をやっていないわたしを怒ってくれることはないんだな、とまた悲しくなる。もう高校三年だし、わたしは進学しないのだから当たり前なのに。あぁでも、わたしが愚かな真似をしなかったら、もしかしたら帰省した時にまただらけているわたしを叱るくらいはしてくれたかもしれない。
瞼が重い。スマホのインカメを鏡代わりにして顔を見れば大層ひどいものだった。時たま女の子にいいなと褒められていた瞼の二重が浮腫みで影も形もない。まぁどうせ誰にも会わないしいいか、なんてスマホを放り投げてまた布団に横たわる。
夏休みが終わったらどんな顔して陽向に会おうか。急に距離を取ったら周りの人たちに変にみられてしまうかもしれない。でも陽向はもうわたしに付きまとわれるのはごめんだろう。あと一週間で夏休みも終わる。課題はともかく、今後の振る舞いだけでも答えを出しておかなければ。
ピンポン、と階下の玄関で来客を告げる音がした。出る気もないまま寝返りを打てば、ガラガラと玄関の戸が開く古めかしい音がした。日葵が出たのだろうか。
しばらくして、とんとん、と階段を上がる音が聞こえる。足音はわたしの部屋のドアの前で止まった。わたしがドアの方に視線を向けるのと、日葵の声がしたのは同時だった。
「お兄ちゃん、冬生くんがきてる」
わたしは布団から転がり落ちた。
「おにいちゃーん?寝てるの?」
慌てて起き上がれば酷くこめかみが痛む。
「お、起きてる……!けど、ごめん、帰ってもらって!」
朝から大して音を発していない喉から音量調節を誤ったかすれ声が出る。陽向にも聞こえたかもしれない。
陽向が来る理由なんて一つしかない。わたしにはっきりと引導を渡すためだ。真面目な陽向のことだからなぁなぁにはできずに、わたしと同じように一週間考え抜いてくれたのかもしれない。まぁ、答えは決まっていて、どう伝えるか、の方を考えていたのだと思うけど。
日葵は黙って階段を下りて行った。下で何か話している気配がする。またしばらくして、足音。
「どうしても話したいことがあるんだって」
ドア越しにまた日葵の声がする。
「こっちもどうしても無理!」
いつかは絶対に向き合わないといけないことなのに無駄な悪あがきだ。今から殺されるとわかっていて潔く出ていける人がどれだけいるだろうか。
「もう!それならお兄ちゃんが直接いいなよ!」
日葵は怒って階段を駆け下りていく。わたしは力なく床にへたり込んだ。どんな顔して会えというんだ。
また階段を上る足音がする。がちゃ、と部屋の扉が開いた。日葵がしびれを切らして開けたのだろうと思い込んだわたしはうつむいたまま声を荒らげる。
「日葵!だから無理だっ――」
「や、ごめん、夏乃……」
心臓が止まるかと思った。多分二秒くらい止まっていたと思う。わたしはここ一年で一番大きな悲鳴を上げた。
「ご、ごめん……日葵ちゃんが開けていいって言うから……」
恐る恐る顔を上げれば、文字通り飛びのいたわたしをやや心配そうに見つめている日向がいた。その後ろでは、背の高い陽向の背中にすっぽりと隠れていたらしい日葵がひょっこりと顔を出し、あっかんべーをして走り去った。げんこつの一つでもしたい気持ちになるが、それどころではない。部屋はわたしの心模様を反映したように荒れているし、髪も服も整えていない。顔なんてまさしく泣きはらしていましたといった様だろう。今更焼け石に水だろうが、わたしはうつむいたまま手で髪を整える。
「……ちょっと、散歩にでも行かない? 話したいことが、あるんだ」
陽向の声は今日も落ち着いていて、まるでいつもと変わらない様子だった。安心するような腹立たしいような、奇妙な感情が腹の中を渦巻く。着いていったら最後、今度こそわたしたちは終わりだ。けれどきっとそれはあんな愚かなことをしてしまったわたしにお似合いの結末だろう。
「……わかった。行くから、ちょっとだけ待って」
日葵と言い争っていた時とは似つかないわたしの細い声に、陽向はうん、と頷いて扉を閉めた。しかし階段を下りていく気配はなく、扉の前で待っているようだ。日葵の許しがあったとはいえ、陽向にしては随分と強硬手段だ。わたしは諦めて、処刑場に赴く囚人のような心持で最低限の身だしなみを整える。瞼の浮腫みだけはどうしても取れなかったが、もういいか。うつむいていれば、背の高い陽向からはわたしの表情はあまり見えないし――もう、見ようともしないかもしれないし。
