白銀観念自在 体罰必要論 http://kanjo.g1.xrea.com/rule.htm において、体罰絶対不要論の内容が記されている(2019.3.21)。そもそもこの理論は、感情自己責任論という根源の下に立脚しており、その他戦争、死刑制度、交通事故、社会における諸問題について言及している。 以下、適宜上記URLから引用を含む。 **「子供は褒めれば調子に乗り、叱れば伸びる」 いわゆる「賞罰の錯覚」「前後即因果の誤謬」。実際には伸びた時に褒め、調子に乗った時に叱っているだけ 「口で言って聞かなければ叩けばよい・叩くしかない」 教育・躾に体罰・虐待は不要どころか禁物。「自分の言動の是非・善悪・結果・他者への慈しみを理解出来ない者」に必要なのは、適切な学習と訓練と保護監察。体罰や暴力に頼るのは創意工夫・指導力・許容力・寛容の無さの表れであり、虐待や体罰はそうした己の無能さを相手のせいにする責任転嫁以外の何ものでもない** から始まり、 **「子供の食べ物の好き嫌いが激しい」 多くの場合、単に親の料理が下手なだけ。子供は本能的に自分の体に何が必要で必要でないかを本能的に見極める。子供が欲しがる栄養素はその子の生育にとって必要なので、疾病でもない限りなるべく与えた方が良い。食べたがらないものを無理矢理摂食させるのは虐待の一種** **「偏食は良くない」 一般論としてはその通りだが、必要な栄養素は個体差があり、多くの場合(おいしいと感じることで)選別する。特定の病状を緩和するために特定の食材を食する者もいれば、ジャムパンだけで全ての栄養素を賄える人間もいる** に至るまで延々とQ&A形式で自身の見解を示している。なお、デュラララチャット上にて筆者本人は「体罰不要論の科学的根拠」として上記URL、ひいては上記引用文を紹介している。 ところで、科学とは何か。戸塚宏によれば、「科学の定義は再現性」である。 (※ https://www.youtube.com/watch?v=0GN2H2vMlIw 31:10~ 以下、ニコ生) (※ 動画内引用文は原文ママでなく、あくまで趣旨である。以下同じ) 戸塚まろん流では、「科学の定義は再現性、反証可能性、公正妥当性」である。再現性とはその理論を使えば必ず所与の結果が得られること、反証可能性とはその理論は必ず別の理論によって覆される可能性をはらむこと、公正妥当性とは通念上重要な問題となる確実性が副作用以外にないこと、である。 公正妥当性における「通念」とは、絶対的な尺度で測ることのできない、その時代ごとに異なる相対的なものである。「副作用以外にない」とは、その理論の主たる目的が通念上重要な問題を引き起こすことにない、ということである。例えば弾道学において、その理論が専ら殺人をもたらす銃砲技術に資するとしても、あくまで殺人は副次的であり、その理論の主目的は自身・自国の防衛にあると解するのと同様である。 また、反証可能性についていえば、「網羅性」がポイントとなる。網羅性を厳密に定義すると、 1. 全体集合Aにおけるすべての要素をX1,X2, ……, Xn とした場合、任意の要素Xf を十分に理論構成に含めることを、「Xfについて言及する」と定義する。 2. この時、言及していない要素が∅(空集合)以外に存在しないならば、全体集合Aの網羅性は完全である、とする。 (なお1の「十分に」とは、理論構成に資する要素であると合理的に判断されるものをさす。単に形式上含めるものはカウントされない。) 戸塚宏は、「『体罰は悪』と唱える方々に問いたい。意見の作り方は2つです。帰納法と演繹法。私は実践として成果を上げてきた人間だから、帰納的に体罰は善と主張できる。あなた方のように現場にかかわらない人間は、演繹法でしょ。つまり、体罰の定義、それから善悪の定義。この2つが科学的に証明されるのならば、認めてもいいですよ。」と述べた。(※ニコ生25:10~) しかしながら、この戸塚宏の体罰を一般論として「体罰の是非」を問うことには困難がある。ここで、忘れてはならないのは、戸塚宏は体罰が正当教育である旨を一貫して法廷で述べ続けた。そこに、純粋理論としての教育論ではなく、自己弁護のための体罰正当化である可能性がある。したがって、戸塚流を利用する場合、この点に留意する必要がある。 〇観念自在の体罰不要論に対する科学的根拠 **子供は褒めれば調子に乗り、叱れば伸びる」 いわゆる「賞罰の錯覚」「前後即因果の誤謬」。実際には伸びた時に褒め、調子に乗った時に叱っているだけ** ―後述。 **「口で言って聞かなければ叩けばよい・叩くしかない」 教育・躾に体罰・虐待は不要どころか禁物。「自分の言動の是非・善悪・結果・他者への慈しみを理解出来ない者」に必要なのは、適切な学習と訓練と保護監察。体罰や暴力に頼るのは創意工夫・指導力・許容力・寛容の無さの表れであり、虐待や体罰はそうした己の無能さを相手のせいにする責任転嫁以外の何ものでもない** ―つまり、観念自在は「体罰や暴力は下等な手法」という前提があり、その代替として創意工夫に富んだ別の方法を取るべきであり、「体罰や暴力は自身の無能さを生徒に責任転嫁」するものだと述べる。 **「現実問題として体罰が必要な場面もある。体罰を容認しない者は現場を知らない」 交渉力・説得力・知恵・忍耐力に欠けた無能者の逃げ口上。躾と称される体罰の多くは大人の都合によるエゴ(早く用事を済ませたい、掃除したくない、楽をしたい、怒りをぶつけたい、馬鹿にされたくない等)の押し付けであり、精神的余裕の無さから来る支配欲の充足 仮に暴れて手の付けられない相手であっても、刺股や合気道・柔道技で双方が怪我しないよう押さえ込み、それでも興奮が治まらないようなら公務執行妨害や威力業務妨害として現行犯逮捕し警察に引き渡せば良い。警察や刑務官も法律上、体罰は禁止されている(暴れる人間を取り抑えるのに鉄拳やビンタは必要ない)** ―そして、「体罰や暴力」を行う者は精神的余裕のなさから来る支配欲の充足を目的としていると指摘している。 他にも、**体罰は常に「未熟な教育者による手抜き教育」の表れ。//「今の子供は我慢が足りないから体罰するべき」 ―自己投影。そう主張する者自身が我慢が足りないからこそ、体罰を肯定する。 //「イザという時に体罰ができない教師は無能」 ―有能な教師は物理的に体罰ができてもその副作用を考えて実行しない。「体罰しない=体罰できない」ではない。仮に能力的に体罰できない教師が能力0なら、常に体罰する教師は能力-10、イザという時体罰に頼る教師は能力-2、如何なる状況でも体罰に頼らない教師は能力10となる。このように最初から基準が低いのが体罰肯定者** と述べ、体罰とは下等な手法だから、それを行う行為主体も下等であり、したがって体罰以外の他の手法をとるべきである。そしてそれを行う教育者こそが真に高等な教育者である、としているのだ。そして、 **「体罰する側が教育的目的を意図しているならそれは暴力ではない」 ―それが虐めか遊びか、体罰か暴力か、躾か虐待かなどは当事者の主観で決まるものではない。