# 舞姫(原文と口語訳の対応) ## 注意点 * これはネットから持ってきたものです.権利が切れているくらい古く,かなり研究されていますが間違っている可能性があります.気になるのであれば自分で調べてください * 本文が古い方なので,主な部分は教科書に揃えましたがまだまだです.ご了承ください * 番号は形式段落です.ご活用ください * 原文の下に口語訳 ## 1 ### 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきもいたづらなり。 石炭はもう積みおえた。中等室のテーブルのあたりはとても静かで、白熱灯の光が無駄に明るい。 ### 今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。 今晩はいつもここに集まってくるカード仲間もホテルに泊まって、船に残っているのは自分一人だけなのだ。 ### 五年前のことなりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆にまかせて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりて思へば、をさなき思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげに記ししを、心ある人はいかにか見けむ。 五年前のことだったが、これまでの希望がかなって、洋行の命令を受け、このサイゴンの港まで来たころは、目に映るもの、耳に聞くもの、ひとつとして目新しくないものはなく、筆にまかせて書き記した紀行文は毎日数千語をつらねただろうか、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされたものの、今になって思えば、幼い思想、身の程知らずな放言、そうではなくてもあたりまえの動植物や鉱物、あるいは風俗などさえ珍しげに記していたのを、もののわかっている人はどのように見ただろう。 ### こたびは途に上りし時、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種のニル・アドミラリイの気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。 このたびはさて出発というとき、日記を書こうと買ったノートもまだ白紙のままなのは、ドイツでいろいろと学んだあいだに、一種なにごとにも驚かないといった気分を養ってきたからだろうか、いやそうではなく、これには別にわけがある。 ### げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮き世のうきふしをも知りたり、人の心の頼み難きは言ふも更なり、我と我が心さへ変はりやすきをも悟り得たり。 まったく東に帰る今の自分は、西に渡航した昔の自分ではなく、学問こそまだ心に飽きたらぬところも多いとはいえ、浮き世の苦しみをも知り、人の心の頼りにならないのは言うまでもなく、自分と自分の心さえも変わりやすいのを身にしみて理解したのだった。 ### きのふの是はけふの非なる我が瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。 昨日よいことが今日はだめな自分の瞬間のその感じを、言葉にして誰に見せられよう。これが日記の書けぬ理由である、いやそうでなく、これには別にわけがある。 ### 嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日あまりを経ぬ。世の常ならば生面の客にさへ交はりを結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習ひなるに、微恙にことよせて房のうちにのみこもりて、同行の人々にも物言ふことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。 あの、ブリンジシの港を出てから、もう二十日以上を過ぎた。ふつうならば初対面の相手とでも言葉を交わして、旅のつまらなさをなぐさめあうのが航海というものの通例ではあるのだが、体調が良くないと理由をつけて船室の中にこもって、共に旅する人々にもものを言うことの少ないのは、人知れぬ悔恨に頭を悩ましているからなのだった。 ### この恨みは初め一抹の雲のごとく我が心をかすめて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心をとどめさせず、中ごろは世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛を我に負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき懐旧の情を喚び起こして、幾たびとなく我が心を苦しむ。嗚呼、いかにしてかこの恨みを銷せむ。 この悔恨ははじめ一片の雲のように私の心をかすめて、スイスの山の色をも見せず、イタリアの史跡にも心を残さず、少し前までは世の中がいやになり、つまらないわが身だと思い、はらわたが日に九回もひっくりかえるかとでもいうような苦痛を私に負わせて、今は心の奥に凝り固まって、ほんの小さな翳とはなっているものの、文章を読むたびに、ものを見るたびに、鏡に映る影、声に応じる響きのように、昔を懐かしむ気持ちを限りなく呼びおこして、何度となく私の心を苦しめる。どのようにしてこの悔恨を消したらいいだろう。 ### もしほかの恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ。これのみはあまりに深く我が心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人もなし、房奴の来て電気線の鍵をひねるにはなほ程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りてみむ。 もしほかの悔恨であったなら、詩をつくり短歌に詠んだあとは気分すがすがしくもなるのだろう。こればかりはあんまり深く私の心に彫りつけられているのでそんなことにはならないだろうと思うのだが、今晩はあたりに人もいないし、ボーイが来て消灯してまわるにはまだ時間もあるはずだから、では、そのあらましを文章につづってみるとしようか。 ## 2 ### 余は幼きころより厳しき庭の訓を受けしかひに、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館に在りし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたりしに、独り子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。 私は幼いころから厳しい家庭の躾を受けて、父を早くに亡くしたものの、学問に打ち込めなくなるということもなく、旧藩の学館に在籍していたころも、東京に出て予備黌に通ったときも、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつもクラスのトップに記されていたので、一人っ子の自分を生きる力にして世を渡る母の心は慰められていたようだ。 ### 十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三年ばかり、官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我が名を成さむも、我が家を興さむも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて、五十をこえし母に別るるをもさまで悲しとは思はず、はるばると家を離れて伯林の都に来ぬ。 十九の歳には学士の称号を受けて、大学始まって以来のまたとない名誉だと人にも言われ、或る省庁に勤めて、故郷にいる母を東京に呼び迎え、楽しい年を送ること三年ほど、省庁トップにもことのほか目をかけられて、洋行して我が課の事務を調査せよとの辞令を受け、我が名を成そうとするのも、我が家を興そうとするのも、今このときだと思う心が勇み立って、五十歳を越えた母に別れるのもそれほどまでに悲しいとは思わず、はるばると家を離れてベルリンの都に来た。 ### 余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。 私はぼんやりとした功名の思いと、自らを抑えるのに慣れている勉学の力とを持って、今このヨーロッパの新しい大都市の中央に立った。 ### なんらの光彩ぞ、我が目を射むとするは。なんらの色沢ぞ、我が心を迷はさむとするは。 どのような華やかさだろうか、自分の目を射ようとするのは。どのような色鮮やかさだろうか、自分の心を迷わそうとするのは。 ### 菩提樹下と訳する時は、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪のごときウンテル・デン・リンデンに来て両辺なる石だたみの人道を行く隊々の士女を見よ。 菩提樹下と訳すときは、こんもりと静かな雰囲気なのだろうと思われるが、この大きな道路がまっすぐにとおるウンテル・デン・リンデンに来て両側の石畳の歩道を行く男女各々を見てみろ。 ### 胸張り肩そびえたる士官の、まだ維廉一世の街に臨める窓に倚りたまふころなりければ、さまざまの色に飾りなしたる礼装をなしたる、かほよき少女の巴里まねびの粧ひしたる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲にそびゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮かび出でたる凱旋塔の神女の像、このあまたの景物目睫の間に聚まりたれば、はじめてここに来しものの応接にいとまなきもうべなり。 胸を張り肩そびやかす士官が、まだウィルヘルム一世の市街を見渡す窓に寄るころだったので、さまざまの色に飾りたてた礼装をしている、顔かたちのよい少女がパリ風の装いをしている、あれもこれも目を驚かさないことはないというのに、車道のアスファルトの上を音も立てずに走るいろいろな馬車、雲にそびえる高層建築の少しとぎれたところには、晴れている空に夕立の音を聞かせて漲り落ちる噴水の水、遠く眺めればブランデンブルグ門を隔てて両側より緑の枝の伸びた中から、中空に浮かび出ている凱旋塔の神女の像、これら多くのものが目の前に集まっているので、初めてここに来た者がそれに応対しきれないのも当然だ。 ### されど我が胸には、たとひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動かさじの誓ひありて、常に我を襲ふ外物を遮りとどめたりき。 けれども自分の胸中にはたとえどんなところに来たとしても、意味もない美しい眺めに心を動かすまいとの決意があって、いつも自分を襲う外界の事物を遮りとどめていた。 ### 余が鈴索を引き鳴らして謁を通じ、公の紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つづきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。 私がベルを鳴らして面会し、公式の紹介状を出して東より来た意向を告げたプロシアの役所の職員は、皆こころよく私を迎え、公使館からの手続きさえ無事に済んだならば、どんなことでも、教えもし伝えもしようと約束してくれた。 ### 喜ばしきは、我が故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。 さいわいなのは、自分のふるさとでドイツ語、フランス語を学んでいたことだ。 ### 彼らははじめて余を見し時、いづくにていつのまにかくは学び得つると問はぬことなかりき。 彼らは初めて私に会ったとき、どこでいつこんなに学ぶことができたのだと質問しないことはなかった。 ### さて官事の暇あるごとに、かねて公の許しをば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊に記させつ。 