わたしは扉を開ける。やはり陽向はそこにいて、わたしがちゃんと扉を開けたのを見てほっとしたように口角を上げた。なんで、なんで今もそんなやさしそうな顔するの。
「今更だけど、急に上がり込んでごめんね。行こうか」
わたしは首肯し、陽向に続く。日葵は部屋に戻ったようだ。両親も仕事に行っているようで、階下は伽藍洞だった。
わたしたちは無言のまま、すでに橙色の光で染まる町の中を歩く。どこに向かっているかはすぐに分かった。あの神社だ。わたしは陽向の一歩後ろを重い脚を引きずりながらついていく。わたしはあの神社に――陽向と二人きりのセカイだったあの場所に辛い思い出を持たせたくはなかった。どうかあの場所だけは綺麗なまま、大切な思い出の宝箱の奥底に、やわらかい綿で何重にも包みしまい込んでおきたかった。
わたしたちはかつて通っていた古びた小学校の前を通りかかる。ここには向日葵畑がある。きっと今はわたしの背丈よりも大きく育った太陽が幾本も咲き誇っているだろう。わたしは向日葵が好きだった。太陽のようでありながら、その中央の黒い種を見つめていると吸い込まれてしまいそうな、見つめられているような恐怖を覚えるところも含めて。
「……陽向、向日葵を見ようよ」
陽向は振り返り、しばらく考えるそぶりをした後頷いた。今度はわたしが先を歩きながら小学校の裏手に回る。今日は開放日ではないらしく、子供たちの姿はなかった。この向日葵畑も一応鍵がかかっているが、簡単に外せてしまうのはわたしたちが小学生のころから改善されていない。
「ねぇ、見て!」
成長しきった向日葵は太陽を追わない。西日が差し込む中、向日葵は太陽から目を逸らす様に東を向いている。わたしも向日葵みたく陽向に背を向けたまま、できる限りの明るい声で言葉を続ける。
「ここなら、隠れて見えないよね、ねぇ、うってつけじゃない。誰にも見られない。ばれないよ、ここなら」
しばらく陽向は何も言わなかった。沈黙の気まずさから気を逸らす様に向日葵が風に小さく揺れる音へ耳を傾けていれば、陽向の心地の良い低い声も耳に届く。
「……隠れないよ、こんなところ。学校だから。すぐ見つかってしまうよ」
陽向はどうしても訣別の場所にあの神社を選びたいようだ。今日の陽向の強引さからして、きっとわたしが何を言っても変えられないだろう。これからするらしい『話』の結論と同じように。
「……そっか」
振り返り、陽向に向き直る。
ちらりと陽向の表情を伺えば、その肩がびくりと震えた。滑らかな皮膚を持ち上げる喉仏がゆっくりと上下し、なにかに怯えるように視線が彷徨う。頑張って笑みの形を作ったが、陽向の反応を見るに正しくその形になっていなかったのだろう。
わたしたちは再び表に戻り、口数少なに木々が覆い茂る山の方へ向かう。途中、古い駄菓子屋跡を通り過ぎた。よく陽向と寄り道をしていたそこはすでに店を畳んでしまっていた。
「タエばぁ、このまえ見かけたよ。超元気だった」
「……そうなんだ。ここが店じまいしてから寂しくなったけど、それならよかった」
結局、会話らしい会話はそれだけだった。昔はあれだけ愛おしかった時間が、今は拷問のようだ。段々と暗くなっていく空がわたしの未来を暗示しているようだった。それでも大人に近くなったわたしたちの足では程なくして町はずれへと至る。街灯もなく、この時間では山肌に沿う様に作られた坂を登り、ついにわたしたちは神社へ続く石階段へたどり着いた。
陽向は迷わず、ところどころ高さの違う苔むした石階段を登っていく。あぁ、もう終わりか。ここでぐずっても仕方がない。わたしも陽向に続き、昔よりもさらに難なく階段を登り切る。
陽向は鳥居の下で待っていた。わたしはその前で足を止める。木の葉の隙間から出立したばかりの月の舟が覗く。それは少し日に焼けた陽向の頬を白く照らした。
「夏乃」
大好きな声がわたしを呼ぶ。陽向の吸い込まれそうなほど黒い瞳がじっとわたしを見つめている。少しだけ、苦しそうに眉根が寄せられていた。
「……うん」
目を逸らすことは許されなかった。
「ごめん」
わかりきっていた答えだった。
「……そっか」
「うん、ごめん」
「……どうして?」
理由なんて聞いても何にもならない。ただ傷を抉るだけだ。わかっていても、口から言葉が滑り出すのを止められなかった。