行為者の意図のみでは正当化されない 「体罰を受けた側が成長しているならそれは暴力ではない」 ―それが虐めか遊びか、体罰か暴力か、躾か虐待かなどは当事者の主観で決まるものではない。結果のみによって行為は正当化されない 「同じ事をしても体罰か躾かなどは捉え方による。指導する側の問題ではない」 ―それが虐めか遊びか、体罰か暴力か以下同文。なお熟練した指導者は相手の個性等状況に応じて柔軟に指導のやり方を変える** 生徒に対する有形力の行使に対して、それが体罰であるか暴力であるか、しつけか虐待かの判定は、行為者の意図のみでは正当化されず、仮に成長しても同じく正当化はされないと述べる。 まず前提として、観念自在は2019.3.21のデュラララチャット上において、「体罰不要の科学的根拠」として当該サイトへのリンクを貼った。すなわち、上記は彼によれば「科学」なのである。 そもそも定義の存在意義とは、誤解の回避である。科学理論は、正しく描写されなければならない。科学は、批判によって、新たな実験を講じ、新たな概念を導入し、その理論の厳密性や新たな課題へのアプローチを進めていく。故に、科学において批判は善である。この批判は、揚げ足取りや誤解に基づくものであった場合、その批判機能は期待されず、健全な科学活動が阻害される要因になる。それを防ぐ役割として、論理学というものの存在意義があり、キーワードに定義が定められるのである。 であるならば、定義とは、自己の主張を誤解なく第三者に伝えるための表現である。観念自在は「体罰については文科省の定義とする」のであり、すなわち、 **2 懲戒と体罰の区別について (1)教員等が児童生徒に対して行った懲戒行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。この際、単に、懲戒行為をした教員等や、懲戒行為を受けた児童生徒・保護者の主観のみにより判断するのではなく、諸条件を客観的に考慮して判断すべきである。 (2)(1)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とするもの(殴る、蹴る等)、児童生徒に肉体的苦痛を与えるようなもの(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。** http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331907.htm であることが分かる。文科省は、演繹的方法によって体罰を定義できておらず、あくまで個別状況に応じて対応する旨が記されているのである。にもかかわらず、 **4 体罰の防止と組織的な指導体制について (1)体罰の防止 3. 校長は、教員が体罰を行うことのないよう、校内研修の実施等により体罰に関する正しい認識を徹底させ、「場合によっては体罰もやむを得ない」などといった誤った考え方を容認する雰囲気がないか常に確認するなど、校内における体罰の未然防止に恒常的に取り組むことが必要である。 4. 教員は、決して体罰を行わないよう、平素から、いかなる行為が体罰に当たるかについての考え方を正しく理解しておく必要がある。** などと述べているのが、現状の文科省である。「決して体罰を行わないよう、平素から、いかなる行為が体罰に当たるかについての考え方を正しく理解しておく必要がある」との記述は、 「自然数は定義できず、個別に提示された状況を加味して当該数が自然数か否かを総合的に判断する。このとき、命題『自然数は無限に存在する』は真である。」 などと述べているのと本質的に変わりない。自然数の判断基準、すなわち自然数の定義が示されていないまま、その自然数を平然と運用している、論理の異常さが分かる。 体罰も同様である。体罰に関する判断基準は、「当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。この際、単に、懲戒行為をした教員等や、懲戒行為を受けた児童生徒・保護者の主観のみにより判断するのではなく、諸条件を客観的に考慮して判断すべき」なのだから、要するに「思いつく限りすべて」なのである。前提として「体罰は悪」であり、したがって悪行か否かの判断は、総合的判断とする、としているのである。 ここで、1つの明確な論理破綻が見える。まず、「教員は、決して体罰を行わないよう」などとあるから、文科省判断では「体罰は悪」なのである。悪行だから防止のための是正措置が取られるのである。であるならば、なぜ悪なのか。なぜ防止されるべきなのか。ここが肝心である。文科省によれば、 **体罰根絶に向けた取組の徹底について(通知) (中略) 体罰の件数が6700件を超え、これまで、体罰の実態把握や報告が不徹底だったのではないかと、重く受け止めています。 体罰は、学校教育法に違反するのみならず、児童生徒の心身に深刻な悪影響を与え、力による解決の志向を助長し、いじめや暴力行為などの土壌を生む恐れがあり、いかなる場合でも決して許されません。** http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1338620.htm とのことである。つまり、体罰が悪(二元論ガ-キッズは「体罰が防止・禁止される」と読み替えよう)となるのは、①法制度に違反し、②児童生徒の心身に深刻な悪影響を与え、③いじめや暴力行為などの土壌を産む恐れがある、からなのだ。 可能な限り推測を働かせれば、いわば、文科省からすれば「体罰は暴行」なのである。すなわち、暴行は悪であることが社会通念上既知であるから、教育の名を借りた暴行、つまり体罰は悪である。これが彼らの理屈である。ここで問題となるのは、「真に教育的成果を挙げる有形力行使を伴った教授法」であり、いわゆるグレーゾーン、開集合的な存在である。だから、文科省は、諸条件を加味して総合的に判断する、としているのである。 観念自在は、以上の体罰の定義を、自己の述べる主張においてもそのまま利用すると明言した。この前提で、観念自在の体罰不要論を観ていくこととする。 観念自在が体罰は下等な手法であり、教育者は異なる別の方法を創意工夫して開発、実践するべきであるから、体罰は不要であると述べているわけだ。そもそも、体罰はなぜ下等なのか、これに関しては、先述の文科省文書から、「法制度に違反し、生徒の心身に重大な悪影響を及ぼし、いじめや暴力を促進しかねない」からであろう。体罰による副作用は大きく、これをもって教育の手法とするのは論外であると言いたいのである。 しかし他方で、 「体罰は暴力ではない」 ― 一部は暴力。 や、 それが虐めか遊びか、体罰か暴力か、躾か虐待かなどは当事者の主観で決まるものではない。 と述べていることから、観念自在自身も、文科省同様に体罰とは何かに関する理解は浅いことが伺える。