そして仕事の空くたびに、かねて公式に許可を得ていたので、この地の大学に入って政治学を修得しようと、氏名を名簿に記してもらった。 ### ひと月ふた月と過ぐすほどに、公の打ち合はせも済みて、取り調べもしだいにはかどりゆけば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写しとどめて、つひには幾巻をかなしけむ。 ひと月ふた月と過ごすうちに、公的な打ち合わせも済んで、調査も次第にはかどっていったので、急ぐことは報告書にして送り、そうでもないものは写して手元に置き、結果それは何冊になっただろうか。 ### 大学のかたにては、をさなき心に思ひ計りしがごとく、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、これかかれかと心迷ひながらも、二、三の法家の講筵につらなることに思ひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。 大学のほうでは、幼心に思い描いていたようには、政治家になるべき特別の学科などあるはずもなく、これかあれかと心を迷わせながらも、二、三の法律学者の講義に出席することに心を決めて、授業料を納入し、行って聴講した。 ## 3 ### かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来たれば包みても包み難きは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりとはげますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。 こうして三年ほどは夢のように経ったが、時が来ればおしつつもうともおしつつめないのが人の好みであるのだろう、私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童などと褒めるのがうれしくて怠けることなく学んだときから、省庁トップが善い働き手を得たと励ますのが喜びでたゆむことなく勤めたときまで、ただ受動的、機械的な人物となって自分では自覚していなかったが、今二十五歳になって、もう長いことこの自由な大学の風に当たっていたためだろうか、心の中はなんとなく穏やかでなく、奥深くに潜んでいる本当の自分は、ようやく表に現れて、昨日までの自分ではない自分を責めたてているようだった。 ### 余は我が身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、またよく法典を諳じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。 私は自分が今の世に雄飛すべき政治家になるにも向いてはいず、またしっかりと法律を暗記して明快に判決を下す法律家になるにもふさわしくないのを悟ったと思った。 ### 余はひそかに思ふやう、我が母は余を活きたる辞書となさんとし、我が官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらんはなほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。 私がひそかに思うに、自分の母は私を生きた辞書にしようとし、私の勤務する省庁のトップは私を生きた法律としようとしたのだろう。辞書であるのはまだ耐えられるが、法律であるのは我慢ができない。 ### 今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。 今まではこまごまとした問題にも、たいそう丁寧に答えていた私が、このころから省庁トップに送る文書にはしきりに法制度が細かなところにかかずらうべきではないことを論じて、ひとたび法の精神を手に入れたならば、ごたごたした全てのものごとは破砕されてしまうだろうなどと広言した。 ### また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやく蔗を嚼む境に入りぬ。 また大学では法科の講義をほったらかして、歴史・文学に心を寄せ、ようやくおもしろみを感じる域に達した。 ### 官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想をいだきて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。 省庁トップはもともと思いのままに使える機械を作ろうとしていたのだろう。独り立ちした思想を抱いて、人並みではないぞという面構えをしている男をどうして喜ぶはずがあるだろうか。 ### 危ふきは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我が地位を覆すに足らざりけんを、日ごろ伯林の留学生のうちにて、ある勢力ある一群れと余との間に、おもしろからぬ関係ありて、かの人々は余を猜疑し、またつひに余を讒誣するに至りぬ。されどこれとてもその故なくてやは。 あやういのは私の当時の地位であった。それでもこれだけでは、まだ自分の地位を奪うには充分ではなかっただろうが、日頃ベルリンの留学生のなかで、或る勢力ある一派と私との間に、愉快ではない関係があって、彼らは私をことさらに疑い、結局ついに私のあることないこと告げ口するに至った。しかしこれもその原因がなかったというわけでもない。 ### かの人々は余がともに麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と欲を制する力とに帰して、かつは嘲りかつは嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。 彼らは私がともにビールのジョッキも挙げず、ビリヤードのキューも取らないのを、かたくなな心と欲望をおさえる力とのせいにして、一方では馬鹿にし一方ではねたんでいたのだろう。しかしこれは私を知らないからなのだ。 ### 嗚呼、この故よしは、我が身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。我が心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。 この理由というのは、自分自身でさえわからないのに、どうして他人がわかるだろうか。私の心はあの合歓という木の葉に似て、物が触れば縮んで避けようとする。 ### 我が心は処女に似たり。余が幼きころより長者の教へを守りて、学びの道をたどりしも、仕への道を歩みしも、みな勇気ありてよくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一筋にたどりしのみ。 私の心は処女に似ている。私が幼いころから年長者の教えを守って、学問への道を辿っていったのも、役所勤めへの道を歩んだのも、みな勇気があってそうしたのではなく、忍耐勉強の力と見えたのも、みな自らをだまし、他人をさえ騙していたので、他人が辿らせた道を、ただ一筋に辿っただけだ。 ### よそに心の乱れざりしは、外物を棄てて顧みぬほどの勇気ありしにあらず、ただ外物に恐れて自ら我が手足を縛せしのみ。故郷を立ち出づる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、また我が心のよく耐へんことをも深く信じたりき。 他へと心が乱れなかったのは、外界の事物を棄ててかえりみないほどの勇気があったからではなく、ただ外界の事物に恐れて自らの手足を自分で縛っていただけだ。故郷を出る前にも、自分がなすべきことある人物であることを疑わず、また自分の心がそれによく耐えるだろうということも深く信じていた。 ### 嗚呼、かれも一時。舟の横浜を離るるまでは、あつぱれ豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我ながら怪しと思ひしが、これぞなかなかに我が本性なりける。この心は生まれながらにやありけん、また早く父を喪ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。 でも、それも一時のこと。船が横浜を離れるまでは、立派な豪傑だと思っていたこの身も、止めることのできない涙でハンカチを濡らしていたのを我ながら不思議と思っていたが、これがやはり私の本性であったのだ。この心は生まれながらであったのだろうか、また早くに父を亡くして母の手で育てられたことによって生じたのだろうか。 ### かの人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。 彼らが馬鹿にするのはもっともなことだ。けれどもねたむというのは愚かではないか。この弱く憐れむべき心を。 ### 赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣をまとひ、珈琲店に坐して客をひく女を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挟ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふレエベマンを見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。 赤く白く顔を塗って、目の覚めるような色の服を着て、喫茶店に腰掛けて客を引く女を見ても、行って声をかける勇気もなく、丈高い帽子をかぶり、眼鏡に鼻をはさませて、プロシアでは貴族っぽい鼻にかかった声でものを言う遊び人を見ても、行ってともに遊ぶ勇気もなく、これらの勇気がないので、あの活発な同郷の人々とつきあおうという手立てもない。 ### これらの勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし。この交際の疎きがために、かの人々はただ余を嘲り、余を嫉むのみならで、また余を猜疑することとなりぬ。これぞ余が冤罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閲し尽くす媒なりける。 このつきあいの下手なため、あの人々はただ私を馬鹿にし、私をねたむだけでなく、また私をことさらに疑うこととなったのだ。これこそ私が無実の罪をこの身に負って、しばらくの間にこのうえない苦労を経験し尽くす間接的な理由なのであった。 ## 4 ### ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。 ある日の夕暮れだったが、私は森林公園を散策して、ウンテル・デル・リンデンを通り、私のモンビシュー街の下宿に帰ろうとして、クロステル地区の古い寺の前に来た。 ### 余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引きこみて立てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚となりてしばしたたずみしこと幾たびなるを知らず。 私はあの明かりの海を渡ってきて、この狭く薄暗い地区に入り、階上の手すりに干した敷布、肌着などをまだ取り入れていない民家、頬髭の長いユダヤ教徒の爺さんが扉の前にたたずんでいる居酒屋、一つの梯子はすぐ階上に続き、他の梯子は穴蔵住まいの鍛冶屋の家に通じている貸家などに向かって、凹字の形に引っ込んで建てられた、この三百年前の遺跡を眺めるたびに、いい心持ちになってしばらくたたずんでいたことが何回もあった。 ### 今このところを過ぎんとする時、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。 今この場所を行き過ぎようとするとき、閉ざした寺の門によりかかって、声も立てずに泣く一人の少女がいるのを目にした。 ### 年は十六、七なるべし。