陽向は表情を変えなかった。変わらず、少しだけ苦しそうな顔をしたままだ。
「やっぱり小さい町だから、噂とか……」
濁すような言葉に思わず声を荒らげそうになる。そういうことが聞きたいんじゃない。じゃあ二人きりしかいない世界にしたら、陽向はずっとそばにいてくれるの?なんて、そんなありえないことを口走りそうになる。それを止めたのは、続く陽向の言葉だった。
「でも、夏乃のことは本当に大切なんだ。友達としては、これからも一緒にいてほしい」
そう言って、陽向は、こちらに手を差し出した。滑らかな皮膚がしろい月光に照らされて淡く輝いている。
嘘。嘘嘘嘘。一緒なんて嘘。なんでそんな嘘つくの?わたしも、この町もおいて、遠くの都会に行くつもりのくせに。これから、なんて、端から描いていないくせに。
「……陽向、嘘つくのが、上手になったね」
結局、わたしが言えたのはそんな憎まれ口だけだった。差し出された陽向の手がびくりと震える。
「あー」
差し出された手を見つめたまま、体中を渦巻くへどろみたいな感情が呻き声みたいに漏れる。乾いた笑い声が喉の奥底からくつくつと漏れる。膝から頽れてしまいそうだった。
「この夏が、ずっと終わらなければ、いいのに」
喉奥から絞り出された嗄声が譫言を紡ぐ。
怨嗟みたいで、愚かで、何年も前に口にした同じ意味の願いよりもずっと重い、呪いみたいな願いを。
聞き届けたように、猫の鳴き声が聞こえた。
### 八月二十二日 彼岸花
 陽向はなにか恐ろしいものを目の当たりにしたかのように硬直していた。差し出された手は所在なさげにゆっくりと下りていく。
この忌々しくも愛おしい感情に蓋をして、陽向のわたしより一回り大きい温かな手を取れていたら、なにか違う未来があったのだろうか。
陽向の前でみっともなく泣かないように、わたしは上を向いた。古めかしい石造りの鳥居の奥には満天の星空が広がっているだろうに、涙でぼやけた視界では星座も何もわかったものではない。
瞬きを一つ。表面張力に打ち勝った涙の粒が目尻からこめかみを伝った。一瞬、視界が鮮明になる。刹那。
いつだってわたしを拒まず迎え入れてくれた大きな鳥居が、ぴしりと嫌な音を立てた。次いで、重い物同士が擦れるような嫌な音。
世界がコマ送りのアニメーションになったみたいだった。何が起ころうとしているのかを理解するより先に、わたしの脳みそから爪の先までの全細胞が、たった一つの冴えたやり方を導き出す。
「──陽向!」
陽向とわたしの間にあった、互いに手を伸ばさないと触れられないくらいの距離が零になる。足がもつれた勢いのまま、伸ばしたわたしの手は陽向を押し倒す。陽向のいつだって静かな瞳が見開かれた。視線がわたしとわたしの頭上を行き来する。やがてその瞳には、わたしが先ほどまで宿していたのと同じ絶望の色が宿った。
きっと耳を劈くような音がしたのだろう。
わたしの耳には届かなかった。自分の可愛くもない悲鳴の方がうるさかったから。
体が潰れる嫌な音がした。地面に打ち付けられる。痛い。意識が遠くなる。陽向がわたしの名を叫んでいる。
「な……っ夏乃、夏乃!」
手を握られた、ような気がした。目が見えない。いや、緋が、緋だけが見える。彼岸花みたいだ。
「きゅ、救急車……っ!」
「……いい」
身に余る願い事の報いだろうか。今更助かろうなんて無意味なことわたしが一番よく分かっていた。
「えっ……?」
いつになく陽向が焦っている。わたしのことで。こんな状況なのに、少しだけ気分がよかった。
「もう、むり、わかる」
陽向の綺麗な顔がくしゃくしゃに歪んだ。そんな顔もするんだ。最期にいいもの見たな。ただ目の前の衝撃的な光景への嫌悪か、あるいは。なんて。あーあ。馬鹿だな、わたしは。
「はやく、いきなよ」
これはただの事故だ。正真正銘。わたしが陽向と出かけたのを知っているのは日葵だけ。日葵なら――きっと、都合の悪いことは言わないだろう。聡い妹なのだ、わたしよりずっと。
「小さい町だから、噂とか、気になるんでしょ」
自分がいざ死にゆくとわかって願うのは、傷のない陽向の未来だった。
今、誰かに見つかったら瞬く間に根も葉もない噂が広がるだろう。わたしたちの平穏で狭い町ではこんな事件は一大エンタメだ。それで受験どころではなくなったら――陽向は?