つまり、片や体罰というものが何であるかを明確に示せる理論がある中で、体罰と暴力の差異、いじめや虐待との関係、こうしたものは、やはり「当事者の主観で決まるものではない」との言及で終えており、文科省の見解とほぼ一致しているのである。 なぜ体罰の定義論が、諸条件の総合的判断で個別対応されるべきだ、という曖昧なものになるのかは、先述の通り、それがグレーゾーンだからである。正確に言えば、その判断基準を明確に理論で示すことができていないのである。だけれども、文科省という立場上、通常体罰と言われる行為を禁止したい場合、その体罰の定義を示さないわけにはいかないから、可能な限り批判の余地のないように示しただけ、いわば飾り同然である。 対して戸塚宏は、その点を明確に示した。いわく、体罰の定義は「進歩を目的とした有形力の行使」であり、「進歩を目的としない単なる感情の発露たる暴行とは明確に線引きされる」のである。そして、「マスコミのいじめで『事件』以来体罰はしたくてもできない。今は叱っている。」「それはあなたね、叱るとは『これはダメだ。』ということを厳しく言うんや。あるいは大声で怒鳴りつけるのや。」「これだと時間がかかって仕方がない。体罰なら短時間で済む。親は金がかかる、子供は進歩が遅くなる、教育者は手間がかかる、誰が得するの?『体罰は悪なり』で世の親を甘やかし、銭儲けする連中の画策でしょ」と述べた(※https://www.youtube.com/watch?v=1BpuuRJ3hNA 以下、abema) 戸塚宏は、進歩について、価値を高めることだと述べた。価値を獲得した場合、本能的な「喜び」という感情が生じ、この「喜び」 から、理性的感情であるところの「幸福」「感謝」が生じる。自分の行動で価値(進歩)を獲得した場合が「幸福」、他から価値をもらった場合が「感謝」である。つまり、母親が子供に幸福を与えることは不可能であるということになる。子供は、自分の力で幸福になるしかない。さらに、本能的な喜びが大きければ、幸福も大きくなる。従って、幸福になるためにまずなすべきことは、本能を強くすることである。そして、そのための方法として、知・徳・体の3本柱からアプローチしていくのが教育であるとした(この3本柱は日本の現行教育と一致する)。 (※ https://totsukayachtschool.com/pdf/article03.pdf) この3本柱については後述するとして、戸塚は、教育とは、教育論に基づいて行われるものだから、教育によって誤った結果が出るのならば、教育論に誤りがあると指摘した(※ https://ironna.jp/article/11104 以下、戸塚記事 )。そして、現行の教育は欧米の精神論がもとになって作られている。そこを研究すると、欧米の精神論、すなわちラショナリズムにおいては、理性は神によって作られるものであり、神が作るものに誤りはない、という思考がある。 **世界人権宣言第1条 All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.** を見て分かるように、”All human beings are born” とした場合、後に “by …”と続くはずである。受動態であるということは、動作を受けた側と、動作をした側が存在する。つまり、”by the creator” と続くのである。第二文も同じく、”They are endowed with reason…” (すべての人類は理性を授けられた…)とあり、同様である。理性を授けたのは、外ならぬ神である。 これが、ラショナリズムの原本である。より正確には、アメリカ独立宣言とフランス人権宣言であるが、そちらに同義の内容が書かれている。理性は作るものである。でなければ、理性を作るための教育は不要である。そもそも、理性が初めからあるのなら人間は進歩しない、他の動物と同じになる。 戸塚宏は、自身が行った教育に関して、拘留中の期間を使って、なぜ自身の教育が成果を挙げたのかを研究した。その結果として、人間が「進歩」したからであり、その進歩の能力を身に着けたからである、とまとめた。そして、今後日本が取るべき展望として、正しい科学的精神論への回帰を唱えた。 再度、観念自在の「体罰不要の科学的根拠」と称したサイトを見ると、 1. 体罰と暴力その他の包含関係が示せていない 2. 教育の目的がない 3. 体罰が不要であることに関しての科学的根拠がない ことが直ちに判明する。 また、およそ寝言と同等の「体罰必要論」を抜き出し、一問一答形式で圧倒的格下相手の連続組手をし、これが「体罰必要論者の姿なり」として顕示していることも分かる。 文科省の定義した体罰に関して再度触れるが、なぜ、あのような「諸状況から総合的に個別判断する」などという曖昧なものになったか、これは文科省が、体罰と暴力のグレーゾーンを明確に定められないからである。つまり、欧米精神論をもとにした現行教育論において、体罰は善なり(すなわち本能は善なり)と記述すると矛盾するからである。片や、体罰の意義を明示できる教育者がいる。これは、科学的理論としては矛盾する。「素数は有限である」として、実際に素数が無限であることが証明されたら、その理屈は誤りとなる。それを、「これは誤りじゃない、素数は有限。あ、論拠はないよ。ボクがそう思ったから正しいの。」というのは、非科学以外の何物でもない。(もっとも、自身が全知全能の神であると思っていればそのような指摘も可能であり、その意味では、欧米精神論をきちんと貫いている。「一貫性」という観点から見れば評価できる。) さて、ここから「体罰不要の科学的根拠」の各項目について言及していこう。 **Prop.1 「子供は褒めれば調子に乗り、叱れば伸びる」 いわゆる「賞罰の錯覚」「前後即因果の誤謬」。実際には伸びた時に褒め、調子に乗った時に叱っているだけ** 命題1「子供を褒めると調子に乗り、叱れば伸びる」が偽である事について何の反証にもなっていない。仮に、伸びた時・調子に乗った時、後発的に褒めと叱りを行うのが通例であるとしても、褒めと叱りが各々調子に乗る事と伸びる事に関する因果関係を一意に決定することはできない。なお戸塚流であれば、叱る原理は帰納的に決定されている。調子に乗ることを後発的に対処するための道具などとして、叱りは使わない。 **Prop.2 「口で言って聞かなければ叩けばよい・叩くしかない」 教育・躾に体罰・虐待は不要どころか禁物。「自分の言動の是非・善悪・結果・他者への慈しみを理解出来ない者」に必要なのは、適切な学習と訓練と保護監察。体罰や暴力に頼るのは創意工夫・指導力・許容力・寛容の無さの表れであり、虐待や体罰はそうした己の無能さを相手のせいにする責任転嫁以外の何ものでもない** 「教育に体罰・虐待は不要どころか禁物。」としている以上、観念自在にとってやはり体罰と虐待は同等視されていることが分かるし、「体罰と虐待に重要な差異はない」などと主張することが予想される。