被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我が足音に驚かされて顧みたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、なにゆゑに一顧したるのみにて、用心深き我が心の底までは徹したるか。 年は十六、七でもあろうか。かぶったスカーフからわずかに出た髪の色は、薄い金色で、着ている服は垢じみて汚れているという様子でもない。私の足音に驚いて振り向いた顔は、私に詩人の技量はないのでこれを言葉に写すことは出来ない。この青く清らかで物言いたげに愁いをふくんでいる目の、なかば涙の滴を湛えた長い睫におおわれているとはいえ、どうしてちらりと見ただけで、用心深い私の心の底まで見通せただろう。 ### 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「なにゆゑに泣きたまふか。ところに係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあらん。」と言ひかけたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。 彼女は思いもかけぬ深い悲しみに遭遇して、周囲を気にする余裕もなく、ここに立って泣いていたのだろう。私の臆病な心に憐れみの心は打ち勝って、私は思わずそばに寄り、「どうして泣いているの。この土地につながりのない外国人なら、かえって力を貸しやすいこともあるから。」と言葉をかけたが、我ながら自分の大胆なことに驚いた。 ### 彼は驚きて我が黄なる面をうち守りしが、我が真率なる心や色にあらはれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼のごとく酷くはあらじ。また我が母のごとく。」しばし涸れたる涙の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。 彼女は驚いて私の黄色い顔を見守ったが、私の真剣な心がかたちに現れていたのだろう。「あなたはいい人のようです。あの人のように残酷ではないでしょう。また私の母のようには。」しばらく涸れた涙の泉はまた溢れてかわいらしい頬を流れ落ちた。 ### 「我を救ひたまへ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」 「私をたすけてください、あなた。私が恥知らずの人間となってしまおうとするのを。母は私の彼の言葉に従わなければと、私をぶちました。父は死んでいます。明日は葬らなければいけないのに、家にほんの少しのお金もないのです。」 ### あとは欷歔の声のみ。我が眼はこのうつむきたる少女のふるふ項にのみ注がれたり。 後はすすり泣きの声だけだった。私の目はこのうつむいた少女の震えるうなじへと注がれていた。 ### 「君が家に送り行かんに、まづ心を鎮めたまへ。声をな人に聞かせたまひそ。ここは往来なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我が肩に倚りしが、この時ふと頭をもたげ、またはじめて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。 「あなたの家に送って行きますから、まず心を静めてください。声を他の人に聞かせないで。ここは道路だから。」彼女は話をしていくうちに、知らずしらず私の肩にもたれてきたが、この時ふと頭をもたげて、また初めて私を見たかのように、恥ずかしがって私のそばを飛びのいた。 ### 人の見るが厭はしさに、早足に行く少女のあとにつきて、寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを登りて、四階目に腰を折りて潜るべきほどの戸あり。少女はさびたる針金の先をねぢ曲げたるに、手をかけて強く引きしに、中にはしはがれたる老媼の声して、「誰ぞ。」と問ふ。 人に見られるのが嫌さに、早足に行く少女の後について、寺の筋向かいの大きな扉を入ると、ところどころ欠けた石の階段があって、これをのぼって、四階のところに腰をまげて潜らねばならぬくらいの扉がある。少女は錆びた針金の先をねじ曲げたのに、手を掛けて強く引いたところ、中にはしゃがれた婆さんの声がして、「誰。」と尋ねた。 ### エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあららかに引き開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴をはきたり。エリスの余に会釈して入るを、彼は待ちかねしごとく、戸をはげしくたて切りつ。 エリスが帰りましたと答える間もなく、扉を乱暴に引き開けたのは、なかば白くなった髪、ひどい人相ではないけれど、貧苦のあとを額に刻んだ面相の婆さんで、古いラシャの服を着て、汚れた靴をはいていた。エリスが私に会釈して入るのを、彼女は待ちかねたように、扉をはげしく閉めた。 ### 余はしばし茫然として立ちたりしが、ふと油灯の光に透かして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。 私はしばらく茫然と立っていたが、ふとランプの光に透かして扉を見ると、エルンスト・ワイゲルトと漆で書き、その下に仕立物師と追記がしてあった。これが亡くなったという少女の父の名前なのであろう。 ### 内には言ひ争ふごとき声聞こえしが、また静かになりて戸は再び開きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無礼の振る舞ひせしを詫びて、余を迎へ入れつ。 中には言い争っているかのような声が聞こえたが、また静かになって扉は再び開いた。さきほどの婆さんは丁寧に自分が無礼な振る舞いをしたのを謝って、私を迎え入れた。 ### 戸の内は廚にて、右手の低き窓に、真白に洗ひたる麻布を掛けたり。左手には粗末に積み上げたる煉瓦のかまどあり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるは亡き人なるべし。 扉の中は台所で、右側の低い窓に、真っ白に洗った麻の布を掛けている。左側には粗雑に積み上げた煉瓦のかまどがある。正面の部屋の扉は半分開いていたが、中には白いシーツでおおったベッドがある。横たわっているのは亡くなった人なのであろう。 ### かまどのそばなる戸を開きて余を導きつ。このところはいはゆるマンサルドの街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向かひて斜めに下がれる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭のつかふべきところに臥床あり。 かまどのそばにある扉を開いて私を案内した。この場所はいわゆる屋根裏部屋の街路に面した一室なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がった梁を、紙で張った下の、立てば頭がつかえてしまうに違いないところにベッドがある。 ### 中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一、二巻と写真帖とを並べ、陶瓶にはここに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍らに少女は羞を帯びて立てり。 中央の机にはきれいな敷物を掛けて、上には書物一、二冊とアルバムとを並べ、花瓶にはここに似つかわしくないような高価な花束を生けている。その脇に少女は恥ずかしげに立っていた。 ### 彼は優れて美なり。乳のごとき色の顔は灯火に映じてうす紅を潮したり。手足のかぼそくたをやかなるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でしあとにて、少女は少し訛りたる言葉にて言ふ。 彼女はたいへん美しい。牛乳のような色あいの顔は部屋の明かりに映えてわずかに赤みがさしている。手足のかぼそくしなやかなさまは、貧しい家の女のようでない。婆さんの部屋を出たあとで、少女は少しなまった言葉で言った。 ### 「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎みたまはじ。明日に迫るは父の葬り、たのみに思ひしシャウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼はヴィクトリア座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、人の憂ひにつけこみて、身勝手なる言ひかけせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金をさきて還し参らせん。よしや我が身は食らはずとも。それもならずば母の言葉に。」 「許してください。あなたをここまで連れてきた思いやりのなさを。きっとあなたはいい人なのでしょう。私を決して憎んだりはしないでしょう。明日に迫っているのは父のお葬式、頼りに思っていたシャウムベルヒ、あなたは彼のことを知らないでしょう。彼はヴィクトリア座の座頭です。彼に雇われてから、もう二年になるので、当然私たちを助けるだろうと思っていたのに、人が困っているのにつけ込んで、身勝手な言いがかりをつけてこようなんて。私を助けてください、あなた。お金は少しばかりのお給料から割いてお返しします。たとえ私自身は食べなくても。それでもだめなら母の言葉を聞いて。」 ### 彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目のはたらきは知りてするにや、また自らは知らぬにや。 彼女は涙ぐんで身を震わせている。その見上げた目には、人に嫌とは言わせない愛らしき力がある。この目の働きは知っていてするのか、あるいは自分自身は知らないのか。 ### 我がかくしには二、三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。 私の内ポケットには二、三マルクの銀貨があるが、それでは足りるはずもないので、私は時計をはずして机の上に置いた。 ### 「これにて一時の急をしのぎたまへ。質屋の使ひのモンビシュウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」 「これで一時の急をしのいでください。質屋の使いがモンビシュー街三番地に太田を訪ねてくるような時には必ず代価を渡しますから。」 ### 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出だしたる手を唇にあてたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背にそそぎつ。 少女に驚き感謝する様子がうかがえて、私が別れのためにさしだした手を唇に当て、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に注いだ。 ### 嗚呼、なんらの悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我が僑居に来し少女は、ショオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、ひねもす兀坐する我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。 なんという悪い因縁か。この恩の謝礼にと、みずから私の下宿に来た少女は、ショーペンハウエルを右に、シラーを左に、一日中じっと腰掛けている私の読書の窓の下に、一輪の美しい花を咲かせていた。 ### この時を始めとして、余と少女との交はりやうやく繁くなりもてゆきて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余をもて色を舞姫の群れに漁するものとしたり。我ら二人の間にはまだ痴・なる歓楽のみ存したりしを。 このときを最初に、私と少女との行き来はようやく頻繁になり行き、同郷の人間にさえ知れてしまったので、彼らは早合点にも、私をして好色の情によってダンサーの群れの中に漁をする者と見なした。