陽向が遠くの都会になんて行かない未来、なんて、ここ数週間擦り切れる程夢想した。でも、もうどうやってもわたしが隣にいられないのなら、そんな未来はいらない。陽向の夢が叶ってくれた方がずっといい。
それに、これほどまで鮮烈な記憶を忘れることは不可能だろう。これできっと陽向は都会に行ったとてわたしのことを忘れはしない。なんて、またくだらないことを思う。
陽向はまだわたしの名前を呼んでいる。声が震えているような気がする。泣いているのかな。わたしのために。早く行けよ。吐き捨てた言葉は音になっていただろうか。
「……ごめん」
「ごめん、夏乃」
やがて、懺悔のような言葉の後、おぼつかない足音がゆっくりと遠ざかっていった。あぁ、終ぞ陽向はわたしのこと名前で呼んではくれなかったな。
熱帯夜だというのに寒くて仕方がない。真っ当に大切な人の幸せを願えない人間だから、こんな最期を迎えるんだ。お似合いだな、なんて、笑おうとした喉からは、赤黒く汚い血が吐き出されるだけだった。
「……人は、馬鹿だな」
 陽向じゃない、何かの声がした。
### 八月三十一日 待宵
私は学校指定の白いシャツと黒いスラックスを身に着けて自宅を後にする。足取りに迷いはない。見飽きた町へ繰り出すだけなのに、やけに緊張する。私は一つ深く息を吐き、玄関扉を開けた。途端、ずぅっと変わらぬ湿った熱気が体を包む。思わず眉をひそめた。まるで全く歓迎されていないようだ、なんて被害妄想も甚だしいか。
今日も今日とて空は淡く澄んでいる。遠くの入道雲がまるで絵画みたいで、どこか現実味がない。こんなにも気分は晴れないというのに、空模様だけはずっと爽やかだ。
古びた小学校とシャッターの降りた駄菓子屋を通り過ぎ、更に木々が覆い茂る山の方へ向かう。
相変わらず暑い日だ。額の汗を拭いながら山をぐるりと囲むように作られた坂を登る。苔むしたコンクリート擁壁の隙間から伸びる石階段までくれば、件の場所はもうすぐそこだ。私は少しだけ上がった息を整えるように、あるいは脳裏にガンガンと響く本能的な警告を無視するために、再度深く息を吸い、吐く。
「……よし」
私は意を決し、ずいぶんと急な勾配の階段を登って件の場所へ向かう。昔は登るのに苦労したような気がするが、背も十分伸びた今では数分も要さずその階段を登り切ってしまう。
――眩暈がした。
彼を殺した鳥居が目に入る。
笠石の中央から崩れた石の鳥居には<ruby>Keep out<rt>立ち入り禁止<rt></ruby>のテープが貼られている。
相当な重量物が叩きつけられた石畳は無残にも割れてしまっていて、辺りには大小さまざま石塊が散らばっている。石畳の奥に鎮座する古びた祠も、ずっと昔から何も変わらない姿でそこにある。
あの日はここに、目に焼き付くほど鮮烈な赤が咲いていたのだ。全部彼が死んだあの日のままだ。彼は死んだんだ。ここで。この鳥居の下敷きになって。
逃げろ、と本能が言う。膝が笑う。目が回りそうだ。それでも私は、掌に爪が赤い三日月を作るまで拳をきつく握りこんで何とか一歩を――あの日以来、初めて踏み出した。
喉奥にこみ上げる酸っぱいものを何とか抑え、警戒色のテープをくぐる。立ち眩みのような感覚にきつく瞼を閉じ、もう一度開いたとき。
「――っ」
目の前には、彼がいた。
祠の前。私より頭一つ分小さい背丈。緩く体の前で手を組んで、やわらかい頬笑みをたたえている。思わず足元を確認するが、彼はすらりと伸びた足で普通の人間と同じように立っていた。服装はあの日、私が無理やり彼を連れ出した時と同じだ。すこしサイズの大きい白いシャツが風に揺れている。荒れた地面に足を取られそうになりながら、私は導かれるようにふらふらと彼の前まで足を進めた。手を伸ばせば触れられるほどの距離。あの日より、少しだけ傍まで近づく。
「……久しぶりだね、陽向」
彼は、そういって目を細めた。
「……ずいぶんと待たせてしまったみたいだね」
久しぶり、と彼は言った。一体私が微睡から目覚めるまでに、どれくらいの夏を繰り返したのだろうか。彼はおかしそうに口元に手を当てて笑った。
「そうだねぇ。もう一回死ぬかと思ったよ」
「……そんなに?」
「うん、そんなに」
楽しそうに彼は笑った。砂糖細工みたいに軽やかな声色で笑えない冗談を言うのはやめてほしい。いや、きっと冗談ではないのだろう。もう一回死ぬかと思うほど長い時間の間、私たちはずっと蜃気楼のなかにあったのだ。
「こうして話すのも本当に久しぶり。陽向、全然来てくれないんだもの」
「……ずっとここにいたの」
うん、と頷く彼に合わせて猫毛が揺れる。ならば、私が見ていた街中での残滓はやはり彼ではなかったのだろう。少し考えこむ私を彼はただ懐かしそうに見つめていた。
「地縛霊みたいなものなのかな? 離れられないんだ」
思わず絶句する。
「それは……」
想像して気が遠くなる。明瞭な意識のまま、訪れるかもわからない待ち人を待ち続けなければならなかった、だなんて。正気を失うには十分な時間だっただろう。顔をひきつらせた私に、彼は少し困ったように笑った。それは、私がよく知る彼の笑みだった。
「あぁ、でも話し相手はいたから。陽向のことも教えてもらっていたんだよ」