なお、両者の差異は戸塚宏の「体罰と暴行の差異」の暴行を虐待に変えれば良い。 適切な学習と訓練と保護観察が必要とした観念自在の論において、(体罰) ∉ (正しい学習・訓練・保護観察)であることは明らかである。そして、創意工夫・指導力・許容力・寛容のなさの具現が体罰や暴力(やはり体罰と暴力・虐待の区別をつけていない)であるとし、正しい学習・訓練・保護観察をせず体罰に走るものは「無能」であり、生徒に責任転嫁しているとしている。これに関して、そもそもその「体罰を使わない教育手法」が本サイトでは一切述べられていない(デュラララチャット上で本人は2019.3.20にサイトに記載している、5年後に読めば分かるなどと発言)。少なくともこの命題2からは、体罰が不要であり、必要性を棄却するまでの論理展開には至らない。 なお、戸塚宏は、自身の体罰について「成果が出る(他の)方法なら認める」「体罰以外の方法として、それが科学的に正しく、再現性をもっているなら、その方法が正しい」と述べている。 **Prop.3 「現実問題として体罰が必要な場面もある。体罰を容認しない者は現場を知らない」 交渉力・説得力・知恵・忍耐力に欠けた無能者の逃げ口上。躾と称される体罰の多くは大人の都合によるエゴ(早く用事を済ませたい、掃除したくない、楽をしたい、怒りをぶつけたい、馬鹿にされたくない等)の押し付けであり、精神的余裕の無さから来る支配欲の充足 仮に暴れて手の付けられない相手であっても、刺股や合気道・柔道技で双方が怪我しないよう押さえ込み、それでも興奮が治まらないようなら公務執行妨害や威力業務妨害として現行犯逮捕し警察に引き渡せば良い。警察や刑務官も法律上、体罰は禁止されている(暴れる人間を取り抑えるのに鉄拳やビンタは必要ない)** 仮に、交渉力・説得力・知恵・忍耐力をもって、「体罰を使わざるを得ない」と主張する教育者が、体罰以外の方法で対応に当たれるようになったとする。この時、そのための具体的な、再現性のある、すなわち科学的手法は見当たるのか。仮に見当たるとすれば、体罰の必要性にはやや傷がつく(当然ながらそのものの存在価値否定にはならない)。 なお、2段目以降の言及に関して、暴れる生徒が複数の場合、凶器を所持した場合、などはさておき、そもそも「刺股や合気道・柔道技」を使う必要性が、制度論以外に存在するかどうか。観念自在の想定する「暴れて手の付けられない相手」がどのような状況なのかは、恣意的で極めて限定的なものだと容易に推定される。他に、教育者が女性で対象生徒が男性であった場合や、教育者が高齢であった場合なども考えられる。他の教員を呼んで複数で対処するシステムなども、その間は他クラスの授業はストップするし、当該他の教員も業務がストップする。ごく少数の例外生徒に対して、払う代償が大きすぎる。しかも観念自在の主張を概観して、体罰を使わない手法による教育で得られる成果は見当たらないから、まさに「骨折り損のくたびれ儲け」であり、どのように骨折り損をするかを「創意工夫・知恵・忍耐力」というのであれば、その稚拙さに自覚がない理論だと判断できる。 **Prop.4 「刃物を持った暴漢の手首を叩くのは体罰。躾の一環だから正当」 叩いたところで反省しないしそもそも教育をしている場合ではない。躾ではなく正当防衛** 正しい。刃物を持った暴漢に対し有形力でもって体罰を行うことが効果を認められたとしても、その事態の発生確率は極めて低く、体罰の例外論である。法務省管轄の矯正教育施設である刑務所がその役割を主として担うべきであり、この「」内自体が的外れ。 **Prop.5 「2歳児が玩具を投げてガラスが割れた。ここで叩くのが躾」 物を投げて遊びたがる年頃の子供に「投げたら損害を生じる可能性のある堅牢な玩具」を不用意に与えた親の責任。叩いて2歳児が学習・認識するのは「投げると危険」ではなく「この人は自分にとって危険」である。体罰は常に「未熟な教育者による手抜き教育」の表れ。優れた親の場合は、ガラスが割れたとしても己の至らなさをすぐに自覚し逆に子供の腕力の成長を喜ぶ** 観念自在の想定では、優秀な親は、このような状況では子供の成長を喜び、無能な親は、子供の不始末を体罰で片付けようとするのである。ここからも、やはり体罰が下等な手法であることが分かる。しかしながら、その対概念たる優秀な親と、その優秀な教育手法に関して、どのような点で優秀さの判断基準となるのかについては一切言及がない。 本項目からは、優秀な親の具体的内容として、①2歳児が危険行為を行わないよう親が事前に回避手段を取り、②むしろ危険行為の発生についてその責任が事故に帰すものと認め、子供の成長を喜ぶ、ものだとしていることが分かる。ここで、①,②が「優秀」であると仮定すると、戸塚ヨットスクールにおいて提唱・実践されている「幼児教育論」は未熟であることになる。すなわち、戸塚ヨットスクールが行う幼児教育によって成果が上がったとしても、その成果は未熟なものであり、したがって戸塚ヨットスクールに一定期間通い、卒業した児童は、知力・体力・徳力の面で未熟であるということが、観念自在の主張から導出される。 再三指摘するが戸塚流は科学、すなわち再現性をもつものである。戸塚によれば「諸行無常」、「まこと苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」、「万物は流転する」、といった世界各地の先哲が「宇宙万物の本質は変化すること」と示していることに着目した。そこで、「では、変化の法則はどのようなものか」として、その法則を見つける者を科学者、すなわち変化の法則を科学とみなされていったと述べる (※ https://totsukayachtschool.com/pdf/article03.pdf)。 したがって、戸塚宏の定義する科学とは、いわば関数・写像のようなものである。ここを抑えたうえで、教育手法の優秀さ・無能さの判断基準は後に詳述する。 **Prop.6 「忘れ物をした生徒を廊下に立たせた。何が悪いのか」 その主な動機が「自分の指示命令が軽んじられた(指導力が無いと思われる)」と感じた教師による腹いせなので始末が悪い。忘れることは罪ではない。仮に忘れても自主的に生徒同士で貸し借りをさせれば、交渉力や思いやりやクラスの連帯感を育むいい機会にもなる。生徒の殆どが忘れるなら、「忘れても殆どデメリットがない授業」をしている教師の授業力の問題。そもそも廊下に立ったところで忘れ物をしなくなる術を学習できる訳ではないので躾・教育になっていない。廊下に立たせることは子供の「教育を受ける権利」を奪うことにもなる** 「自分の指示命令が軽んじられたと教師が感じたから体罰を行う」というメカニズムが述べられているが、改めてこの観念自在の「科学的根拠」が、ここで冒頭に述べた反証可能性における網羅性が極めて低いことが分かる。つまり、想像なのである。 戸塚はここまで言及していないが、そもそも教育において考慮されるべきことは、生徒が社会に出た後のことである。