私たち二人のあいだにはまだたわいのない楽しみだけしかなかったのに。 ### その名を斥さんははばかりあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。 その名前を挙げるのはさしひかえるが、同郷の人間のなかに強いて事を起こしたがる人がいて、私がしばしば芝居小屋に出入りして、女優とつきあっているということを、省庁トップのところに通報した。 ### さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。 それでなくても私がたいへんな学問の分かれ道に向かっているのを知って憎く思っていた省庁トップは、ついに意向を公使館に伝えて、私を罷免し、私の官職を解いた。公使がこの命令を伝えるときに私に言ったのは、君がもしただちに故国に帰るのなら、旅費は必ず出すが、もしまだここに居ようというのなら、おおやけの援助を期待してはならないとのことであった。 ### 余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我が生涯にて最も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時に出だししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。 私は一週間の猶予をお願いして、あれこれと思い悩むうちに、私の人生で最も悲しみを感じさせた二通の書状を手にした。この二通はほとんど同時に出したものではあるが、一通は母の自筆、一通は親族である某が、母の死を、私がこのうえなく慕う母の死を知らせた手紙なのであった。 ### 余は母の書中の言をここに反覆するに堪へず、涙の迫りきて筆の運びを妨ぐればなり。 私は母の手紙の中の言葉をここで繰り返すに耐えない、涙が出そうになって筆の運びを妨げるからである。 ### 余とエリスとの交際は、この時まではよそ目に見るより清白なりき。 私とエリスとのつきあいは、このときまでは傍目から見るよりは潔白であった。 ### 彼は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、クルズス果てて後、ヴィクトリア座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。 彼女は父が貧しいために、充分な教育を受けず、十五の時にダンスの先生の募集に応じて、この恥ずかしい技能を教えられ、講習を終えた後、ヴィクトリア座に出て、今はチームの中で二番目の地位を占めている。 ### されど詩人ハックレンデルが当世の奴隷と言ひしごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台ときびしく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にてはひとり身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふものはその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賎しきかぎりなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれをのがれしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。 しかし詩人ハックレンデルがこの世の奴隷と言ったように、はかないのはダンサーの身の上であろう。しがない給料でしばられ、昼のリハーサル、夜の舞台ときびしく使われ、芝居の化粧部屋に入ってこそおしろいもつけ、美しい衣装もまとえるが、小屋の外では一人分の衣食にも事欠きがちなので、親兄弟を養う者はその苦労どれほどだろうか。それだから彼女の仲間で、賤しい限りの仕事に手を染めないのはまれであるというのだ。エリスがこれをのがれてきたのは、おとなしい性質と、気性のしっかりした父親の保護によったのである。 ### 彼は幼き時より物読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しきコルポルタアジュと唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識るころより、余が貸しつる書を読みならひて、やうやく趣味をも知り、言葉の訛りをも正し、幾ほどもなく余に寄する文にも誤り字少なくなりぬ。かかれば余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき。 彼女は幼いときから本を読むのを好んでいたが、手に入るのは卑しいコルポタージュと称する貸本屋の小説だけだったのを、私と知り合ったころから、私が貸した本を読み学んで、ようやく教養も知り、言葉の訛も直し、それほどたたないうちに私に寄こす手紙にも誤字が少なくなってきた。それだから私たち二人の間にはなにより師弟の交わりが生まれていたのであった。 ### 我が不時の免官を聞きし時に、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事にかかはりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かひて母にはこれを秘めたまへと言ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。 私の急な失職を聞いたときに、彼女は顔色をなくした。私は彼女のことがこの一件に関わっていたのを包み隠しておいたが、彼女は私に向かって母にはこのことを黙っていてくださいと言った。これは母が私の学資を失ったのを知って私を邪魔にするだろうことを恐れてだった。 ### 嗚呼、くはしくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに強くなりて、つひに離れ難き仲となりしはこの折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋なるに、この行ひありしを怪しみ、また誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、はじめて相見し時よりあさくはあらぬに、今我が数奇を憐れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせむ。 詳しくここに記すことも必要はないのだが、私が彼女を愛する心のとたんに強くなって、ついに離れることのできない仲となったのはこの頃だった。私の一身上の大事件は目の前に横たわって、ほんとうに危急存亡のときであるというのに、この行いがあったのを怪しみ、また批判する人もあるには違いなかろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて互いを見たときからより浅くはなっていないうえに、いま私の不幸を憐れみ、また別れを悲しんでうつむいて沈んだ顔に、鬢の毛がほどけてかかっている、その美しい、いじらしい姿は、私の悲痛な感慨の刺激によって普通ではない状態となった脳髄を直撃して、ぼんやりとなっているなかで事ここに及んだのをどうしたらよいというのか。 ### 公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ。このままにて郷に帰らば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮かぶ瀬あらじ。さればとてとどまらんには、学資を得べき手だてなし。 公使に約束した日も近づき、私の運命も切迫してきた。このままで故国に帰ったならば、学問をものにしないうえに汚名を負ったこの身の浮かぶ瀬はないだろう。そうかといって留まったとしても、学資を手に入れる手立てもない。 ### この時余を助けしは今我が同行の一人なる相沢謙吉なり。 このとき私を助けたのは今私のドイツ同行の仲間の一人である相沢謙吉である。 ### 彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林にとどまりて政治、学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。 彼は東京で、既に天方伯爵の秘書官であったが、私の免職が官報に出たのを見て、某新聞社の編集長を説得して、私を社の通信員とし、ベルリンに留まって政治や学芸のことなどを報道させることとした。 ### 社の報酬は言ふに足らぬほどなれど、棲家をも移し、午餐に往く食店をもかへたらんには、かすかなる暮らしは立つべし。 社からの報酬は言うに足りない程度だったが、住居も移し、昼食に行く店も変えたならば、なんとか暮らしは立ちゆくに違いない。 ### とかう思案するほどに、心の誠をあらはして、助けの綱を我に投げ掛けしはエリスなりき。彼はいかに母を説き動かしけん、余は彼ら親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合はせて、憂きが中にも楽しき月日を送りぬ。 と、このように考えているうちに、誠実さをかたちにあらわして、助けの綱を私に投げかけたのはエリスであった。彼女はどうやって母を説得したのだろうか、私は彼女ら親子の家に身を寄せることとなって、エリスと私とはいつということもなく、あるかないかの収入を合わせて、苦しいなかにも楽しい月日を送った。 ### 朝の珈琲果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家にとどまりて、余はキョオニヒ街の間口狭く奥行きのみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。 朝のコーヒーが終わると、彼女はリハーサルに行き、そうでない日は家に残って、私はキョーニヒ街の間口の狭い奥行きばかりがとても長い休憩所に向かい、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。 ### この截り開きたる引き窓より光を取れる室にて、定まりたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に貸して己は遊び暮らす老人、取引所の業のひまをぬすみて足を休むる商人などと臂を並べ、冷ややかなる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞の珈琲の冷むるをも顧みず、あきたる新聞の細長き板ぎれにはさみたるを、幾種となく掛けつらねたるかたへの壁に、幾たびとなく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。 この開いた引き窓から光を採っている一室で、決まった仕事のない若者、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らす老人、取引所の業務の暇を盗んで足を休める商人などと肘を並べて、ひんやりした石のテーブルの上で、せわしげに筆を走らせ、メイドが持ってくる一杯のコーヒーの冷めるのも気にせず、空いた新聞が細長い板切れにはさんであるのを、何種類となく掛け並べた片隅の壁に、何度となく行き来する日本人を、知らない人はどう見たろうか。 ### また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなし得つべき少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし。 また一時近くなると、リハーサルに行った日には帰り道に立ち寄って、私といっしょに店を出るこの人並み以上に軽い、手のひらの上でダンスもできそうな少女を、怪しんで見送る人もあるに違いあるまい。 ### 我が学問は荒みぬ。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子に倚りて縫ひものなどするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり。 