彼は視線を下に向けた。私もつられてそちらへ視線を落とす。そこには彼の影があった。
「……ひっ」
影だけが蠢いた。体に変な力が入って、上ずった声が漏れる。影の一部がずるりと夏乃の脚に纏わりつき、次第に形が定まっていく。猫だ。あの、黒猫。顔らしき部分には満月のような金色の瞳が輝いている。
「覚えてる? この子、ずっと前からここに居た子だよ。いまはクロって呼んでる」
彼はしゃがみ込み猫を撫でた。刹那、記憶がフラッシュバックする。黒猫を見かけたときに覚えた妙な既視感の正体に思い至る。
そうだ、この神社には猫がいた。まだ小学生だったころ、夏乃とここへ来たときに構って遊んだのを覚えている。成長してあまりここへ足を運ばなくなってからは見かけなくなってしまったが。
「陽向さ、どこまでわかった? 答え合わせ、できそう?」
夏乃はゆっくりと立ち上がって再び私の方に顔を向けた。風が彼の前髪を遊ばせ、目元に影が落ちる。無意識に浅くなる呼吸を落ち着かせるように、私は深く息を吸った。
「……正直、わからないことだらけだ。でも、いくつか分かったことはある」
うん、と彼は小さく相槌を打つ。私は続けた。
「まず、この夏は、君が私のせいで死んだあの日から一週間を繰り返している」
うん。また彼は一つ頷いた。
「終わらない夏はこの町だけの現象である。また、住民は違和感を覚えていない」
うん。彼がまた頷くのを待って、続ける。
「度々、街中で君を見かけたけど、それは君本人じゃない」
次いで、私は視線を猫へ向ける。
「その猫は普通の猫じゃない。この終わらない夏を作る力を持っている何かだと思う」
猫がじとりとこちらを睨みつけた。少し怖気づくが、唾を飲み込んで続ける。
「この夏の根本的な原因は、君である。私は、夏を終わらせるために、君と――夏乃と、話さなければならない」
濁したいい肩をしたのは彼にも伝わっているだろう。正直、わかっていないのだ。夏乃と何を話すべきなのか。必要なのは罪の懺悔だろうか。彼の心を受け入れることだろうか。私の命をかわりに差し出すことだろうか。
「うーん」
彼は考え込む探偵のように顎に手を当てて首をかしげる。少し不服そうな声だ。
「五十点」
彼の白い両手が胸の前で五と零を作る。落第だ。困った。
「陽向にも解けない問題があるんだね」
項垂れる私をよそに、彼は愉快そうに口を開けて笑った。
「陽向の答え合わせするなんて変な感じ。いっつも教えてもらってばかりだったから」
「……君が宿題を後回しにした挙句、わからない間に合わないって言って泣きついてきたんだろ……」
夏乃の視線が私の方へ戻る。笑みが少し自嘲気味な色を纏った。
「ふふ。ほんとは解けるんだよ。陽向に構ってほしいから出来ないふりをしていただけ」
「えっ」
何でもない事みたいに告げられた事実に私が何か言うより先に、彼は言葉を続ける。
「……なんて、今はどうでもよかったね。いくつかヒントを出そうか」
彼は半ば無理やり話を元に戻した。言外に掘り返すなと言われているようで、私は口を噤む。
「前半の話はほとんど正解だよ。違うのは最後」
一つめ、と、人差し指を立てて彼は続ける。
「この夏はクロがとある願いによって作り出したもの」
二つめ。彼は二本の指を立てる。
「クロはこの祠の神様。陽向がいない時もわたしはお参りしていたから、だんだん力を取り戻したらしい」
人の信心が神や怪異を生む、というのは良く言う話だ。科学技術が発展して怪奇現象に説明がついたから、妖怪は日本から姿を消した、なんていう話も聞く。
三つめ。思考する私をよそに彼の話は止まらない。
「でも、願いには代償が必要」
四つめ。
「クロはわたしのことが大好きで、陽向のことは……嫌いらしい」
五つめ。目が合う。
「この夏を終わらせるのは、わたしじゃないよ。夏を終わらせたくないのは、わたしじゃない」
「あの日のこと、よく、思い出して」
開いた手を閉じ、夏乃はわたしの頭上を指さした。
### 八月三十二日 快晴、時々、魚雲
――そこには、鳥居があった。あの日崩れたはずのそれが、在りし日の姿で。
夏乃が数歩後ろへ下がる。互いに手を伸ばさなければ触れられない距離。あの日と同じそれに冷汗が引き出す。金縛りにあったみたいに体が動かない。視線だけ空へ向ければ、石造りの鳥居越しに満天の星空が見えた。
「あの日、わたしが振られて」
「夏乃」
「わたしは陽向と離れ離れになる次の季節が来てほしくなくて」
「……夏乃」
「『この夏が、ずっと終わらなければいいのに』なんて、願って」
「夏乃、なぁ」
「クロはわたしの願いをかなえようとしてくれたんだ」
「やめてくれ、夏乃」
頭上で大きな鳥居が、ぴしりと嫌な音を立てた。次いで、重い物同士が擦れるような嫌な音。何が起こるか分かっているのに、体が制御を失ったかのように動かない。
「でも、私が予想外の行動をしたから、クロの計画は破綻した」
胸に衝撃が走る。動かない体は慣性のまま石畳に打ち付けられた。重い石が地面に叩きつけられる轟音が耳を劈く。瞼を閉じることは許されなかった。
眼前には緋が広がっている。あの日のように、体の半分を大きな石につぶされた夏乃が、赤黒く濡れた口を開いている。見開かれた琥珀色の瞳が不釣り合いにギラギラと輝いていた。
「この後、きみはどうしたの」
この後、私は?