こと日本社会において、忘れ物をしたらどうなるのか。忘れ物をしても問題はない、「忘れ物をするのは物を持参しない権利があるから」などと惨めな寝言を抜かす者が現れる可能性は十分あるし、そもそも観念自在本人が言い出すかもしれない。その点に関して、どう考えているのか。 そもそも観念自在によれば、「忘れ物の対処は廊下に立たせる等の体罰以外の方法でやれば済む話」などと言っているし、しかもその方が「優秀な教育」なのである。戸塚宏は、体罰なら一瞬でできたことも、それが使えなければ時間がかかり、生徒・親・教育者の各利害関係者が損をするだけだと指摘しているが、それでも「体罰は下等」「体罰以外の創意工夫を凝らした方法が優秀」なのだそうだ。すなわち、指導に要する時間の多寡は、原則として「教育の優秀さの判断基準」には含まれないと解することができる。 これに関して戸塚は「子供の人数に対して教師は何人いるのか。そんな手間暇かけてたら教育にならない。新人教師なんかはどうするのや」と述べている。 また、観念自在は「廊下に立たせることは子供の教育を受ける権利を奪うことにもなる」と述べているから、廊下に立たせることは教育の範疇に入らないと考えていることが分かる。その論拠として、「廊下に立たせても忘れ物をしなくなる術を学習できるわけではないので躾・教育になっていない」のであり、ここも、戸塚流を明確に否定していることが分かる。 読者諸君の理解も浅いと思うので、再度戸塚宏の「進歩のメカニズム」を概説する。進歩とは価値の創造であり、そのためには、不快感の利用が求められる。すなわち、「恐怖・驚愕・怒り」という基本不快感を生徒に発生させ、これらによって生徒の行動・思議を発現させる。もちろん、「恥」という不快感も存分に利用できると指摘している。こうして行動と思議をさせることで、生徒に「力」をつけさせる。力は社会において価値を高める。これが、進歩のメカニズムである。以降、このメカニズムが概ね真であることは所与のものとする。 こうした進歩のメカニズムがある一方で、「廊下に立たせても忘れ物をしなくなる術を学習できるわけではない」と述べた場合、まずもって「~の術(方法)を学習する」の定義が求められるが、これについて一切言及がない。戸塚流が厳然として存在する中、廊下に立たせて忘れ物をしなくなる術を学習できるわけではない、という前提は偽であるから、「廊下に立たせることは子供の教育を受ける権利を奪う」は認められない。 **Prop.7 「忘れ物をしたら体罰を与える、と事前に宣言したら忘れ物が減った。何が悪いのか」 「金を払わなければ人質を殺す」という誘拐犯と同じ思考原理だから始末が悪い。教師がそのような理屈を是とすれば、生徒もその理屈を是とする人間に育つ。結果、その社会で誘拐犯が生まれる可能性を高める** 論外。誘拐犯の思考原理と同じであることについて理解が浅すぎる。後半「教師がその理屈を是とすれば生徒もその理屈を是とし、結果社会で誘拐犯の生まれる可能性が高まる」としているが、これが演繹法による理論だとすれば、前提として「忘れ物をしたら体罰を与える」の思考原理=「金を払わなければ人質を殺す」の思考原理 が一切証明されていないから、演繹法は成立しない。単に「ボクがこう思っているから」書いただけと解するのが妥当である。 **Prop8. 「宿題を忘れたので正座させた。これも躾のうち」 正座によって「宿題を忘れなくする術を学ぶ」人間は一人もおらず教育的効果は皆無なので1秒たりとも必要ない。教育効果があるのは「正座とは何か」を体験させる時くらいのもの。正座以外のあらゆる体罰も同じ** 「正座によって宿題を忘れなくする術を学ぶ人間は一人もいない」ことは戸塚流の存在が直ちに反例となり、「教育的効果は皆無」との指摘も同様である。さらに、「正座以外のあらゆる体罰も同じ」などとしており、体罰はおろか、教育に関する思考と知識の浅薄さが露呈している。 **Prop.9 「ハゲ死ねなど差別的な発言をした。言ったことには責任を取らなくてはならないから体罰した」 言葉狩りの典型。隠れて言うようになるだけ** 「殺人が起こった。殺人行為には責任を取らなくてはならないから無期懲役の判決を下した。」 ―殺人狩りの典型。隠れて殺人するようになるだけ 補足として戸塚宏は、「ヨットスクールの子供たちの中にいじめが起きることは知っているが、子供たちに実社会で生きる術を習得させる機会とするため」に黙認して、合宿形態をとっている。 **Prop.10 「体罰を認めないから学級崩壊が起こる」 学級崩壊の原因はひとえに教師の力量不足。体罰は学級崩壊を表面的に無くす効果はあるが、子供は「怖い大人の前では大人しくていよう」という姑息な処世術を学ぶ。将来「誰も見ていないなら悪いことをしてもOK」と考える大人になる可能性を高める** 怖い大人の前でおとなしくすることに何の問題があるのか。誰も見ていないなら悪いことをしてもOKと考えることに何の問題があるのか。当然ながら前2点は、「怖い大人への恐怖」や「悪行を他人に見られる恐怖」を感じるから、見えないところで悪行をする。感情自己責任論では、感情は自己責任ではなかったのか。ここで、2019.3.20に議論となった「感情自己責任論において、責任とは取る責任か、果たす責任のどちらか」というテーマを再度概説したい。 観念自在は、「とる責任だろうが果たす責任だろうが両者に大差はない、本質的な議論ではない」との見解を示した。したがって、第三者がどちらで解釈してもよいわけである。とすると、「果たす責任」であった場合、果たす責任とはいわゆる責務・義務をさすから、次のようになる。 怖い大人の前でおとなしくする人間が出来上がった場合、つまり恐怖を感じるからおとなしくするわけだ。ここで、恐怖という感情に対して「責任」を考える場合、①生起した恐怖という感情そのものに何らかの行動・思議をとる責任なのか、②感情が誘発した別の行動・思議に対して何らかの別の行為をする責任なのか、という話になる。 ①の場合、仏教において「内観」という修行法がある。これは、直観的に言えば「恐怖を感じた時、その恐怖を消そうとするのではなく、その恐怖の存在を認知し続けることで、自身の本心と向き合う」ものである。この内観を行う責任があるという主張であるとすると、「あ、今俺は怖い大人の前で悪行をやりたいが恐怖を感じている。~内観中~ では、この場はやむを得ない事情があるから、自己の本心と向き合ったし、怖い大人の前だけど悪行をしよう」という展開も是認されるわけである。本人談ではこういう解釈も「本質的な差異はない」のだから。 ②の場合、実際的に言えば、感情とは本能だから、本能が生んだ感情と、それによって誘発される行為は本能的なものである。簡単な例でいえば、やはり体罰(観念自在の定義)が浮かび上がる。そうした本能的行為に対して、それを自制する責任があるという主張なのか、あるいはそもそもそうした感情の発露をゼロないし極限に抑制する方法を講じる責任があるという主張なのか、いずれにしても、観念自在は「理性は創るもの」であることを認めていることになる。 