私の学問はすさんだ。屋根裏の灯火ひとつかすかに燃えて、エリスが劇場から帰って、椅子に掛けて縫い物などする側の机で、私は新聞の原稿を書いた。 ### 昔の法令条目の枯れ葉を紙上にかき寄せしとは殊にて、今は活発々たる政界の運動、文学、美術にかかる新現象の批評など、かれこれと結びあはせて、力の及ばんかぎり、ビョルネよりはむしろハイネを学びて思ひを構へ、さまざまの文を作りしうちにも、引き続きて維廉一世と仏得力三世との崩・ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退いかんなどのことにつきては、ことさらにつまびらかなる報告をなしき。 昔の法令条文の枯葉を紙の上に掻き寄せたのとは異なって、今は活発な政界の動き、文学や美術にかかわる新しい傾向の批評など、あれこれとつなぎあわせて、力の及ぶ限り、ビヨルネよりはむしろハイネを学んで考えを組み立て、さまざまの文章を作っているあいだにも、続けてウィルヘルム一世とフレデリック三世の崩御があって、新しい皇帝の即位や、ビスマルク侯爵の進退がどうなるかなどといったことについては、ことさらに詳しい報告をした。 ### さればこのころよりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだけづられねど、謝金を収むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに往きて聴くことはまれなりき。 それだからこのころからは思ったよりも忙しくて、多くもない蔵書のページをめくって、以前の学業をふりかえることも難しく、大学の籍はまだ削られてはいないが、授業料を納めることが難しいので、ただ一つにした講義すら行って聴くことは稀となった。 ### 我が学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、およそ民間学の流布したることは、欧州諸国の間にて独逸に若くはなからん。 私の学問はすさんだ。しかし私は別に或る種の見識をのばした。それはどのようなものかというと、だいたい民間に学問が普及していることでは、ヨーロッパ諸国の間ではドイツにまさるところはないだろう。 ### 幾百種の新聞雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから綜括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間には独逸新聞の社説をだによくはえ読まぬがあるに。 何百種類の新聞、雑誌にちらほらと見える議論にはたいへんレベルの高いものも多いのを、私は通信員となった日から、それまで大学に頻繁に通っていた時に、養うことのできた一対の目によって、読んではまた読み、書き写してはまた書き写すうちに、今まで一本の道だけを走ってきた知識は、自然と総合的になって、同郷の留学生などのほとんどは、夢にも知らぬ境地に至った。彼らの仲間にはドイツの新聞の社説すらよく読むことができない者がいるのだから。 ## 5 ### 明治二十一年の冬は来にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、鍤をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹坎坷のところは見ゆめれど、表のみはいちめんに氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。 明治二十一年の冬は来た。表通りの歩道であればこそ砂もまき、鍬もふるうが、クロステル街のあたりはでこぼこで歩きにくいところは見えるだろうが、表面だけは一面に凍って、朝に扉を開けると飢えこごえた雀が落ちて死んでいるのも哀れである。 ### 室を温め、かまどに火を焚きつけても、壁の石をとほし、衣の綿をうがつ北欧羅巴の寒さは、なかなかに堪へ難かり。 部屋を暖め、かまどに火を焚きつけても、壁の石をとおし、服の綿をつらぬく北ヨーロッパの寒さは、なかなかに耐え難かった。 ### エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人にたすけられて帰り来しが、それより心地悪しとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻といふものならんとはじめて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし。 エリスは二、三日前の夜、舞台で倒れたというので、人に助けられて帰ってきたが、それから気分が悪いといって休み、ものを食べては吐くのを、悪阻というものだろうと初めて気づいたのは母だった。そうでなくても頼りないのは我が身の行く末なのに、もし本当であったならどうしたらいいだろう。 ### 今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小さき鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉寡し。 今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。エリスは寝込むほどではないが、小さいストーブのそばに椅子を寄せて言葉も少ない。 ### この時戸口に人の声して、ほどなく庖廚にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。 このとき扉のところで人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母が、郵便物を持ってきて私に渡した。見ると見覚えのある相沢の筆跡なのに、郵便切手はプロシアのもので、消印にはベルリンとある。 ### いぶかりつつも披きて読めば、とみのことにてあらかじめ知らするに由なかりしが、昨夜ここに着せられし天方大臣につきて我も来たり。伯のなんぢを見まほしとのたまふに疾く来よ。なんぢが名誉を恢復するもこの時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみ言ひやるとなり。 不審に思いつつも開いて読むと、急なことであらかじめ知らせるのに手立てもなかったが、昨夜ここに到着された天方大臣につきしたがって自分も来た。伯爵が君に会いたいとおっしゃるので早く来たまえ。君の名誉を回復するのも今このときだろう。心ばかり急かれて用事だけ言い送るとあった。 ### 読みをはりて茫然たる面もちを見て、エリス言ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便りにてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心になかけそ。御身も名を知る相沢が、大臣とともにここに来て我を呼ぶなり。急ぐと言へば今よりこそ。」 読み終わって茫然とした顔つきを見て、エリスが言った。「故郷からの手紙なのですか。まさか悪い知らせでは。」彼女は例の新聞社の報酬に関する書状と思ったのだろう。「いや、気にしないで。あなたも名前を知っている相沢が、大臣と一緒にここに来て私を呼んでいるのだ。急ぐというから今から。」 ### かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きしゲェロックといふ二列ぼたんの服を出だして着せ、襟飾りさへ余がために手づから結びつ。 かわいい一人っ子を旅立たせる母親もこうまでは心遣いをしないだろう。大臣にお目にかかるかもしれないと思うからなのだろう、エリスは具合の悪いのを我慢して立ち上がり、ワイシャツも特に白いのを選び、丁寧にしまっておいたフロックコートという二列ボタンの服を出して着せ、ネクタイさえも私のために自分で結んだ。 ### 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。なにゆゑにかく不興なる面もちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣を更めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。」 「これでみっともないなどとは誰も言えないでしょう。私の鏡に向いて見てください。どうしてそんなにおもしろくない顔つきをお見せになるの。私も一緒に行きたいのに。」少し態度を改めて「いえ、こう服装を改めていらっしゃるのを見ると、私の豊太郎さんとは見えない。」また少し考えて、「もしお金持ちにおなりになる日があっても、私を見捨てなさらないで。私の具合の悪いのは母がおっしゃる通りでなくても。」 ### 「なに、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」 「なに、お金持ち。」私はほほえんだ。「政治の社会に出ようなんて望みは捨ててから何年経ったか。大臣は見たくもない。ただ長いあいだ別れていた友に会いに行くのだ。」 ### エリスが母の呼びし一等ドロシュケは、輪下にきしる雪道を窓の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。彼は凍れる窓を開け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。 エリスの母が呼んだ一等馬車は、車輪の下にきしる雪道を窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れたコートを背中にはおって手は通さず帽子を取ってエリスにキスして階段を下りた。彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風になびかせて私が乗った車を見送った。 ### 余が車を下りしはカイゼルホオフの入り口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱にプリュッシュを被へるゾファを据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばここにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟躕したり。 私が車を下りたのはカイゼルホーフの入口である。ボーイに秘書官相沢の部屋の番号をたずねて、長いこと踏み慣れない大理石の階段を登り、中央の柱にブリュッシュをおおったソファーを据えつけ、正面には鏡を立てたロビーに入った。コートをここで脱ぎ、廊下をつたって部屋の前まで行ったが、私は少し気後れがした。 ### 同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふはいかなる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ、依然たる快活の気象、我が失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを翻訳せよとのことなり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢はあとより来て余と午餐をともにせんと言ひぬ。 共に大学にいた頃に、私の品行の方正なことを激賞した相沢が、今日はどんな表情をして出迎えるだろう。部屋に入って互いに向き合ってみると、体型こそ昔に比べれば太ってたくましくなっているが、変わることない快活な気性は、私のあやまちもそれほど気にしていないと見える。別離した後の気持ちを細かく述べる暇もなく、引かれて大臣に面会し、依頼されたのはドイツ語で記された文書の急を要するものを翻訳せよとのことだった。私が文書を受け取って大臣の部屋を出てから、相沢は後から来て私と昼食を共にしようと言った。 ### 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路はおほむね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我が身の上なりければなり。 