救急車を呼ぼうとして、夏乃に止められて、この場を去れなんて言われて、それで――。
――それで、そうだ、私は、祈った。
夏乃を失いたくないと。
そうか、全部、私が。
「正解」
夏乃は、赤黒い血を吐き出した。
黒猫が鳴く。途端、金縛りにあっていたようだった体が自由になる。慌てて立ち上がれども、緋はもうどこにもなかった。顔を上げれば申し訳なさそうに夏乃が眉を下げていた。空も明るい。黒猫の力とやらでタチの悪い幻覚を見せられていたのだと気が付く。
「ごめんね、意地悪した」
私は縺れる足で彼に駆け寄り、薄い肩を両の手でつかむ。
「……二度も君を殺させないで……」
手加減なんてする余裕もなかったから痛かっただろうに、彼は少しだけ目を見開いて、その後何故か嬉しそうに顔を綻ばせた。私はそのままずるずると膝を折り、彼の前にしゃがみ込む。
「……もうしないよ、ごめんね」
同じくしゃがみこんだ彼の手が激しい呼吸と心拍を繰り返す私の背を撫でてくれる。涙が出そうだった。私が落ち着くまでのしばらくの間、彼はずっとそうしていてくれた。
彼のヒントとあの日の再演で得たピースを一つ一つはめていく。
きっと元々、あの黒猫――ここに頻繁に通っていた夏乃によって力を得た神様――は、鳥居を落として私を殺そうとしていたのだ。私の命を代償として夏乃の『この夏がずっと終わらなければいいのに』という願いを叶えるつもりだったのだろう。今の夏乃を見るにこの世界では死んだ人間でも存在できるらしいから、神様は終わらない夏の小さな町で、夏乃が満足するまで私を飼い殺す定だったのではないだろうか。人間からしてみれば殺してしまったら終わりだろう、勘弁してくれという感じだが、それは人ならざる者との感覚の違いなのだろうか。
けれど夏乃は馬鹿なことに私を庇った。そして――図らずしも、夏乃の命を代償に捧げた、私の『夏乃を失いたくない』という願いが成立してしまった。成立した願いを反故にすることは神様でもできないのかもしれない。必ず何らかの形で叶えなければならないのかも。この辺りは、きっと夏乃にもわからないだろう。
ともかく、夏乃の命を代償に、私の願いが叶えられることになった。けれど神様をもってしても死者を生き返らせることはできなかった。もしかしたら神様でもそれは一番やってはいけないことなのかもしれない。夏乃の命を代償に夏乃を生き返らせる、なんて変な話だ。だから神様は本来夏乃の願いを叶えるために想定していたやり方を使った。ここに居る間、夏乃は失われないから。
私たちは昔みたいに石畳の階段に並んで腰を下ろしていた。
ジグソーパズルみたいに組み立てた真相をぽつぽつと呟き終われば、夏乃はもう一度「正解」と悲しげに笑った。
「……まぁつまり、わたしの自業自得に陽向をまきこんだってわけ」
彼は肩をすくめる。
「陽向の夢を応援できなかったから、バチがあったったんだ」
私が県外の大学を目指していたのが受け入れられなかった、と先ほど彼から聞いた。私は仮に県外に出ても頻繁に戻ってくるつもりだったが、彼の中ではきっと大きな問題になっていたのだろう。
「そんな自罰的な言い方……と、いうか」
私は言葉に詰まる。導き出した真相が意味する未来。正解、と笑う彼が、悲しそうな理由。理解したくない結論がぐるぐると頭の中を巡る。
「夏乃」
「うん」
どうやら、私たちの未来は、あの日消えないペンで描かれてしまったみたいだ。
「……一緒には、戻れないの」
「そうだね。陽向だって見たでしょ。わたしの骨。お墓の場所だって知ってる」
彼が無理やり笑っていることがわからないほど馬鹿じゃない。私のせいで死んでしまった人。私なんかのために死んでしまった人。私なんかを、好きになってしまったばかりに死んでしまった――この世で一番大切な人。かわいそうな人。自分も同じ気持ちを持っていたくせに、世間体なんかを気にしている意気地無しなんかを好きになってしまった、かわいそうな人。
「……じゃあ、」
言いかけた言葉は、彼にさえぎられる。
「ここに残る、なんて言わないでよ」
喉が変に詰まる。それはまさしく今私が口走ろうとしていたことだったから。
「本当はずっと一緒に居たかったよ。でもそれは、どっちも生きていてのこと。隣に居られないのなら、陽向の夢が叶ってほしい」
まっすぐな琥珀色と目が合う。呼吸が触れそうな距離。もっと前に、私からこのくらい近づけていたら。今更、全部後の祭りだ。彼の瞳を見つめ返したまま、私は囁く。ずっと昔、まだ幼かったころに、そうしていたように。
「私たち、あんなに話していたのに、ぜんぜんお互いのことわかってなかったね」
「本当にね。なのに、好きになってしまった」
「馬鹿だね。二人とも」
「うん」
二人だけにしか聞こえないくらいの小さな音を呼吸に乗せる。遮るものがなくなった頭上の空は晴れ渡っていた。いろいろな形の淡い雲がぷかぷかと浮かんでいる。
「……魚みたい」
「ん?」
夏乃もつられて空を見る。
「ほんとだ。海みたいだね」
弾むような笑い声をもう聞くことができないなんて、信じたくない。
「……陽向、受験頑張ってね」
「……うん」
けれど、他でもない彼自身が、私の未来を望んでくれるのなら。
それならば、ちゃんとお別れを、しなくては。
「夏乃」
彼は空を見つめたままだ。
「ねぇ、最期にお願いがある」
彼のつんと立った細い鼻先が、目尻が、ほんのりと赤い。私は黙って先を促す。