なぜならば、自制する責任があるとした場合、当然ながら感情=本能の自制とは理性によって行われる。観念自在は、「怖い大人の前で恐怖を感じるからおとなしくしていよう」とすることを姑息だとしており、そうした表面的解決しかできないのは教師の力量不足、としている。理性によって行う感情の自制・客観視を図るからこそ「怖い大人の前でおとなしくする」のであり、これを望ましくない状況だと指摘するならば、対極に望ましい状況を認めており、つまりその状況が「優秀な教育」「姑息でない生徒(=優秀な人間)」なのである。その両端の存在を認めるということは、その間で人間は教育によって移動することを認めていることにほかならず、したがって「理性とは創るものである」ことを認めていることになる。 そして、感情自己責任論における『責任』が取る責任であった場合、「とる責任」とはいわゆる懲戒・解任といった当人の損失を、当人が履行することをさす。であれば、「怖い大人の前でおとなしくする人間」は、その感情そのものや、あるいは感情が誘発した行為について、自己に不利益な損失が降りかかった場合、その損失を抵抗なく履行することである、と解するわけである。 このようなバカげた事をしたと仮定すると、果たしてなぜ我々ヒトに感情が存在するのか、ということになる。感情の必要性がない。なぜなら、感情は明白に我々ヒトの行動や思議に影響を与えており、その現象によって生じた不利益を履行することが「感情自己責任」であるとすると、感情の存在意義は棄却される。にもかかわらず、「感情自己責任論は性善説」なのである。 生物に付属する生理的機能、それを基礎とする感情は、当然ながらヒトの生存に寄与する目的で備わったものである。これが原因で不利益を生ずる行為をするのならば、感情とは如何なる欠陥品か。まさに、「神の意に背いてリンゴを食べたアダムとイブの原罪」思想に他ならない。 結局のところ、「感情自己責任論」を唱えた論者の趣旨はこうである。「世間にはびこる社会問題の反対派は、感情論的に反対している場合が主であり、これの対抗手段として、感情は自己責任であると述べ、故に貴方達の主張は認められないことを示した。」 すなわち、体罰問題に関しても、観念自在は「体罰を行う者は自己の非力・創意工夫の無さに対する怒りで、感情的に生徒に有形力を行使している」という前提に立って、「そうした体罰容認派、体罰に際して諸君らの中に生起した感情は全て『諸君ら自身の責任』だから、体罰を行うことは認められない」と主張しているのである。 まとめると、感情自己責任論における「責任」とは、外でもなく「とる責任」と解するのが妥当である。理由は長くなる。仮に果たす責任であった場合、先述の通り、例えば怒りという感情が生まれた後に有形力を行使するのではなく、怒りの感情を抑え、もって他の行動・思議を生起させること、が求められる。つまり、そこに必要なのは「理性」である。 しかも、観念自在は本論を「体罰不要の科学的根拠」と述べたから、本論は似非科学ではない。したがって、科学である以上、再現性が担保されていなければならないのだが、ここには、理性を創る具体的方法が一切言及されていない。 私は、2019.3.20のデュラララチャットにおいて、「君は後5年したら僕の理論が理解できるようになる」という指摘を受けた。そして「なるほど、5年もすれば私の知力・徳力が高まって理解できるというわけか」と返したところ、「そうですよ」と認めた。「あるいは体力=行動力の不足ということも考えられるわけか」と言ったところ、「それもありますね」とのことだった。 つまり、本「体罰不要の科学的根拠」ならびに「感情自己責任論」においては、私が数年かけて知・徳・体のそれぞれの力を高めることによって、理解不能個所を理解できるというのだという。しかしながら、私は同日のチャット上において、 「私はまだ知力の定義をしていないが、なぜ知力がつけば理解できると分かったのか」と指摘した。すると、 「十分な知識が足りてないからでしょ」 と言ったのである。 全くもってとんでもない話である。知力とは、以下に記されたとおりである。 『知行合一』(王陽明)、『皆実学なり』(中庸・朱熹章句)、 『学びて時にこれを習う』(論語)、『身を修める』(大学)、『浩 然の気を養う』(孟子)、儒教はこれらの科学性を尊重する 言葉で満ち溢れています。そしてこれらの言葉こそ、『文武 両道』と同じ意味なのです。 "科学"とは法則化すること。その法則によって結果を再現 すること、つまり再現性こそが"科学"です。現実に起こらない ことは科学ではなく、行動で実証されなければ科学ではあり ません。さらに人間は、行動抜きにはその法則をものにでき ません。知育だけでは人間性も社会性も進歩せず、前述 の者のような、知だけで他人の上に行こうとするハタ迷惑な 人間ができあがるのです。日本の教育はこんな人間を大量 生産しています。 https://totsukayachtschool.com/pdf/article05.pdf つまり、単なる情報を記憶することは知力としてカウントできない。「知行合一」として、知=情報(informationであってintelligenceではない)は、使うことができねばならない。使う、とは、何かの役に立てることである。それも、「正しく」役に立てるのである。その正しさは、まさに科学における再現性である。 観念自在の場合、「知識があれば理解できる理論」としているが、全くもって論外である。知力があれば理解できると言ったのに、彼が考えているのは単なる「知識の多寡」である。本来彼が、自身を知識人(インテリ)であると自負した場合、自己の理論に対して再現性を担保させていなければ話にならないのである。 しかも、2019.3.22のデュラララチャット上でコミュ障氏が「知性っていうのはマジックワードだな、頭いい人になら受け入れられるけど、そうじゃない人には無理だろうねっていう高飛車な選民思想が垣間見える」と言ったのに対し、観念自在は「@コミュ障 そう感じるのは一種の被害妄想」「**こっちは単なる事実を述べているに過ぎない**」と述べた。ということは、観念自在は事実を述べているのであり、少なくとも当人の認識では体罰不要論は「科学」なのである。世界の法則を発見し、正確に記述するのが科学という営みなのだから。 であるならば、理性を創る方法が言及されていないのは、観念自在が単に「再現性のある理性創りの方法論」を知らないからなのである。にもかかわらず、理性とは創るものであり、文脈として、「理性とは教育によって創られるものである」ことも認めている。 ここで、論理破綻が起こる。観念自在は体罰の定義を「文科省記載のもの」とした。文科省記載の体罰の定義は、外ならぬ欧米精神論によって作られた教育論の体系の一部としてあるものだから、その定義を運用する場合、特に断りのない限り欧米精神論も認めているものとみなされる。 