食卓では彼は尋ねること多く、私は答えること多かった。彼の人生はおおむね平穏であったが、不運不幸なのは私の身の上であったからである。 ### 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、彼はしばしば驚きしが、なかなかに余を譴めんとはせず、かへりて他の凡庸なる諸生輩をののしりき。されど物語のをはりし時、彼は色を正して諌むるやう、この一段のことはもと生まれながらなる弱き心より出でしなれば、いまさらに言はんもかひなし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。 私が心を開いて物語った不幸な経緯を聞いて、彼はしばしば驚いたが、さほどに私を責めようとはせず、かえって他の冴えたところのない同輩を非難した。けれども物語の終わったとき、彼は態度を改めて忠告するには、これまでのことはもともと生まれながらの弱い心から生じたものだから、今更言っても仕方がない。とはいえ、学識もあり、才能もある者が、いつまでも一人の少女の情にかかずらって、目的のない生活をしていてよいのか。 ### 今は天方伯もただ独逸語を利用せんの心のみなり。己もまた伯が当時の免官の理由を知れるがゆゑに、強ひてその成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、己に損あればなり。人を薦むるはまづその能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。意を決して断てと。これその言のおほむねなりき。 今は天方伯爵もただドイツ語を利用しようという心だけだ。俺もまた伯爵が当時の免職の理由を知っているため、無理にその考えを動かそうとはしない、伯爵の心の中で事を曲げて庇おうとする者だと思われるのは、君に利益なく、俺に損があるからだ。人を推薦するには先ずその能力を見せるのが一番だ。これを見せて伯爵の信用を手に入れるようにしろ。またあの少女との関係は、かりに彼女が誠実だったとしても、かりにつきあいが深くなっていたとしても、人品骨柄を分かっての恋ではなく、習慣という一種の惰性から生じた交わりだ。心を決めて別れろ、と。これがその言葉の概略であった。 ### 大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方鍼なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果たして往きつきぬとも、我が中心に満足を与へんも定かならず。 大きな海原に舵をなくした舟人が、はるかに見える山を眺めるような、それが相沢が私に指し示した前途の方針である。しかしこの山はまだ深い霧のなかにあって、いつ行き着けるのかも、いや、はたして行き着けたとして、私の心の中に満足を与えるのかもはっきりしていない。 ### 貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。我が弱き心には思ひ定めん由なかりしが、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守るところを失はじと思ひて、己に敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。 貧しいなかにも楽しいのは今の生活、捨てられないのはエリスの愛。私の弱い心には考えを決める手立てもなかったが、しばらくは友の言葉に従って、この想いを断とうと約束した。私は守っているものを失うまいと思って、自分に敵対する者には抵抗するが、友に対して嫌だとは答えられないのがいつものことなのである。 ### 別れて出づれば風面を撲てり。二重の玻璃窓をきびしく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたるホテルの食堂を出でしなれば、薄き外套をとほる午後四時の寒さはことさらに堪へ難く、膚粟立つとともに、余は心の中に一種の寒さを覚えき。 別れて外に出ると風が顔を打った。二重のガラス窓をしっかりと閉めて、大きな陶製の暖炉に火をたいているホテルの食堂を出たのだから、薄いコートをとおる午後四時の寒さはことさらに耐え難く、鳥肌が立つとともに、私は心のなかにも一種の寒さを感じた。 ### 翻訳は一夜になし果てつ。カイゼルホオフへ通ふことはこれよりやうやく繁くなりもてゆくほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近ごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げてうち笑ひたまひき。 翻訳は一晩でやりおえた。カイゼルホーフへ通うのもこれからだんだんと頻繁になっていって、初めは伯爵の言葉も用事だけだったが、後になると最近故国であったことなどを挙げて私の意見をたずね、時折は旅行中に人々が失敗したことなどを明かして大笑いされた。 ## 6 ### ひと月ばかり過ぎて、ある日伯は突然我に向かひて、「余は明旦、魯西亜に向かひて出発すべし。随ひて来べきか。」と問ふ。余は数日間、かの公務にいとまなき相沢を見ざりしかば、この問ひは不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」 一月ほどが過ぎて、ある日伯爵は突然私に向かって、「わしは明日、ロシアに向かって出発することになっている。ついて来るか。」とたずねた。私は数日間、あの公務に忙しい相沢とも会わなかったので、この問いかけはいきなり私を驚かした。「どうしてご下命に従わないことがありましょう。」 ### 余は我が恥を表さん。この答へはいち早く決断して言ひしにあらず。余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひしうへにて、そのなし難きに心づきても、強ひて当時の心うつろなりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。 私は自分の恥を明かそう。この答えはただちに決断して言ったものではない。私は自分が信じて頼りに思う心を生じた人に、急にものをたずねられたときは、とっさに、その答えがどう影響するのかをよく判断もせず、すぐに承知してしまうことがある。そして承知したあとで、そのできかねることに気づいても、無理にその時の心の虚ろであったことをつつみ隠し、我慢してこれを実行することが何度もある。 ### この日は翻訳の代に、旅費さへ添へて賜りしを持て帰りて、翻訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費をば支へつべし。 この日は翻訳の代金に、旅費さえ添えてくださったのを持って帰って、翻訳の代金をエリスに預けた。これでロシアから帰って来るまでの家計を支えられるだろう。 ### 彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだひと月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立ちのことにはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我が心を厚く信じたれば。 彼女は医者に見てもらったら身重だという。貧血の気があるので、何ヶ月か気づかないでいたのだろう。座頭からは休んでいるのがあんまり長くなったので除名すると言い出されていた。まだひと月くらいだというのに、こう厳しいのは訳があるからなのだろう。旅立ちのことにはそう心を悩ませているとも見えない。嘘いつわりのない私の心を深く信じているので。 ### 鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合はせて借りたる黒き礼服、新たに買ひ求めたるゴタ板の魯廷の貴族譜、二、三種の辞書などを、小カバンに入れたるのみ。 鉄道ならばそう遠くもない旅なので、準備もしていない。体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めたゴータ版のロシア宮廷の貴族名鑑、二、三種類の辞書などを小さなカバンに入れただけだった。 ### さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行くあとに残らんも物憂かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらんにはうしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出だしやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入り口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。 さすがに心細いことばかりが多いこの年月だったので、出て行った後に残るというのも心配であるに違いなく、また駅で涙をこぼしたりしたなら後ろめたくなることだろうからと、翌朝朝早くにエリスを母と一緒に知人のところに行かせた。私は旅支度を整えて扉を閉め、鍵を入り口に住む靴屋の主人に預けて出ていった。 ### 魯国行きにつきては、何事をか叙すべき。我が舌人たる任務はたちまちに余を拉し去りて、青雲の上におとしたり。 ロシア行きについては、何を書いたらいいだろう。自分の通訳としての任務はたちまち私を連れ去って、空高い雲の上に落とした。 ### 余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾、ことさらに黄蝋の燭を幾つともなくともしたるに、幾星の勲章、幾枝のエポレットが映射する光、彫鏤の工を尽くしたるカミンの火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇のひらめきなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものは我なるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。 私が大臣一行につきしたがって、ペテルブルグにいた間に私をとりまいていたのは、パリ絶頂のはなやかさを、氷と雪の上に移した王城の装飾、わざわざ黄色い蝋燭の明かりをおびただしく灯しているなかに、いくつもの勲章、いくつもの肩章が反射する光、彫刻の技巧を凝らしたカミンの火に寒さを忘れて使う宮中の女性の扇のひるがえる様などで、そのなかでフランス語をもっとも流暢に使うのは私であるため、招かれた者と招いた者とのあいだを取り持って用事を済ませるのもまた多くは私であった。 ### この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日ごとに文を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて灯火に向かはんことの心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまで物語し、疲るるを待ちて家に帰り、直ちに寝ねつ。 このあいだ私はエリスを忘れはしなかった、いや、彼女は毎日手紙をよこしたので忘れることが出来なかった。私が出発した日には、普段とは違って一人で灯火に向かうことのわびしさに、知人のところで夜になるまで話をし、疲れを感じて家に帰り、直ぐに眠った。 ### 次の朝目醒めし時は、なほ独りあとに残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かかる思ひをば、生計に苦しみて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の文のあらましなり。 起きあがったときの心細さは、こんな思いは、生活に苦しんで、今日一日の食事のなかった時にもしなかった。