「名前で、呼んで」
最期のお願いは、存外可愛らしいものだった。
「……<ruby>雪奈<rt>せつな</rt></ruby>」
彼は花が綻ぶように、嬉しそうに笑った。
「ありがと、陽向――わたしの太陽」
「さよなら、幸せになってね」
晩夏光が町を照らす。
もうすぐ秋が来る。
空には、魚雲が浮かんでいた。
### メモ書き、すれ違いのめんどくさい解説、その他あとがき
お互いに冬の人間だけど、お互いを太陽だと思っている向日葵ちゃんたち。
冬生陽向(ゆき ひなた)
絶望的にポーカーフェイス。頭がいい。ブルべ冬。良くも悪くもレールに乗った人生にとらわれ過ぎている。普通に雪奈にべた惚れである。絶望的に顔に出ない。大学進学によって生まれる距離のことは全然大事に思っていなかった。ちょくちょく帰ってくるつもりだったし。
夏乃雪奈(なつの せつな)
陽キャ模倣型人間。おバカのふりをしているが普通に勉強はできる。陽向よりはできない。家業は名産品を作る系のやつ。世界の中心に陽向を置きすぎている。普通に怖い。顔はカワイイ。
黒猫
善意と好意が空回りの怪異。雪奈が喜んでくれると思ったんだもん……こんな寂れた祠の面倒を見てくれる雪奈に幸せになってほしかったんだもん……
陽向は雪奈のことがちゃんと好きだった。好きだった、から、距離を取ろうとした。まともになろうとした。きっと一時の過ちだと。気の迷いだと。誰も幸せにならないと、そう決めつけてしまった。
日葵ちゃんについて。
陽向が夏乃を見殺しにしたこと。夏乃を置いて逃げた事。もちろん日葵はあの日二人が一緒にいることを知っているけど、黙っている。そのため、あの日陽向はその場にいなかったことになっている。日葵は、様子のおかしい雪奈が陽向の事好きなのもわかってたし、女子の勘で振られそうなこともわかってた。
日葵的には、陽向は結構嫌い。あの場所に陽向が呼び出さなければ、兄が死ぬこともなかった
神社以外で陽向が見ている残滓は雪無本人ではなく、陽向の罪悪感等による幻覚。陽向のSAN値はもうないのである
雪奈や猫が陽向の家の中まで現れないのは招かれないと入れないからである。もう向こう側の存在なので。
鳥居で人を殺すのは、人から信仰される神の役割の放棄に等しい。元々、神ではなくて妖のほうが性に合っていたのかもしれない。
イメージソング
- プロポーズ
- 死ぬにはいい日だった
- わたしの線香
- ぼくのかみさま
- Sunflower
- ジムノぺティック
[イメソンリスト(Youtubeに飛びます)](https://youtube.com/playlist?list=PLc_x59VCh_qQMY6-YrX_VGWcBi6tJrDYV&si=ETFdNTyj1Lx2l9sQ)
### 二月二十二日 未来
「あの神社、取り壊すんじゃなかったの?」<br>
「いや、何でも冬生市長が猛反対したって」<br>
「ふぅん。あそこ、死亡事故があったところでしょ。幽霊とかでそうで怖いわ~」<br>
「なんか、死んだ人が冬生市長の同級生らしいよ」<br>
「え、なにそれこわ。本当に事故なの?」<br>
「さぁ。何十年も前のことだし。ただの噂だよ」<br>
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快晴、時々、魚雲
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## 創作お役立ち本紹介
ということで、このセクションでは創作(特に文章)に役立つ本を紹介します。
ただし、私の言語形態では<b>瞳は宝石だし肌は陶器だし髪は絹糸だしその滑らかな薄い手のひらに触れてしまったら砂糖菓子のように崩れてしまいそうで恐ろしくも言いようのない仄暗い喜びを覚える感じ</b>なので、こういった表現を好まない人には役立たないかもしれません。ご承知おきください。
1. キャラクター・物語のプロット作成時
2. 文章作成時
の二つに分けて紹介します。
### キャラクター・物語のプロット作成時
まずはキャラクター性をこねくり回したり、物語のフックとなる物を発掘したりと、0から1に持っていくところで役立つ本を紹介します。
#### 対立・葛藤類語辞典
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物語やキャラクターを魅力的にする要素の一つとして、物語内でキャラクターたちが向き合う対立・葛藤があると思います。それらをまとめ、どのような問題が引き起こされるか、どういう結果が想定されるかをまとめた本です。好きなように書いていると、いつも同じような題材になってしまうので、たまに眺めていつもと経路の違う葛藤を探したりします。
#### 悪役の心理
<img src="https://hackmd.io/_uploads/B1E4Hxr7Wl.jpg" width="30%">
悪役、難しいですよね。作者の考えつくより悪いキャラクターは生まれませんから……。
この本では、性格別ごと→型ごとに悪役の特性が解説されています。有名キャラクターの分析もありますよ。