ということは、現行教育論に大きな影響を及ぼしているラショナリズム、つまり「理性とは神によって創造されたもの」という考え方において、理性とは創るものではないのである。にもかかわらず、理性を創ることが可能であると認めている。自身が言っていることが、自身で分かっていないのである。だから、同一の理論の中で簡単に矛盾が発生する。これが、「科学的根拠」であるなどと笑止千万も甚だしい。 だからこそ、「感情自己責任論」における責任とは取る責任なのである。つまり、観念自在の主張は、教育者自身の不出来・不始末で怒り、有形力を行使するなら、それによる懲戒等の不利益は是認するべきである。こういうものである。 とするならば、「感情自己責任論」と、それを源流とする「体罰不要の科学的根拠」は、なんと浅薄な内容か。この論において、真新しい主張は何一つなされていないのである。単に、ネット上かどこかで見つけた暇人の寝言をかき集め、それに対して気ままに適当に寝言で返答した、それだけなのだ。事実、「体罰が不要」と言い切るならば、そしてそれを「科学的根拠」というのならば、なぜ有形力を行使しない手法が具体的に書かれていないのか。知らないのである。無い袖は振れぬ。科学の定義もできない人間が、科学を謳って寝言を抜かすなど、生き恥も大概にしろということである。 これは理論ではない。科学ではない。ただのお遊戯である。寝言である。したがって聞く価値はない。体罰が不要であることは証明されておらず、反論としても機能する余地は到底認められない。したがって、少なくともこのサイト上においては、体罰が不要であることは認められない。 (つまり、体罰をはじめとした死刑、戦争、愛などの社会問題に対するよくある理屈への反論という目的で作られたのが「感情自己責任論」であり、それは、少なくとも科学性を担保できていない。それをもって、「自身は死刑は不要であることを立証している」と述べており、これは当然「体罰不要も自分で立証している」と解釈できるから、体罰についてもこれで立証したつもりなのである。しかしながら、似非科学による単語の集合体は寝言と同義であり、自由心証主義の意義をはき違えた勘違いである。似非科学は、少なくとも客観的に見て立証されたものと解することはできず、したがって観念自在の「感情自己責任論」「体罰絶対不要論」は、戸塚宏に対する反論としては一切機能する余地がない。) 以上、大筋として観念自在の理論への対応は終わりとする。暇があれば、他のpropositionも返答していくこととしよう。 ここからは、体罰の必要性を論じるため、再度戸塚宏の理論に立ち返って整理していくこととしよう。戸塚宏は、何度も指摘したように欧米精神論の使われ方は実態論として誤りだと述べている。それは、「欧米精神論が悪い」のではなく、「使い方が悪い」のである。仮に、あの精神論を使うのならば、神を信じ、聖書の総論から各論まで熟知した、キリスト教徒でなければならないからである。日本人には、それは当てはまらない。日本のインテリ=偏差値秀才は、欧米精神論を鵜呑みにし、こうした背景を一切無視して猿真似だけしている。だから、教育荒廃が起こり、問題児が大量発生し、学級崩壊が起こり、引きこもりが爆発的な数になった。 社会実態を考慮して、東洋精神論をもとにした教育論を作り、教育を行う。戸塚宏は、仏教を教育論に取り入れることに当初は敬遠していたが、周囲からの強い勧めで仕方なく手に取ると、思いのほか仏教の科学性を知ることとなった。結論から言えば、原始仏教は科学であり、儒教も科学である。「万物は変化する」ことが宇宙の法則であり、その法則の具体を見つけるのが科学者である。法則である以上、再現性が担保されなければならない。 仏教は、原始仏教の範囲のみ科学である。後世の人間が編み出した般若心境などといった論は、明らかに非科学である。なぜ、「般若心境をひたすら唱えよ」などと言えるのか、唱えても何も起こらない。それから、インドー中国―日本ルートで伝来した仏教は、純度が落ちているから、非科学であるものがある。例えば、輪廻転生を「死んだらまた生き返る」と解釈することについて、明らかに非科学である。つまり、原点のパーリー語かサンスクリット語で読むことが求められる。 教育とは精神=理性を創ることであり、そのことは進歩という。進歩は価値の創造、すなわち社会におけるその個体の相対的価値である。進歩のメカニズムは、不快感の利用、すなわち、本能の利用である。本能を適切に使いこなす方法を習得させるのである。それから、恥の利用である。恥を知る人間は、自主的に進歩する。本能は善なり(性善説)。故に、感情は善である。 ところで、精神とは何か。精神とは、知・情・意である。教育的に言うと、知育、徳育、体育である。これら三本柱からアプローチしていくのが、望ましい教育である。現行教育のように、知育のみ、しかも偏差値秀才のような知識偏重の教育を行うと、実態論として、学級崩壊が起こり、教育崩壊の対処が何もできず、引きこもりが爆増し、こういう社会になる。具体的な手法は以下に示す https://totsukayachtschool.com/pdf/article02.pdf このサイトに任せる。 社会問題を扱う場合、求められるのは以下3観点からである。よくあるのが、「~~べきだ」と述べて終わるだけの論である。「体罰は悪だからしないべきだ」「教育は愛がすべてだ(から体罰はやめるべきだ)」などがそうである。こうしたものを規範論という。そして、同等によくあるのは、「○○法で違反だから」という、法律を判断基準としたものである。これを制度論という。最後に、現場からの意見、例えば「教育現場では体罰を行わざるを得ない状況がある」としたもの。これを実態論という。 戸塚宏は、社会的に抹殺されたことで、現在は体罰を使っていない。しかし、先述の通り「体罰を使えば一発で治ったものが、今は叱りによっているから、非常に長い時間がかかる。そもそも治るかどうかの保証もない。親は金がかかり、子供は時間がかかり、教育者は手間がかかるだけ。誰も得しない。」のである。したがって、体罰を使用することは、時間短縮が期待される。しかも、すでに確立した戸塚流によって、再現性を担保したまま成果を挙げることができる。現在は、成果の予測はつかないという(※ニコ生)。だからこそ、少なくとも戸塚宏にとって体罰は必要なのであり、関連利害関係者からの必要性は高い。 しかも、この戸塚流は、一般の公教育としても利用価値は高い。少なくとも公教育が全く成果を挙げられなかった問題児の多数を、戸塚は更生させたのである。これを是認しないことは、他の利益を差し置くか、あるいは他の損失を考慮したからに他ならないのだが、少なくとも学級崩壊、問題児の爆増、引きこもりの爆増、これによる経済的損失と経済力の損耗は当然ながら度外視などできない。まして、問題児や学級崩壊は、他の優秀な児童生徒に対しても悪影響となるし、教師に関しても、健全な「教育の科学的発展」を阻害する要因となり、教育そのものの土台を揺るがすこととなるのは明白である。