# 椿感想 ``` iPadとApple Pencilを¥62260で買ったけど、てことはわたしの人生も¥62260で、 そんなのはいやだけど、でもほかにやりたいこともないし、 7.9インチ、300.5グラム、金属とガラスのなかで、インターネット、不細工な万華鏡みたいな、 どこもかしこも違うようで同じ世界のなかで、生命をけずってゆっくりと脱皮していた ころの夢をいつまでも追いつづけることが、本当に生きていくということ。 わたしは小さな箱庭のなかで、すべての人間と一緒になって、誰にも気づかれないように、 ひそひそ話をくりかえしている。 いつまでも鮮烈なままで。 それは、すべての人間が、もう二度と戻れないほど深いねむりに落ちるとき。 *——椿* ``` 実家には椿が植っていて、花に興味のない子供の時分では、硬くて立派な実の皮を使って工作した。私にとっての椿とは硬くて立派な木であった。椿油が取れることを知っていたらたくさんの実をもいで遊んだだろう。 大人になってみると、世間の表現はそうでなかった。椿姫などは娼婦の儚い恋であり、また温泉地の土産には夢二と並んで赤い花弁と黄色いおしべのかわいらしい柄が置いてある。 庭に植っていた椿は、大きな花をまるごと、ぽとりと地面に落とす。一枚ずつ花弁が落ちるのではなく、花の塊が落ちるのだ。見事な形を保った椿は装飾されたように地面へ鮮やかに散りばめられる。儚い。確かにそんな景色も記憶にあった。 その後、両親の仕事が忙しくなったので、実家の庭は手入れがされず、雑草が丈いっぱいに背伸びしていた。片付けと言って不要な机や椅子を庭に放置するので、錆びつきツルがまいて、まるで根を張ったようにたたずんでいた。最近になって、定年を迎えた両親が整備し始めたからきれいになりつつあるものの、荒廃した光景が見られなくなり、先日帰省したときに少しばかり残念に思った。 庭といえば、オーストラリアを旅行したときには、屋根も壁もテラスも、色とりどりに塗装されていた。民泊で利用した家の庭には、バーベキューセットが置いてあったし、芝はきっちり刈りそろえられていた。洗濯物干しも置いてあったが、スコールに見舞われる土地柄でどの程度使っているのかはわからない。曰く、外国の庭だった。 デジタル化によって箱庭が増えた、と感じる。箱庭をコミュニティ、サービス、ツールやデバイスと言い換えてもいい。 箱庭というのは、手の届く範囲を最小化して、観賞用に理想を凝縮したものだ。家の庭とは違い、ある土地で何かをするのではなく、何もないところに土を、植物を、飾りなどを置いて作る。自分の家の庭とはまったく趣旨が違う。仮に洗濯物干しを箱庭に置いたとして、スコールの心配をすることはない。 デジタル化によってできた箱庭は、あるものをあるべき形にするのではなく、ないものをあるように見せることで成り立っている。そこで行われるコミュニケーションは、何もなかったところ、誰かの理想を凝縮した場所で行われる。なんとなく、ディズニーランドが頭に浮かぶ。 それこそ、Apple社製品なんてものは理想の塊だ。Appleの売り方をみたって、ステーブジョブスのスピーチを聴いたって、買った人間をじっくり眺めてみたって、各々が理想を叶えるために動いていることがわかる。デザインやそのスタイリッシュな精神に憧れるのも、提供者にコンセプトという名の軸心があるから叶えられるのだ。 理想の一端を掴むのに、62,260円。高いのか安いのか。金銭感覚は人によって違うだろうが、社会人には掴むに易いだろう。普段仕事で使うモニタよりなお小さい液晶画面に、いろんな理想を叶えた、いろんな箱庭が見える。もはや、見える箱庭から自分の理想が何かを考えることがあるくらいだ。わたしはこれを非現実的リバースエンジニアリングとこっそり呼んでいる。呼んでいる時に抱く感情は多分、恋心と同じ意味の「憧れ」という言葉で表現できる。 「憧れ」とは何か。漫画の登場人物に憧れをいだくことも、かっこいい先輩に憧れることもあるだろう。憧憬。「憧」は心が落ち着かない様、「憬」とは気づくこと。 社会に出る年齢になって心が落ち着かない、というのは恥ずべきことだろうか。箱庭は日々作られる。昔から映画や小説、演劇などはプロからアマまで作り続けられており、かつてはこうしたコンテンツが箱庭で憧れの対象だった。今や箱庭はいろんな形態を変え、SNSでコミュニケーションを図ることも、コンテンツを自分で作ることも容易になった。箱庭に、そこから得られるものに、憧れを懐かないわけがないのだ。 しかし、注意してほしい。憧れや理想を現実にするのは、たとえ非現実的リバースエンジニアリングが手順化され簡単に現実にできるようになったとしても、叶えられる総体としてのリソースは有限なのである。 アイドルの存在しない場所で最初のアイドルになるよりも、アイドル戦国時代に成り上がるほうが無論難しい。小説や映画を作ったところで、見てもらえるかどうかは、目につきやすさと相対的な評価である。箱庭は、鑑賞者の多さを問わないが、提供する価値を特定の人間にしか与えない。 叶えたい理想がユニークであればあるほど、リソースは少なくなる。 理想を叶えるための理想の環境とは、リソースを使わない現実の仕方にあるのではないだろうか。 この作者はかつて、人間の在り方の究極が植物である、ということを語った。自然という言葉が植物を示すように、万物に調和した体現者である。基本的には場所を選べず、しかし根を張ればそこに生態系をつくることができる。 密閉した瓶の中でエコシステムをつくった人の記事を読んだことがある。半世紀も前に作ったのに、今なお水を循環させ、排泄物を栄養として蓄える。外から取り入れるのは日光のみ。時間を経ると、光合成と細胞呼吸の割合は、エコシステムの中で均衡をとる。リソースを循環させるのだ。 もし、この植物が思想という夢をずっと見続けていたら、そして夢を叶え続けることができたなら、それは最も理想的な存在ではないだろうか。 理想を共有できるものの実現するのが難しい現状を打破する、という理想を抱くこともまたおかしい話ではない。植物の在り方が理想だと言うこの作者もまた、自然と行き着いた境地にたどり着いたにすぎない。 それは、すべての人間が、もう二度と戻れないほど深いねむりに落ちるとき。 人間を捨てず、かといって人間を見捨てず、夢みることを夢みる。 なんだか、まるで少女のようだ。椿のように。
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