#### 論理的思考力を鍛える33の思考実験/5分間思考実験
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<img src="https://hackmd.io/_uploads/HkukulBQbg.jpg" width="30%">
どちらも思考実験関係なのでまとめて。
みなさん、思考実験は好きですよね。どちらも同じ作者で、一部掲載内容も重複していますが、上の方がやや詳しく、下の本の方がゲームブック形式でやや易しいです。思考実験シナリオを作りたいとき・思考実験を引用した描写をしたいときにおすすめです。
#### 物語のある鉱物図鑑
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鉱物だーい好き。いろいろな鉱物について、写真とそれにまつわる歴史や物語が紹介されています。和名も載っています。言わずもがなですがキャラクター名を考える時や瞳の色を描写するときに便利。
#### 創作ネーミング辞典
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いろんな単語の英、仏、独、伊、西、羅、希、露語訳が乗っています。中二病なのでラテン語が載っているのが凄くうれしい。学研のこのシリーズは後ほども登場します。
### 文章作成時
次に豊かな地の文を書くときに重宝する本を紹介します。
#### 品格語辞典
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簡単な言葉を頭がよさそうな類語に言い換えてくれる本です。例えば、「美しい」だったら、「華美」「壮麗」など。簡単な言葉で調べることができ、もちろん意味もついているので、より細かいニュアンスを表現できるようにもなります。とっても便利。
#### 美しい日本語の辞典
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その名の通り美しい日本語の単語や慣用句の辞典です。一般的な単語と、天気、空模様など自然を表現するときの言葉、それから擬音・オノマトペが掲載されています。意味から逆引きができないので、たまに眺めて使いたい表現集にストックしておくなどの使い方をしています。
#### 感情類語辞典
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「彼は怒った」だけでも十分ですが、もう少し描写を凝りたい……みたいなとき、ありますよね。この本は、その感情を持った時に、どういった反応や行動をするのかが記載されています。例えば、「彼は口もとを歪めた。その拳は固く握りこまれ、白くなっている」みたいに。
#### 情景言葉選び辞典/感情言葉選び辞典
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<img src="https://hackmd.io/_uploads/rJe-1bBmbl.jpg" width="30%">
さきほど紹介した学研の辞書シリーズです。用途としては品格語辞典や感情類語辞典と同じ感じですが、掲載言葉が違うので平行して使っています。また個人の所感ですが、どちらもより「日本が舞台の物語」だと雰囲気が出る表現が多いと思います。情景の方は「雲」「雨」等、感情の方は「嬉しい」等、簡単な言葉から逆引きできるのも便利です。
#### 色を表す言葉の辞典
<img src="https://hackmd.io/_uploads/ByC8dWH7Zl.jpg" width="30%">!
色に特化した言葉辞典です。巻末に色一覧とRGB、CMYK、カラーコードが付いているのも丁寧。地の文に色を描写するの大好き人間なので重宝しています。お絵描きにも勿論便利。
#### 雨夜の星をさがして
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ここからエモいゾーン。この本では四季にまつわる言葉が、きれいな写真と一緒に紹介されています。掲載されている写真から創作している物語のシーンのインスピレーションを得たり。淡い空気感の物語を作っているときにピッタリです。
#### 感傷と感情の言の葉帳
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こちらも言葉と写真がまとめられている本です。感情、感覚、感傷にわけてまとめられています。触れたら消えてしまいそうな人と崩れてしまいそうな景色を描写するのにピッタリ。
#### 一生忘れられない言の葉図鑑
<img src="https://hackmd.io/_uploads/BJMvFZHQZl.jpg" width="30%">
またまた言葉と写真がまとめられている本です。四季、色、天気、感情に分けてまとめられています。上記二冊も同じですが、時折作者さんの詩が挟まれていて嬉しい。今回載せた小説ではことらの三冊に大変お世話になりました。
#### おわりに
ここまでお付き合いありがとうございました!心躍る物語や口の中で転がしたい美しい文章をこれからもたくさん紡いでいきたいところです。まだまだ求めるものには遠いので引き続きインプットもアウトプットも頑張らねば。
あしたはtsuzuさんの記事です。お楽しみに!