そして、教育に対する社会的不信感が高まり、保護者は、自己の子供は「公教育の被害者である」という誤解をもつ。これにより、公教育の存在意義は低下し、国家存亡の危機となる。これを差し置いてもまだ、成果を挙げる教育手法を否認するというのなら、どこに代わりの利益があるのか。日本の偏差値秀才=インテリの傲慢に他ならない。すなわち、知・情・意において、知の部分しか教育を受けてこなかった偏差値秀才の弊害が、ここに現れているのである。故に、情・意の教育=徳育・体育の理論を科学的に実証した戸塚流を認めることは、大いに社会的意義がある。体罰が必要である規範論はこれである。 また実態論として、先述の通り、現状、問題児をどのようにして更生させるか、こうした科学的合理的手法は、文科省及び公教育は一切示すことができていない。学級崩壊も同様である。文科省は、学級崩壊や問題児の対処は事前に他教員と情報共有することで対応すべきで、体罰を使ってはならない、としており、そもそも生徒の問題行動に対しては「教員同士の情報共有」などという現場任せ、管轄機関の意義を一切果たせていない有様である。にもかかわらず、現場任せの(仮に体罰が悪として)弊害として、体罰が生まれたとみるべきだから、その責任は当然ながら管轄たる文科省に帰す。それは、言うまでもなく果たす責任であり、公教育のトップとして、科学的再現性を持った手法を、大学や研究機関と協力して実証し、どんどん現場に取り入れていく必要があるのである。にもかかわらず、未だそうした動きはなく、細部の「教育におけるICTの活用」「漢字テスト不合格者を叱って不登校発生、当該教員を処分」などという、非本質的な行為しかできない。そして当然、知育・徳育・体育のうち、徳育と体育に関して特に、程度の低い教育しか行われていない。それは、徳育が単なる「教材を見て先生ウケする感想文の執筆」であり、体育が「ただのスポーツ体験」であることから分かる。感情は、実際に、自然的に感じることが最も手っ取り早い。この点、明白に戸塚宏は、公教育で行われる徳育よりも高い水準での教育を行っている。体育も同様である。ただのスポーツ体験活動に、何も学ぶものはない。あんなものをするくらいなら、小学生に外で昼休みに遊ばせておけばいい。その分、昼休みを長くすればいい。期待される成果は同じである。なぜなら両者ともただのスポーツ=遊びだからである。スポーツと体育は明確に異なる。体育の目的は、精神の一角「意」の力を高めることにある。つまり、感情のコントロールの仕方である。この点も、戸塚流によって十分高めることができる。 ところで、制度論として、体罰は法律的に禁止されているか否かについて述べる。まず、2019.3.21段階では、学校教育法11条但し書きにおいて、体罰の禁止規定は明文化されている。ところが、民法820条及び822条において、親の懲戒権のみは認められているが、体罰の禁止規定は存在しない。すなわち、法律的に「体罰は不法」と指摘する者は、学校教育法には体罰の禁止規定があるにもかかわらず、家庭においては禁止規定がないという二重構造について、科学的・合理的な説明が求められる。その他、法令としても学校での体罰は禁止されているし、子供の権利条約において体罰は禁止であると明文化されているから、少なくとも学校においては体罰は禁止であるとするのが、現行法の実態である。しかしながら、最近、児童虐待防止法においても、体罰は禁止とする規定を置く気運が高まっている。これは、最近の虐待事案を受けてのことであると、閣議決定上の経緯説明がなされているが、実際、米国への追従のため、家庭の体罰も禁止して子供の権利条約をより厳格に履行することが目的と解するのが妥当であろう。やはり強く指摘せねばならないのは、未だ体罰の禁止を法制化する努力に躍起になっておきながら、体罰の代わりとなる具体的教育手法は一切とられていない。家庭教育を法で縛る、国家権力が介入しているにもかかわらず、ただ介入して終わりなのである。対案は全く示されておらず、児童相談所などという所定の目的を何一つ達成していない無能施設への通報などを啓発している有様である。これでは、「国は国民諸君らの出来損ないの子供について、体罰をしない児童相談所にぶち込んであげた。成果は出ていないけど、教育というのは難しいから。仕方ないから我慢して」という国の意図があるのだろうと、解釈されても仕方がない。 以上から、体罰を必要とする状況は未だ変わらず高いことが分かる。体罰を不要なものであるとした場合、少なくとも体罰よりも優秀な手法が科学的に再現性をもって迎えられるべきである。あるいは、体罰の代替となる手法でもよい。これがない限りは、体罰を不要とみなすことは到底できない。しかも、こうした代替手法等が科学的に発現したとしても、それが直ちに体罰は不要とするのは論理飛躍であり、体罰が不要であることについて一切論証とならない。故に、現状未だ変わらず問題児の爆増、学級崩壊、明らかな若者のモラルの低下、引きこもりの爆増、そして、こうした実態を何も改善できない無能な公教育管轄機関。こうした現状からして、外に手段がない中、既に完成された戸塚宏の教育手法を取り入れることは必要である。しかも、日本において欧米精神論を基礎とした教育論を利用することは実態として異常であり、文化的整合性のとれた科学たる東洋精神論を基礎とした戸塚流こそ、今後の教育科学の発展の礎として位置づけられることに合理的異存は見当たらない。 戸塚宏は、再三ながら「体罰について、成果が出る方法なら他のものも認める」との立場をとっており、必ずしも体罰以外に対して排他的立場をとっているわけではない。科学とは反証可能性をはらみ、適切な反証テストを受けることによって、より正確な科学理論が形成されていく。これが、科学の進歩である。であるならば、戸塚の科学理論は第三者から広く反証テストを受け付けるべきである。実際、戸塚は某大学に対して、自身の教育を実証研究するよう要請したが、「お宅のやり方は教育じゃないから」と言われたという。また、医学会冒頭の客員講師としてスピーチをした際、自身の脳幹論について述べたが、後に「脳幹論は科学的整合性のないものである」との批判を受けた。なお、その科学的整合性がないことについて、実際に実証研究は行われていない。なお、戸塚ヨットスクールHP のQ&Aによれば、「隠れて『うちの子をお願いします』と言ってくるのだから」とのことである。これが、戸塚宏に対する第三者の扱いである。科学理論に対する扱いとして、到底是認されるべきでないことがよく分かる。これが、世間からの批評を回避するための関係機関の対応である以外に何があるのか。実際に公教育で手の施しようもない問題児を600人ほど構成させた戸塚宏は、研究材料として極めて価値があることは明白である。
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