これが彼女の最初の手紙のあらましである。 ### またほど経ての文はすこぶる思ひ迫りて書きたるごとくなりき。文をば否といふ字にて起こしたり。 またしばらく経ってからの手紙はたいへん切迫した思いで書いたもののようだった。手紙をいいえという字で書き始めていた。 ### 否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしき族なしとのたまへば、この地に善き世渡りの生計あらば、とどまりたまはぬことやはある。また我が愛もてつなぎ留めではやまじ。 いいえ、あなたを思う心の深い底を今こそ知りました。あなたは故国に頼りになる親族もいないとおっしゃるので、この土地に良い世渡りのための仕事があるなら、とどまらないなんてことがあるでしょうか。また私の愛でつなぎとめないではおきません。 ### それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに往かんはやすけれど、かほどに多き路用をいづくよりか得ん。いかなる業をなしてもこの地にとどまりて、君が世に出でたまはん日をこそ待ためと常には思ひしが、しばしの旅とて立ち出でたまひしよりこの二十日ばかり、別離の思ひは日にけに茂りゆくのみ。 それもかなわず東にお帰りになりたいというのなら、親と一緒に行くのは簡単ですけれど、あれほどに高い旅行費をどこから手に入れましょう。どんなことをしてでもこの土地にとどまって、あなたが世に出ていかれる日を待ちたいといつも思っていたのですが、しばらくの旅ということで出発されたこの二十日あまり、別れの予感は日を追ってふくらんでいくばかりです。 ### 袂を分かつはただ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷ひなりけり。我が身の常ならぬがやうやくにしるくなれる、それさへあるに、よしやいかなることありとも、我をばゆめな棄てたまひそ。 別れるのはただ一瞬の苦しみと思ったのは迷いだったのです。私のお腹がようやく目に立つようになって、そのこともあるのに、かりにどんなことがあっても、私を決してお捨てにならないで。 ### 母とはいたく争ひぬ。されど我が身の過ぎしころには似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステッチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞ言ふなる。書きおくりたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば、我が路用の金はともかくもなりなん。今はひたすら君が伯林に帰りたまはん日を待つのみ。 母とは激しく争いました。けれど私自身がこれまでとは違って気持ちを決めているのを見てあきらめてくれました。私が東に行こうという日には、シュチェチンあたりの農家に、遠い親戚がいるので、身を寄せようと言っています。書き送ってくださったように、大臣閣下に重く用いられていらっしゃるなら、私の旅行の費用はなんとかなるでしょう。今はただあなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。 ### 嗚呼、余はこの文を見てはじめて我が地位を明視し得たり。恥づかしきは我が鈍き心なり。余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。 私はこの手紙を見て初めて私の立場をはっきりとまのあたりにすることができた。恥ずかしいのは私の鈍い心だ。私は自分の身ひとつの進退についても、また自分の身に関係のない他人のことについても、決断力があると自身心のうちに誇っていたが、この決断力は順調なときだけ存在して、逆境のなかでは存在しない。私と彼女との関係を照らし出そうとするときは、頼りに思っていた心の中の鏡は曇っていた。 ### 大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて想ひいたらざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。 大臣は既に私に好意を持っている。けれども私の近眼はただ自身が尽している職分だけを見ていた。私はこれに未来の望みをつなぐことには、神もご存知だろうが、まったく思い至らなかった。しかし今ここで気がついて、どうして自分の心はまだ冷めたままでいられよう。 ### 先に友の勧めし時は、大臣の信用は屋上の禽のごとくなりしが、今はややこれを得たるかと思はるるに、相沢がこのごろの言葉の端に、本国に帰りて後もともにかくてあらば云々と言ひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明らかには告げざりしか。 以前に友が勧めたときは、大臣の信用は屋根の上の鳥のようであったが、今はなんとかこれを手に入れたかと思われるにつけても、相沢のこのごろの言葉の端に、本国に帰った後も一緒にこんなふうにやっていければなどとあったのは、大臣がそうおっしゃったのを、友ではあっても公的な事であるからはっきりとは教えなかったということなのか。 ### いまさら思へば、余が軽率にも彼に向かひてエリスとの関係を絶たんと言ひしを、早く大臣に告げやしけん。 いまさらに思えば、私が軽率にも彼に向かってエリスとの関係を絶とうと言ったのを、早々と大臣に伝えたのかもしれない。 ### 嗚呼、独逸に来し初めに、自ら我が本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。先にこれをあやつりしは、我が某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。 ドイツに来た当初、みずから自分の本領を自覚したと思い、また機械のような人間にはなるまいと誓ったが、これは足を縛られて空に放たれた鳥がしばらく羽を動かして自由を得たのだと勝ち誇ったようなものではないのか。足の糸はほどく手立てもない。以前にこれを操っていたのは、私の勤めていた某省のトップで、今はこの糸は、情けなくも、天方伯爵の手中にある。 ### 余が大臣の一行とともに伯林に帰りしは、あたかもこれ新年の旦なりき。停車場に別れを告げて、我が家をさして車を駆りつ。ここにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習ひなれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらきらと輝けり。 私が大臣の一行とともにベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の朝であった。駅を離れて、私の家をさして馬車を走らせた。ここでは今も大晦日の夜には眠らず、元日の朝に眠るのが習慣なので、どの家もひっそりとしている。寒さはつよく、路上の雪は鋭くとがった氷のかけらとなって、晴れた日の光を反射して、きらきらと輝いていた。 ### 車はクロステル街に曲がりて、家の入り口にとどまりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯を登らんとするほどに、エリスの梯を駆け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我が項を抱きしを見て馭丁はあきれたる面もちにて、何やらむ髭の内にて言ひしが聞こえず。 馬車はクロステル街へと曲がって、家の入り口に止まった。このとき窓を開く音がしたが、馬車からは見えず、御者にカバンを持たせて階段を上ろうとすると、エリスが階段を駆け下りてくるのに出会った。彼女が一声叫んで私の首筋にかじりついたのを見て御者はあきれた顔つきで、何か髭のなかで言ったが聞こえない。 ### 「よくぞ帰り来たまひし。帰り来たまはずば我が命は絶えなんを。」 「よく帰っていらっしゃいました。帰っていらっしゃらなければ私の命は絶えていたでしょうに。」 ### 我が心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟・の思ひは去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。 私の心はこのときまでも決まっておらず、故郷を思う気持ちと栄達を求める思いとは、時として愛情を押しつぶそうとしていたが、ただこの一瞬、悩み迷う思いは消え去って、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩にもたれて、彼女の喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちた。 ### 「幾階か持ちて行くべき。」と鑼のごとく叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。 「何階に持っていったらいいかね。」と銅鑼のように叫んだ御者は、早々と上って階段の上に立っていた。 ### 戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひたまへと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などをうづたかく積み上げたれば。 扉の外に出迎えていたエリスの母に、御者に礼を言っておいてくださいと銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに伴われて、急いで部屋に入った。一見して私は驚いた。机の上には白い木綿、白いレースなどを高々と積み上げていたので。 ### エリスはうち笑みつつこれを指さして、「何とか見たまふ、この心がまへを。」と言ひつつ一つの木綿ぎれを取り上ぐるを見れば襁褓なりき。「我が心の楽しさを思ひたまへ。産まれん子は君に似て黒きひとみをや持ちたらん。このひとみ。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒きひとみなり。産まれたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせたまはじ。」 エリスはにこにことしてこれを指さし、「どうごらんになるの、この心の用意を。」と言いながら一つの木綿の切れを取り上げるのを見ればおむつであった。「私の心の楽しさを想像してみて。産まれてくる子はあなたに似て黒い瞳をお持ちかしら。この瞳。夢にばかり見たのはあなたの黒い瞳です。産まれてくる日には、あなたの正しい心で、まさか別の名前を名乗らせはなさいませんよね。」 ### 彼は頭を垂れたり。「をさなしと笑ひたまはんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。 彼女は顔を伏せた。「幼いとお笑いになるでしょうが、洗礼を受ける日はどれほどうれしいでしょうね。」見上げた目には涙が満ちていた。 ## 7 ### 二、三日の間は大臣をも、旅の疲れやおはさんとてあへて訪らはず、家にのみこもりをりしが、ある日の夕暮れ使ひして招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行きの労を問ひ慰めて後、我とともに東に還る心なきか、君が学問こそわが測り知るところならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留のあまりに久しければ、さまざまの係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落ち居たりとのたまふ。 二、三日の間は大臣のところへも、旅の疲れがおありだろうと敢えて訪問せず、家にばかりこもっていたが、ある日の夕暮れに使いがあって招かれた。行ってみると待遇はことによろしく、ロシア行きの労を労った後、自分とともに東に帰る気持ちはないか、君の学問こそわしのはかり知るところではないが、語学だけでも世間の用には足りるだろう、滞留があまり長いので、いろいろとつながりもあるだろうと、相沢にたずねたら、そんなことはないと聞いて安心したとおっしゃる。 ### その気色辞むべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相沢の言を偽りなりとも言ひ難きに、もしこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉をひきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。嗚呼、なんらの特操なき心ぞ、「承りはべり。」と応へたるは。 その様子では拒否することもできない。ああまずいことになったと思ったが、さすがに相沢の言葉を間違いですとも言えず、もしこの手にすがらなければ、本国も失い、名誉を回復する道も絶え、我が身はこの広々とした欧州の大都会の人の海に葬られるのだろうかと思う一念が、心の奥からいきなり沸き起こってきた。なんという節操のない心か、「承知しました。」と答えたというのは。 ### 黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とか言はん。ホテルを出でし時の我が心の錯乱は、たとへんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思ひに沈みて行くほどに、往きあふ馬車の馭丁に幾たびか叱せられ、驚きて飛びのきつ。 鉄の額はあっても、帰ってエリスに何と言おうか。ホテルを出たときの私の心の乱れようは、たとえるにも適当なものがなかった。私は道の東西すらも分からず、思いに沈んで歩み行くうちに、行きかう馬車の御者に何度か叱りつけられ、驚いて飛びのいた。 ### しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑の傍らに出でたり。倒るるごとくに路の辺の榻に倚りて、灼くがごとく熱し、椎にて打たるるごとく響く頭を榻背にもたせ、死したるごときさまにて幾時をか過ぐしけん。はげしき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸ばかりも積もりたりき。 しばらくしてふと辺りをみると、森林公園の脇に出ていた。倒れるように道ばたのベンチに腰掛け、焼けるように熱い、ハンマーで打たれたようにガンガン響く頭を背にもたせて、死んでいるかのような様子で何時間を過したのだろう。激しい寒さが骨をもつきとおすと感じて我にかえったときは、夜になって雪がしきりと降り、帽子のひさしや、コートの肩には三センチほどにも積もっていた。 ### もはや十一時をや過ぎけん、モハビット、カルル街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯灯は寂しき光を放ちたり。立ち上がらんとするに足の凍えたれば、両手にて擦りて、やうやく歩み得るほどにはなりぬ。 もう十一時も過ぎていたろうか、モハビットからカルル街に通ずる鉄道馬車の線路も雪に埋もれ、ブランデンブルグ門の脇のガス灯は寂しい光を放っている。立ち上がろうとするものの足が凍えているので、両手でさすって、ようやく歩き出すことができるくらいになった。 ### 足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来し時は、半夜をや過ぎたりけん。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル・デン・リンデンの酒家、茶店はなほ人の出入り盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我が脳中にはただただ我はゆるすべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。 足の運びがはかどらないので、クロステル街まで来たときは、零時を回っていただろうか。ここまで来た道をどうやって歩いてきたのか分からない。一月上旬の夜なので、ウンテル・デン・リンデンの居酒屋、喫茶店はまだ人の出入りも盛んでにぎやかだったろうが、全然覚えていない。自分の頭の中にはただただ自分は許されてはならぬ罪人であるという思いだけが満ち満ちていた。 ### 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずとおぼしく、炯然たる一星の火、暗き空にすかせば、明らかに見ゆるが、降りしきる鷺のごとき雪片に、たちまち掩はれ、たちまちまたあらはれて、風にもてあそばるるに似たり。 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ていないと思われて、ひとつ輝く星の灯火が、暗い空にすかすと、はっきりと見えるが、降りしきる鷺の羽毛のような雪に、たちまちおおわれ、たちまちまたあらわれて、風にもてあそばれているかのようだった。 ### 戸口に入りしより疲れを覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふごとくに梯を登りつ。庖廚を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返りて、「あ。」と叫びぬ。「いかにかしたまひし。御身の姿は。」 戸口に入ってから疲れを感じて、体の節々の痛みが我慢できないので、這うように階段を上った。台所を過ぎ、部屋の戸を開いて入ったところ、机のところでおむつを縫っていたエリスは振り返って、「あっ。」と叫んだ。「どうなさったの。あなたのお姿は。」 ### 驚きしもうべなりけり、蒼然として死人に等しき我が面色、帽をばいつのまにか失ひ、髪はおどろと乱れて、幾たびか道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汚れ、ところどころは裂けたれば。 驚いたのも当然だった。蒼ざめて死人と変わらぬ私の顔色、帽子はいつのまにかなくなり、髪はくしゃくしゃに乱れて、何度も道でつまづいて転んだせいで、服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ裂けていたので。 ### 余は答へんとすれど声出でず、膝のしきりにをののかれて立つに堪へねば、椅子をつかまんとせしまでは覚えしが、そのままに地に倒れぬ。 私は答えようとしたが声が出ず、膝がどうにも震えて立ってもいられなかったので、椅子をつかもうとしたまでは覚えているが、そのまま床に倒れた。 ### 人事を知るほどになりしは数週の後なりき。熱はげしくて譫語のみ言ひしを、エリスがねんごろにみとるほどに、ある日相沢は尋ね来て、余が彼に隠したる顛末をつばらに知りて、大臣には病のことのみ告げ、よきやうに繕ひおきしなり。 周囲の人のことが分かるようになったのは数週間後だった。熱が高くてうわごとばかり言っていたのを、エリスがなにくれとなく面倒を見ていたが、ある日相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた事の次第を詳しく知って、大臣には病気のことだけ告げ知らせ、いいように取り繕っておいたのだった。 ### 余ははじめて病牀に侍するエリスを見て、その変はりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたく痩せて、血走りし目はくぼみ、灰色の頬は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計には窮せざりしが、この恩人は彼を精神的に殺ししなり。 私は初めて、病床の傍らにいるエリスを見て、その変わりはてた姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどく痩せて、血走った目は落ちくぼみ、灰色の頬の肉は落ちていた。相沢の援助で日々の生活には困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのだ。 ### 後に聞けば彼は相沢に逢ひし時、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞こえあげし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」と叫び、その場に倒れぬ。 後で聞けば彼女は相沢に会ったとき、私が相沢にした約束を聞き、またあの夕べ大臣に聞かせた承諾の言葉を知り、急に椅子から飛び上がって、顔色はまさに土のようになって、「私の豊太郎さんは、そこまで私をだましていらしたのね。」と叫び、その場に倒れてしまった。 ### 相沢は母を呼びてともにたすけて床に臥させしに、しばらくして醒めし時は、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、我が名を呼びていたくののしり、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、またにはかに心づきたるさまにて物を探りもとめたり。母の取りて与ふるものをばことごとくなげうちしが、机の上なりし襁褓を与へたる時、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。 相沢は母を呼んでともに助けてベッドに横にさせたが、しばらくして気がついたときは、目はまっすぐに見たままで側の人にも気づかず、私の名前を呼んで激しくののしり、髪をむしり、布団を噛みなどし、また急に気がついた様子で物を探し求めた。母が取って渡したものはみんな投げ捨てたが、机の上のおむつを手渡したとき、確かめてみて顔におしあて、涙を流して泣いた。 ### これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴なること赤児のごとくなり。医に見せしに、過劇なる心労にて急に起こりしパラノイアといふ病なれば、治癒の見込みなしと言ふ。 このあとは騒ぐことはなかったが、精神の働きはほとんど全く出来なくなって、その壊れたさまは赤ん坊のようだった。医者に診せると、激しい心労によって急に起こったパラノイアという病気なので、治癒の見込みはないと言う。 ### ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾たびか出だしては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。ただをりをり思ひ出だしたるやうに「薬を、薬を。」と言ふのみ。 ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んできかず、その後はあのおむつひとつを身につけて、何回も出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れはしないけれど、これすらもそう意識してのことではないと思える。ただ時々思い出したように「薬を、薬を。」と言うだけ。 ### 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙をそそぎしは幾たびぞ。大臣に随ひて帰東の途に上りし時は、相沢とはかりてエリスが母にかすかなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しし子の生まれむ折のことをも頼みおきぬ。 私の病気はすっかり治った。エリスの生きている屍を抱いてあふれる涙を注いだのは何度だったか。大臣に従って東に帰る旅に出発したときは、相沢と相談してエリスの母にわずかばかり生計を営むに充分な程度の資金を渡し、あわれな心を病んだ女の胎内に遺した子が生まれた時のことも頼みおいた。 ### 嗚呼、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。 相沢謙吉のような良い友は世に二人とはいないに違いない。けれども私の脳裏に一点の彼を憎む心が今日までも残っているのだ。 ## 感想 * エリスが狂うのでなく豊太郎が狂ってほしかった
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